胴軸の中
探さなくていい、ではなかった。
昨夜のテオ・メルツの声が、ルシアンの耳に残っていた。
もう調べないでください。
万年筆を失くしただけなら、探すな、で済む。返ってこないと諦めたのなら、もう結構です、と頭を下げれば終わる。だが、テオが最後に選んだのは、調べるな、という言葉だった。
何を調べられたくないのか。
行方か。持ち去った相手か。それとも、万年筆そのものか。
ルシアンは生徒会室の机の上に、自分の万年筆を置いた。黒い胴に金具のついた、テオのものと同型の一本だった。セレネから贈られたそれは、傷もなく、手入れされた表面にランプの火を細く映している。窓辺では、昼のあいだに溶けかけた雪が硝子を伝い、細い水筋を作っていた。暖炉の火は入っているが、古い石壁に残った冷えは抜けきらず、机に置いた紙の端が、指先にひやりと触れる。
書くための道具なら、見るべきところはペン先とインクの通りだ。だが、調べるなと言われた以上、見るべき場所はそこだけではない。
ルシアンは金具の下に指をかけた。継ぎ目は飾りのようにも見えたが、力を入れる角度を変えると、内側で細い螺子がほどける感触があった。
胴軸は、思っていたよりも軽い力で回った。
黒い軸がわずかに緩み、机上のランプの光が、その継ぎ目に細い線を作る。さらに回すと、胴は静かに外れた。中は空だった。インクを入れる部分とは別に、細く乾いた空洞がある。薄く巻いた紙なら入る。羊皮紙でも、幅を合わせれば隠せる。戻してしまえば、外からはただの万年筆にしか見えない。
ルシアンは外した胴軸を机に置いた。黒い筒が木の面に触れ、軽い音を立てる。紙とインクの匂いの中で、その音だけが妙に乾いて聞こえた。
「外れるのですね」
セレネの声が、机の向こうから落ちた。彼女は記録の束を抱えたまま、外された胴軸へ視線を向けている。学院の濃紺の制服に金刺繍の入った襟元、低く結われた黒髪、雪明かりを受けた白い横顔。海色の瞳は、驚きよりも先に、物の形を見ていた。
「ああ。俺も今まで気づかなかった」
セレネは黒い空洞を見つめたまま、少しだけ目を細めた。
「もしかしたら、この中に何かあったのかもしれませんね」
ルシアンは、胴軸の内側に残る細い影を見た。何かを隠すには、それで十分な空洞だった。
「それは、失くしたら困るものだったということか」
「ええ。少なくとも、調べられたくないものではあったのかもしれません」
セレネはそれ以上言わなかった。ルシアンもすぐには胴軸を戻さなかった。昨夜、テオは深く頭を下げ、何度も謝り、最後に自分から口を閉ざした。万年筆が戻らなくてもいいのではなく、その周りに触れられることを避けた。もし、テオの万年筆も同じ構造なら、あの傷だらけの形見は、書くためだけに祖父から渡されたものではなかったのかもしれない。
「セレネ」
「はい」
「メルツの身元記録をもう一度見る。生徒会に残っているものだけで足りなければ、図書塔へ行く」
セレネは短く頷いた。ルシアンは外した胴軸を元に戻し、螺子が噛み合う感触を指先で確かめてから、万年筆を胸元へしまった。扉の外では、放課後の廊下を行く足音が少しずつ減っている。遠くで教本を閉じる音、誰かの笑い声、雪を踏んで中庭へ出ていく生徒たちの靴音が、石造りの壁に薄く反響していた。
生徒会室の資料で分かることは限られていた。奨学生台帳にあるのは、テオ・メルツの成績、推薦者、保護者名、授業料免除の理由だけだ。地方教区の司祭と学院の古典学教授が推薦者として名を連ね、父の欄には斜線が引かれている。財産欄は空に近い。それだけなら、貧しいが優秀な奨学生の記録で終わる。
だが、備考の端にだけ、古い筆跡で短く書き足された言葉があった。
旧姓確認済み。
ルシアンはその一行を見て、指を止めた。奨学生の記録に、普通そんな注記はいらない。成績と身元保証が揃っていれば足りるはずだ。家名を名乗ること自体に確認が必要だったのなら、メルツという名には、今のテオから見えない古い層がある。
「図書塔へ行く」
ルシアンが言うと、セレネはすぐに記録を閉じた。
「貴族名鑑ですか」
「ああ。現行のものじゃない。古い家系録と、寄付者名簿も見る」
図書塔へ続く階段は、午後の終わりには人が少なかった。石段は冷えていて、手すりに触れると指の腹に鉄の冷たさが残る。上へ進むほど、紙と革の匂いが濃くなった。塔の高い窓には雪が吹きつけ、細かな粒が硝子の外側で白く散っては消えていく。普段の学生が使う閲覧棚を過ぎ、さらに奥の古い資料棚へ入ると、積もった埃の匂いが混じった。
司書はルシアンの名を聞くと、鍵束を取り出し、古い貴族名鑑と家系録の棚を開けた。革表紙は乾いて白く擦れ、金の題字はほとんど剥げている。頁をめくるたび、紙粉が指先に残った。ルシアンは現行の名鑑から遡り、セレネは寄付者名簿を静かに開いていく。彼女の指は紙を急かさず、破れやすい端を避けるように動いた。
メルツの名は、現行の貴族名鑑にはなかった。数年前の名簿にもない。さらに古い家系録へ遡ると、ようやく薄い文字でその名が出てくる。
メルツ家。かつて地方領主家の管理役を務めた家筋。
その記述は、そこで途切れていた。爵位の記載も、現在の当主名もない。ルシアンは次の版を開く。そこには、メルツの名は見つからなかった。爵位を失った家、断絶した家、婚姻で名を変えた家には短い注記がつくことが多い。だが、メルツ家の欄にはそれもない。ただ、前の版にあった家名が、次の版では消えていた。
「消えていますね」
セレネが低く言った。
「ああ。だが、理由が書かれていない」
ルシアンはさらに古い頁へ視線を戻した。消える前のメルツ家。その同じ時代の寄付者名簿で、セレネの指が止まっていた。彼女は紙には触れず、余白を押さえるように手を添える。
「殿下」
ルシアンが隣へ移ると、そこにはレイフォード伯爵家の名があった。寄付額は大きく、学院の講堂改修に関わっている。寄付者の名が整った筆跡で並ぶその下に、判読しにくい小さな注記が残っていた。
メルツ家文書整理。
それが何を意味するのかは分からない。誰が整理したのか、何のために学院の寄付者名簿にその言葉が添えられたのかも、ここには書かれていない。けれど、二つの家名は同じ時代の紙の上に並んでいた。学生の万年筆の紛失には、古すぎる名前だった。
ルシアンはしばらく、その小さな注記を見ていた。ドミニク・レイフォードが、親しくもない奨学生の万年筆へ向けた温度。昨日、扉の外を通り過ぎた背の高い影。テオが北の外廊を回って来た靴跡。どれもまだ一本の線にはならない。だが、紙の上で並んだ家名が、別々だったものを少しずつ近づけていく。
「この名簿、借りられるか」
ルシアンが司書へ問うと、老いた司書は眉尻を下げた。
「持ち出しはできません。ですが、こちらで閲覧される分には」
「では、メルツをここへ呼ぶ」
司書は一瞬だけ目を瞬かせたが、余計なことは言わず、静かに頭を下げた。
テオが図書塔の奥へ来たのは、夕刻に近い時間だった。塔の窓の外は薄い灰色に沈み、雪は細い糸のように降っている。古い閲覧机の上にはランプが二つ置かれ、火の色が名鑑の黄ばんだ紙を淡く照らしていた。部屋には暖炉がない。椅子の脚が石床を擦る音が、普段よりも大きく聞こえる。
テオは外套をきちんと留めていた。洗い古した制服の袖口は擦り切れ、指先は冷えで赤い。茶色の癖毛には、溶けかけた雪の粒が少し残っている。彼は部屋へ入るなり、机の上に広げられた家系録と寄付者名簿に気づいた。顔色が大きく変わったわけではない。ただ、目が頁の端に落ちたまま、すぐには戻らなかった。
「殿下」
「座れ」
「……はい」
テオは椅子に腰を下ろしたが、背は預けなかった。膝の上で両手を組み、指先を隠すように握っている。ルシアンは机の上に、自分の万年筆を置いた。黒い胴に金具が光る。テオの目がそこへ吸い寄せられた。
「これはお前の万年筆と同型だが、このように胴軸が外れることは知っているか」
ルシアンは万年筆を手に取り、ゆっくりと胴軸を回して外した。中の空洞を見せる。ランプの火が黒い内側に細く反射し、そこだけ深い穴のように見えた。
テオの睫毛が動いた。ほんの小さな反応だった。けれど、昨夜の用意された謝罪より、ずっと正直だった。
「……知っています」
「お前の万年筆にも、何か入っていたのか」
答えはすぐには返ってこなかった。塔の上で風が鳴り、硝子の向こうに白い雪が流れる。下の階から、誰かが本を閉じる音が一度だけ響き、それからまた古い紙の匂いだけが残った。
テオは膝の上で組んだ手を見下ろしていた。指先が、片方の爪の縁を押している。何かを言えば戻れなくなると分かっているような沈黙だった。やがて彼は、胴軸の空洞ではなく、ルシアンの制服の胸元へ視線を上げた。
「殿下」
「ああ」
「もし私が話したら、守っていただくことはできますか」
声は小さかった。だが、謝罪の時のように整えられたものではなかった。
「何からだ」
テオはすぐには答えない。扉の方へ視線が流れ、すぐに戻る。図書塔の奥には、司書の歩く音と、遠くで頁をめくる音があるだけだった。
「家名からです」
「誰の」
「……レイフォード家の」
セレネの指が、机の端で止まった。ルシアンはテオを見たまま、外した胴軸を机に置いた。
「話せ。俺の前で口にしたことを理由に、お前を潰させはしない」
テオはその言葉を聞いても、すぐには頷かなかった。唇を結び、膝の上の手をほどき、また握る。ようやく、小さく息を吐く。
「祖父が、亡くなる前に言いました。これだけは手放すな、と」
ルシアンは口を挟まなかった。セレネも黙っている。彼女は机の横に立ち、テオの正面を避けるようにして、寄付者名簿の余白へ視線を置いていた。
「ただの古い万年筆だと思っていました。祖父が使っていた物で、私にはそれくらいしか残せないから、と」
テオはそこで唇を湿らせた。ランプの光が、彼の頬の薄い影を濃くする。
「でも、学院に入る前、母が一度だけ言ったんです。メルツの名で王立学院へ行くなら、何も知らないふりをしなさい、と」
「何を知らないふりだ」
テオの目が、机上の家系録へ落ちる。消えたメルツの名と、寄付者名簿に残るレイフォードの名。その二つの間に、彼の視線が細く引っかかった。
「分かりません。いえ……分からないことにしていました」
「レイフォード家のことか」
テオの肩がわずかに動いた。否定はなかった。肯定もない。だが、その沈黙は昨日のようにただ閉じたものではなく、閉じた内側から何かが軋んでいるようだった。
「祖父は、あの家の名前を口にしませんでした。母も、しません。ただ、学院の名簿を見た時、レイフォードの名があるなら余計なことはするな、と言われました」
「それで、お前は余計なことをしなかったのか」
テオは答えなかった。組んだ手を一度ほどき、また握る。指先が膝の上で小さく迷う。
「殿下。私は、誰かを訴えに来たわけではありません」
「では何をしに来た」
「分かりません」
その返事は、用意された言葉ではなかった。テオ自身も持て余しているように、声の最後が落ちる。
「ただ、祖父の万年筆を持ってここへ来れば、何か分かるのかもしれないと……そう思っただけです。祖父は何も言いませんでした。でも、あれを持っていれば、いつか必要になると」
「中に何が入っていた」
テオは顔を上げた。薄い茶色の瞳が、初めてまっすぐルシアンを捉える。そこにあるものを、ルシアンはすぐには名づけられなかった。恐れだけではない。悔しさだけでもない。自分でも扱いきれないものを、長い間、古い文具の中へ預けてきた人間の顔だった。
「……見ていません」
「本当か」
「開けたことは、ありませんでした。開けてはいけない気がしていました」
「だが、胴軸が外れることは知っていた」
テオの口元が固くなる。否定しない。ルシアンは机の上の万年筆を見た。開けたことがないのに、外れることを知っている。祖父から聞かされたのか、母から聞いたのか。それとも、開けようとして途中で止めたのか。どれもあり得る。だが今、彼はそれ以上を言わない。
セレネが静かに口を開いた。
「守れと言われた物を、調べないでほしかったのですね」
テオは彼女を見た。短い言葉に、返す声が見つからないようだった。やがて、視線だけを机へ落とす。
「……はい」
その一語は小さかった。だが、昨日の「もう結構です」より、ずっと重かった。
ルシアンは家系録と寄付者名簿を、テオの前へ静かに向けた。紙の端は脆く、無理に押さえれば割れてしまいそうだった。古い版にだけ残るメルツ家の名。次の版から消えた欄。レイフォード伯爵家の寄付記録。そして、メルツ家文書整理という小さな注記。
「ここに、お前の家とレイフォード家の名が並んでいる」
テオの指が膝の上で止まった。
「知っていたか」
「……詳しくは」
「詳しくは、ということは、何かは知っているな」
ランプの火が揺れた。塔の高い窓に風が触れ、硝子が低く鳴る。テオの顔に落ちる影も、同じように揺れた。
「昔、何かがあったのだと思います。祖父の父の代に」
「何が」
「言えません」
「知らないのではなく、言えないのか」
テオは唇を噛んだ。すぐに離す。噛んだ跡だけが薄く残った。
「殿下。伯爵家の名を、私の口から軽々しく出すことはできません。証拠もなく言えば、私だけでは済まない」
その言い方は、昨日までの弱々しい謝罪とは違っていた。怖がっているように見えながら、同時に、どこかで線を引いている。守られるだけの被害者ではない。言わないことを選んでいる者の硬さがあった。
「証拠は、万年筆の中か」
テオは答えない。けれど、目が胴軸の内側へ落ちた。その一瞬で十分だった。
ルシアンは深く息を吐き、外した胴軸を元に戻した。螺子が噛み合い、黒い胴が元通り一本の万年筆になる。外から見れば、ただの文具だった。贈り物にも、形見にも、紛失物にも見える。だが、その内側に薄い紙が一枚入っていたなら、意味は変わる。誰かの名前、古い約束、消された記録の端。何が書かれていたかは、まだ分からない。
分からないままなのに、テオはそれを失った。
「レイフォードは、この件にどこまで関わっている」
ルシアンが問うと、テオはゆっくり首を横に振った。
「分かりません」
「ドミニク・レイフォードと話したか」
テオの指が動いた。ほんの少し、膝の上の布を撫でる。癖のような動きだった。
「……話したことはあります。学院にいれば、何度かは」
「万年筆のことを」
「ありません」
「本当に」
「ありません」
返事は早くなかった。だが、嘘だと決めるには足りない。ルシアンはドミニクの顔を思い出した。あの地味な紛失に向けるには妙に温度のある眼差し。親しくないと言いながら見ていた距離。扉の外を通り過ぎた背の高い影。どれもまだ、決定的ではない。けれど、メルツ家とレイフォード家の名が同じ古い頁に並んだ今、偶然という言葉だけでは薄くなっていた。
「下がっていい」
ルシアンが言うと、テオは椅子から立ち上がった。足元が一度だけ床を擦る。彼は深く礼をして、扉へ向かう。だが、取っ手に手をかけたところで止まった。
「殿下」
「ああ」
「祖父は、あれを守れと言いました。でも、私は……何を守っていたのか、知らなかった」
振り返ったテオの顔は、ランプの明かりから半分外れていた。薄い茶色の瞳の色が、影の中で分かりにくくなる。
「知らないままなら、失くさなかったかもしれません」
その言葉を残して、彼は部屋を出た。廊下の冷気が一度だけ入り込み、扉が閉まると、また古い紙とインクの匂いが戻ってくる。
ルシアンはしばらく動かなかった。机の上には、古い家系録と寄付者名簿、それから自分の万年筆がある。傷のない黒い胴軸は、さっきまでと同じ姿でそこに横たわっていた。中が空だと知っても、外からは何も変わらない。
セレネが、寄付者名簿の小さな注記へ視線を落とす。
「二世代前ですね」
「ああ」
短く答えたルシアンの声は、紙の匂いの中へ沈んだ。
これは、テオ・メルツが万年筆を失くしただけの事件ではない。ドミニク・レイフォードが同級生の文具に興味を持っただけの話でもない。黒い胴軸の中に隠されていたかもしれない薄いものは、今ここにいる学生たちよりも前から、誰かの手を渡り、誰かの口を閉ざしてきた。
窓の外では雪が降り続いている。塔の硝子に白い粒が当たり、灯りの届かない外側で静かに溶けていく。けれど、紙の上に残った文字だけは、雪に覆われない。消えた家名と、消えずに残った注記。メルツとレイフォードの名が、古い傷のように同じ時代の頁に並んでいる。
事件の根は、今の学院にはなかった。二世代前の紙の奥で、まだ乾ききらずに残っていた。




