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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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諦めた、にしては

 雪は、午後になっても細く降っていた。王立学院の中庭では、低い植え込みの上に白が薄く重なり、枝先から落ちた雪が石畳に触れて、粉のように崩れている。回廊の窓硝子は内側から曇り、外の景色は水で滲ませた絵のように輪郭を失っていた。生徒会室の暖炉には火が入っていたが、古い石壁に染み込んだ冷えまでは追い払えず、机の下へ置いた靴先から、じわりと冬が這い上がってくる。


 放課後の鐘が鳴ってから、まだそれほど経っていない。廊下の遠くでは寮へ戻る生徒たちの声が低く混じり、誰かが抱えた教本の角が壁に触れて、乾いた音を残していった。室内には、紙とインクと、暖炉で温められた古い木の匂いがある。ルシアンは机の上に広げた記録を見下ろし、最後の一枚を他の紙の端に揃えた。


 聞き取りは、もうほとんど尽きていた。図書塔でも、講堂でも、北寮でも、万年筆は見つからない。記録の上に残ったのは、誰かが確かに見たという曖昧な証言と、誰も持ち去るところを見ていないという空白だけだった。


 物を探すのは、ここでいったん止める。


 ルシアンがそう決め、記録の端を揃えた時、扉の外で足音が止まった。生徒会室を訪ねる生徒は珍しくない。だが、その足音は扉の前まで来てから、すぐには叩かなかった。廊下で立ち止まったまま、靴底が石床をわずかに擦る音だけがする。やがて、控えめに二度、扉が叩かれた。


「殿下。テオ・メルツです」


 ルシアンはセレネへ視線を向けた。彼女は窓辺の近くに立ち、手元の記録を読んでいた。学院の濃紺の制服に金刺繍の入った襟元、低く結われた黒髪、雪明かりを受けた白い横顔。授業中の彼女より、今は少しだけ生徒会の補佐役としての顔に近い。海色の瞳が、紙から扉へ静かに移る。


「入れ」


 扉が開くと、廊下の冷えが細く流れ込んだ。テオ・メルツは、制服の上に外套を羽織っていた。肩のあたりに小さな雪の粒が残り、溶けた水が濃紺の布を点々と深くしている。北側の外廊でも通ってきたのか、靴先には白く濁った雪泥がわずかについていた。


 前に見た時よりも、礼が深かった。


 王族に対する礼としては間違っていない。けれど、数日前まであれほど必死に万年筆の行方を追っていた生徒の姿として見ると、ルシアンには妙に整いすぎて見えた。テオは顔を上げる前に、胸の前で指を組み直した。爪の先が、反対の手の皮膚を押している。


「殿下」


「どうした」


「先日は、私のためにお時間をいただき、ありがとうございました」


 声は低く抑えられていた。廊下から吹き込んだ冷気のせいか、言葉の端が少しだけ固い。


「それを言うために来たのか」


「はい。それと」


 テオはそこで一度、唇を結んだ。視線はルシアンの顔へ届く前に、机の角で止まる。


「万年筆の件は、もう探していただかなくて結構です」


 暖炉の薪が、内側から小さく崩れた。火の粉が赤く上がり、すぐに灰の上へ沈む。ルシアンは、テオの言葉ではなく、その時に動いた指先を見ていた。組んでいた手がほどけかけ、すぐにまた固く組まれる。親指の爪が、皮膚に浅い跡を作っていた。


「見つかったのか」


「いいえ」


「なら、なぜ止める」


「私の不注意でした。大事にしていた物を失くした。それだけです。殿下とヴァルキュリア令嬢のお手を、これ以上煩わせるようなことではありません」


 すらりと出てきた言葉だった。けれど、その滑らかさに、ルシアンは引っかかった。授業で暗唱を命じられた生徒が、意味より先に文をなぞる時のような、紙の上を読んでいる声に近い。テオは一度も言い淀まない。そのかわり、言い終えた後の呼吸だけが浅かった。


「それだけ、か」


 ルシアンは椅子から立ち上がった。机を回り込むと、床板の上に、テオの靴から落ちた水が小さく残っているのが見えた。暖炉の熱で端だけ乾き、中心にはまだ濡れた光がある。


「お前は、あの万年筆を形見だと言った。前にここへ来た時、お前は自分の不注意だと言いながら、それでも探していた。数日で引くなら、理由を言え」


 テオは顔を上げた。薄い茶色の瞳が、ルシアンの方へ向く。だが、合ったと思った瞬間、わずかに横へ流れた。窓、机、暖炉。それから、扉。どれも見た時間は短い。けれど扉のところだけ、視線の戻りが遅かった。


「理由は、ありません」


「ないわけがないだろ」


「もう、いいんです」


「何がいい」


 テオの喉が小さく動く。外套の裾を握る手が、制服の生地ごと皺を寄せていた。


「私が、そう決めました」


 その言葉には、決めた人間の落ち着きがなかった。ルシアンは黙ってテオを見た。奨学生が学院で余計な波風を避けたがることは分かる。高位貴族の子息に囲まれ、教師の評価ひとつが今後の進路に響く立場なら、王子に頼ることさえ目立つ。だが、今のテオは、目立つことを避けているだけではない。何かを言えば、その言葉で自分の足元まで崩れると知っている者のように口を閉ざしている。


「誰かに何か言われたのか」


 問いかけた瞬間、テオの指が、組んだ手の甲を強く押した。答えは返ってこない。沈黙の隙間で、廊下を歩く数人の声が近づき、扉の前を通り過ぎていった。曇り硝子の向こうを、濃紺の制服の影が横切る。笑い声は低く抑えられ、金刺繍の線だけが一瞬、火のように細く光った。


 その中の一人が、扉の前でわずかに歩を緩めた。


 ルシアンは顔を向けなかった。だが、影の高さと姿勢に覚えがあった。廊下の中央を当然のように歩く生徒は、学院に何人もいる。けれど、立ち止まらないまま周囲を従わせる歩き方をする者は限られていた。扉の向こうの影は、こちらを見ることもなく通り過ぎ、足音は階段の方へ遠ざかっていく。


 テオは、その足音が消えるまで顔を上げなかった。


「今の前に、誰と会った」


「誰とも」


 早い返事だった。早すぎて、ルシアンは眉を寄せる。


「授業は南棟だったな」


「はい」


「ここへ来るなら、中央回廊を使えばいい。北の外廊を通る必要はない」


 ルシアンの視線が、テオの靴先に落ちる。雪泥は少し溶けて、床板に細い筋を作っていた。テオもそれに気づいたのだろう。片足を引こうとして、途中で止める。


「少し、歩いていました」


「何のために」


「……考え事を」


「万年筆のことか」


 テオは答えなかった。唇を開きかけ、乾いた音も出さずに閉じる。目元だけが、ほんのわずかに歪んだ。怒りにも、悔しさにも、恐れにも似ている。けれどルシアンには、そのどれかだと断じられなかった。ただ、彼が何かを胸の内側へ押し戻したことだけは分かった。


 セレネが、窓辺から静かに歩いてきた。靴音は小さい。彼女はテオの正面には立たず、机の端に置かれた記録の傍で足を止めた。白い指が、積まれた紙の角へ触れる。


「メルツ様」


 テオが彼女を見る。セレネの海色の瞳は、いつも通り波がない。そこに責める色はなく、慰める色もなかった。


「失くした物を、諦めに来たようには見えません」


 短い言葉だった。テオはすぐに否定しなかった。否定する言葉を探すように、視線だけが机の上をさまよい、最後には何も拾えないまま落ちた。


「申し訳ありません」


 謝罪だけが返ってくる。誰に対してのものか、ルシアンには分からなかった。


「本当に、もう結構です。これ以上は、私の方が困ります」


 テオの言葉が、そこで少しだけ乱れた。


「困る?」


 ルシアンが低く返すと、テオはすぐに唇を閉じた。握った指に力がこもり、濃紺の布に細い皺が増える。さっきまで用意してきたように並んでいた言葉が、その一語のあとだけ、続かなかった。


 ルシアンは机の角に手を置いたまま、テオを見た。


「何に困る」


 テオの肩がわずかに上がった。すぐに戻る。けれど、それで十分だった。彼は答えない。答えたくないのではなく、答えれば別の扉まで開いてしまうと分かっているような閉じ方だった。


「テオ」


 名を呼ぶと、彼はようやく顔を上げた。目の下に薄い影がある。ここ数日、眠れていないのかもしれない。だが、それを憐れむだけでは足りなかった。この少年は何かを隠している。失った側に見えながら、同時に、手放してはいけない何かを自分の中へ抱え込んでいる。


「盗まれたと言えない事情があるなら、それも含めて言え。相手が貴族でも、俺の前で黙る理由にはならない」


「盗まれたとは言っていません」


 返事は小さかったが、そこだけははっきりしていた。


「では、失くしたのか」


「……はい」


「本当に」


「はい」


 二度目の返事は、少し掠れた。テオは深く頭を下げる。顔を隠すための礼に見えた。背筋は伸びている。けれど、指先は外套の裾を掴んだままだ。


「私が失くしました。だから、もう調べないでください」


 調べないでください。


 ルシアンは、その言い方を聞き逃さなかった。探さなくていい、ではない。調べないでくれ。万年筆の行方より、その周りに触れられることを避けている。物が戻れば済む話なら、そんな言葉にはならない。


 窓の外で、枝に積もった雪が落ちた。白い塊が石の縁に当たり、崩れて散る。室内の暖炉の火が揺れ、テオの横顔に赤い影を置いた。彼はその光の中でも、顔色を取り戻さなかった。


「分かった」


 ルシアンが言うと、テオの指が一瞬だけ緩んだ。安堵か、失望か、判断する前に、彼はまた礼をした。


「ありがとうございます」


「ただし、こちらから呼んだ時は来い」


「はい」


「それから」


 テオが扉へ向かいかけた足を止める。


「次に同じことを言うなら、自分の言葉で言え。今のは、誰かに整えられた文章みたいだった」


 テオは振り返らなかった。肩越しに見える頬の線が、暖炉の火でわずかに強張っている。やがて彼は小さく頭を下げ、扉を開けた。廊下の冷えが入ってきて、紙の端が微かに持ち上がる。雪に濡れた石の匂いが、インクの匂いと混ざった。


 扉が閉まると、生徒会室には暖炉の音だけが残った。ルシアンはしばらく、テオが出ていった扉を見ていた。曇り硝子の向こうに、もう彼の影はない。廊下を通り過ぎた背の高い影も消えている。けれど、何も残っていないはずの扉の向こうに、今の足音の順番だけが残っているようだった。北の外廊を通ってきた靴。用意された謝罪。扉の向こうの影に合わせて伏せられた顔。そして、探さないでくれではなく、調べないでくれと言った口。


「殿下」


 セレネが記録の一枚へ目を落とした。そこには、万年筆が消えた日付と、テオの最初の申告だけが書かれている。彼女の指は文字の上に触れず、紙の余白で止まっていた。


「終わらせたいのは、万年筆のことだけではないのかもしれません」


 それ以上、セレネは言わなかった。ルシアンも、すぐには答えなかった。万年筆は、まだ見つかっていない。けれど今、目の前で動いたのは、物の行方ではなかった。テオの言葉が変わった。態度が変わった。廊下を選ぶ道順が変わり、口にする願いが変わった。


 あの一本が消えたことで、隠しておきたい何かまで動き出したのかもしれない。


 ルシアンは机の上の記録を閉じた。紙の束が重なり、乾いた音がする。雪はまだ降っている。中庭の足跡は少しずつ白に覆われていくが、完全には消えていない。目を凝らせば、誰かがどこを通ったのか、浅い窪みだけがまだ残っていた。


 テオ・メルツは、もういいと言った。自分で決めたと言い、失くしただけだと言い、深く礼をして部屋を出ていった。


 それでも、彼の手は最後まで布を離さなかった。声は謝っているのに、目は終わりを見ていなかった。万年筆を諦めた人間の軽さは、どこにもなかった。


 諦めた、にしては。


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