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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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失くした、にしては

 翌朝の学院は、雪の白さだけが少し増していた。


 中庭の石畳には薄く雪が残り、踏まれた場所だけ灰色に濡れている。始業前の回廊を行き交う生徒たちの濃紺の制服が、冬の光を受けて淡く浮かび上がり、革靴の音は石壁に短く返った。吐く息は白く、口元を離れるとすぐにほどける。図書塔の扉が開くたび、古い紙と乾いたインクの匂いが廊下へ流れ、暖炉の煙を含んだ学院の朝の匂いに混ざっていた。


 ルシアンは、生徒会室の机に昨日の記録を広げていた。テオ・メルツ。三年、北寮所属。古語課題のため図書塔の閲覧席を使い、その後講堂へ移動し、寮に戻ってから万年筆がないことに気づいた。紛失物として処理するなら、図書塔、講堂、北寮の順に確認を入れればいい。手順は単純だった。


 だが、昨日のテオの目が残っている。ルシアンの手元にある万年筆を見た瞬間、彼はためらいより先に「自分のものだ」と言った。近くで見れば違うと分かるものに、あそこまで視線を奪われた。形見だと口にした時の声は整っていたが、袖口を掴んでいた指だけは、布の同じ場所に皺を刻み続けていた。


 失くした、にしては。


 セレネの短い言葉も、紙の余白に落ちたインクのように残っていた。


「殿下」


 扉の向こうから声がして、書記役の下級生が顔を覗かせた。


「図書塔の管理担当が参りました」


「通せ」


 入ってきたのは、図書塔の鍵を預かる老教員だった。白い髭に雪の粒がつき、濃紺の外套の肩も湿っている。彼は手袋を外しながら丁寧に礼をし、革表紙の記録簿を机に置いた。


「昨日の閲覧席の件でございますね」


「ああ。三限後、古語課題のために使用された席を確認したい」


「こちらに」


 記録簿の紙は古く、頁をめくるたび乾いた匂いが立った。日付、時間、閲覧席番号、使用者名。インクの濃さが行によって違い、急いで書かれた名前は少し崩れている。ルシアンは昨日の日付を追い、テオの名を見つけた。


 閲覧席十二番。その近くに、南寮の上級生二人。数行離れて、ドミニク・レイフォードの名がある。昨日、テオが口にし、ルシアンが書き留めた名だった。


「十二番の周辺は」


「窓際でございます。向かいに十三番と十四番、斜め後ろに十五番、少し離れて十六番です。レイフォード卿は十六番をお使いでした」


「忘れ物は」


「閉塔前に確認しております。紙片や栞ならともかく、万年筆ほどのものを見落とすことはまずありません」


「届け出もないな」


「ございません」


 そこで廊下の鐘が鳴った。始業を告げる音が石壁に当たり、生徒たちの足音が一斉に速くなる。ルシアンは記録簿を閉じ、老教員へ返した。


「分かった。昼休みに席を確認する」


「承知いたしました」


 老教員が退室すると、ルシアンも書類を畳んだ。今すぐ図書塔へ行きたいところではあったが、ルシアンもセレネも学生だ。紛失物の確認で講義を抜けるわけにはいかない。生徒会長であるほど、そういう手順は崩せなかった。


 窓際で貸出記録を見ていたセレネが、静かに顔を上げた。濃紺の女子制服に白いブラウス、胸元の青い宝石のブローチ。長い黒髪は背に落ち、雪明かりを受けた横顔は、いつものように感情の色が薄い。


「セレネ」


「はい、殿下」


「昼休みに図書塔へ行く。講義後は同席者の聞き取りだ」


「承知しました」


 それだけ言うと、彼女は記録を閉じた。黒髪が肩のあたりで少し揺れる。幼い頃から茶会で向かい合い、同じ学院に通い、同じ生徒会室にいる。それでも、彼女がどこを見ているのかは、時々、紙の裏側に書かれた文字を読むように掴みにくい。


 昼休みの図書塔は、朝よりも静かだった。高い窓から入る光は白く、棚に並ぶ古書の背を薄く照らしている。暖炉には火が入っていたが、石壁が吸い込んだ冷たさまでは消せず、閲覧室の床は靴底からじわりと冷えを返した。紙と革とインクが長い年月をかけて混ざった匂いの中で、セレネは十二番の席のそばに立っていた。


 ルシアンは机の前で足を止めた。窓際の席は広く、課題用紙を広げ、辞書を置き、万年筆を置いても余裕がある。足元には鞄を掛ける金具があり、椅子も重い。うっかり払い落としたとしても、床に落ちれば音がする。


「ここに置き忘れた可能性は」


「そうですね……」


 セレネは机の端へ視線を落とした。


「置いたままなら、閉塔前に見つかります」


「床に落ちたなら」


「清掃で拾われます」


「誰かが持っていったなら」


 セレネは閲覧室の机の並びへ目を移した。


「この席から出入口までは、誰かの前を通ります」


 短い言葉だったが、意味は通る。図書塔の閲覧室は静かだ。誰かが席を立てば椅子が鳴り、床板が軋み、近くの生徒は顔を上げる。万年筆が落ちたなら、拾う動きも目に入る。けれど、管理担当にも、同席していた生徒にも、その記録はない。


「取り違えは」


「同じ型があれば、あり得ます」


「だが、今のところ同じ型を持っていたのは、俺たち以外にいない」


「はい」


 昼休みの鐘が遠くで鳴り、閲覧室にいた数人の生徒が静かに席を立った。ルシアンは記録用紙を閉じた。


 届け出の手順どおり、講堂の使用記録と北寮の担当にも確認は入れてあった。講堂ではテオが座った席の周りに、北寮では彼の私室と廊下に、万年筆らしきものは残っていない。拾われた記録も、誰かが預かったという届けもなかった。どこを辿っても、ただ無い、という答えだけが返ってくる。


 午後の講義が終われば、同席者の聞き取りを始める。


 放課後の生徒会室には、聞き取りのための椅子が一脚置かれた。窓の外では雪がまた細く降り始め、回廊を歩く生徒の影が硝子にぼやけて映る。紙とインクの匂いに、暖炉で焦げる薪の匂いが重なっていた。


 南寮の上級生二人は、どちらも大きな違いのない証言をした。テオは窓際で古語の課題を写していた。席を立ったのは一度、辞書棚へ向かった時だけ。講堂へ移動する鐘が鳴る少し前には、紙をまとめて鞄に入れていた。万年筆そのものを見たかと問えば、一人は「濃い色の軸だったと思う」と答え、もう一人は「覚えていない」と言った。


 ありふれた答えだった。隣に座った相手の顔は覚えていても、その手元の筆記具の傷まで見ている者は、まずいない。まして、目立たない奨学生の持ち物となればなおさらだ。


 次に呼ばれたテオは、昨日と同じように、どこか落ち着かない様子で入ってきた。制服の肩には、外の雪が溶けた跡が残っている。


「図書塔の席へ戻ったな」


「はい」


「何を確認した」


「机の周りと、床と、辞書棚です。閲覧室の係の方にも聞きました」


「講堂では」


「自分が座った席と、その周りを見ました。友人にも聞きましたが、見ていないと」


「寮では」


「鞄と机と、寝台の周りです」


 ルシアンは記録を取りながら、テオの返答を聞いていた。順番は合っている。少なくとも、嘘を急いで作っているような乱れは少ない。だが、どの場所にも万年筆はない。どこで消えたのかという一点だけが、細い霧の中に沈んでいる。


「昨日、図書塔で誰かに万年筆を貸したか」


「いいえ」


「見せたか」


「課題を書いていただけです」


「お前の万年筆が祖父の形見だと、知っている者は」


 テオの指が袖口を掴み直した。布の皺が昨日より深く見える。


「同室の者は知っています。何度か話しました。あとは、古語の課題で一緒になった生徒が聞いていたかもしれません」


「誰に話した」


「はっきりとは……ただ、古い物なので、インクが詰まりやすいと話したことがあります。その時に、祖父のものだと」


「傷のことは」


「母から聞いた傷のことなら、同室の者には言いました」


 ルシアンはペン先を止めた。


「同室以外には」


「たぶん、言っていません」


 たぶん、という語尾は小さかった。形見として大切にしていた物のはずなのに、どこまで話したかは曖昧になる。大事だからこそ繰り返し話したのかもしれない。大事だからこそ、誰に話したか覚えていてもよさそうでもある。


「分かった。下がっていい」


「はい」


 テオは礼をして出ていった。扉が閉まる直前、彼の視線は机の上を一度だけ掠めた。ルシアンは、手元の万年筆を記録用紙の横へ置いた。昨日まではただの贈り物だった一本が、今はテオの言葉をまとっているように見える。


 入れ替わるように、レイフォード伯爵家の嫡男が通された。ドミニク・レイフォードは、扉の前で丁寧に礼をした。濃紺の制服は肩から袖まで乱れがなく、襟元の白い布もまっすぐだった。金の刺繍もよく手入れされている。教員や下級生が彼を評する言葉を、ルシアンは何度か聞いたことがある。勤勉で、礼儀正しく、成績も安定している。目の前の姿は、その評判から少しも外れていなかった。


「お呼びとのことで参りました、殿下」


「昨日の図書塔について確認する。座れ、ドミニク・レイフォード」


「失礼いたします」


 ドミニクは椅子を引き、音を立てないよう腰を下ろした。手袋を外し、膝の上で揃える。指の動きに、余分な癖がない。


「昨日、三限後に図書塔で古語課題をしていたな」


「はい。十六番席を使っておりました」


「テオ・メルツは見たか」


「はい。窓際の席にいました」


「何をしていた」


「古語の写しを。辞書を何度か確認していたようです。課題には集中していました」


 ルシアンはペン先を止めた。


「親しいのか」


 ドミニクは、そこでわずかに目を瞬かせた。驚いたというほどではない。だが、それまで乱れなく続いていた受け答えの上に、薄い皺が一つ寄ったように見えた。


「いいえ。古語の課題で同じ閲覧室を使うことはありますが、個人的な交友はありません」


「……そうか。万年筆は見たか」


「遠目に、濃い色の軸は見えました。形見という話ですよね」


 ルシアンは、記録用紙へ落としていた視線を上げた。


「どこで聞いた」


「噂で聞いたと思います」


「誰からかは」


「申し訳ありません。はっきりとは覚えておりません」


「そうか」


 それ以上は追わなかった。聞き取りとしては、ここで足りる。席、時刻、見たもの、聞いた話。どれも証言の形をしていた。乱れもない。ドミニクは最後まで姿勢を崩さず、ルシアンの短い合図に合わせて立ち上がった。


「下がっていい」


「失礼いたします」


 ドミニクは椅子を戻して礼をした。扉へ向かう所作にも乱れはない。余計な言葉を残さず、生徒会室を出ていく。閉じた扉の向こうで、靴音が廊下の石に触れ、少しずつ遠ざかった。


 ルシアンは記録用紙に残った名前を見下ろしていた。証言は整っている。席の位置も、時刻も、図書塔での動きも、誰かを責めるには足りない。だが、整いすぎた文字列の中に、ひとつだけ手触りの違うものが混じっていた。


「レイフォードは、テオと親しいわけではないと言ったな」


「ええ」


 セレネは記録の端を指先で押さえた。


「ですが、よく見ています」


「窓際の席、辞書棚へ立ったこと、使っていた万年筆の色」


「それから、形見だという話も」


 ルシアンはペン先を止めた。


「噂で聞いた、と言っていた」


「はい」


 セレネは淡々と頷いた。


「奨学生の万年筆が祖父の形見だという話は、伯爵家の嫡男の耳に入るほど広がるものでしょうか」


 ルシアンは答えなかった。


 学院には噂が多い。夜会の相手、成績順位、誰がどの教師に気に入られているか。だが、テオ・メルツは目立つ生徒ではない。古びた万年筆を使っていることは近くの席なら分かるかもしれない。けれど、それが祖父の形見だという話まで、親しくもない相手が知っている。


 そこには、ただの同席者というには近すぎる距離があった。


「……親しくない、にしては」


 セレネが低く言った。


 ルシアンは、記録用紙の上に並んだ二つの名を見下ろした。テオ・メルツ。ドミニク・レイフォード。片方は目立たない奨学生で、もう片方は礼儀正しい伯爵家の嫡男だ。二人の間には、学院の同じ閲覧室にいたという線しか引けないはずだった。


 それなのに、ドミニクは見ている。窓際の席も、辞書棚へ立ったことも、万年筆の色も、形見だという話も。


 窓の外で、雪がまた強くなっていた。白い粒が硝子に当たり、すぐに水になって下へ落ちる。廊下を走る生徒の足音が近づき、扉の前を通り過ぎていった。生徒会室の中には、紙とインクと、暖炉で焦げる薪の匂いだけが残る。


 ルシアンは記録用紙の端に、細く線を引いた。


 失くした万年筆。傷のある形見。同じ型の一本。親しくないはずの相手が知っていた、持ち主の事情。


 ただの置き忘れなら、誰がどこで拾ったのかを探せばいい。だが、今、机の上に残っているのは、紛失物の届け出だけではなかった。テオとドミニクの間にあるはずのない距離が、雪の白さの中で、細い影のように見え始めていた。


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