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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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祖父の証言

 テオ・メルツが図書塔の小部屋を出ていったあと、ルシアンは机に残された万年筆を見ていた。黒い胴に二本の金具。胴軸の中に細い空洞があると知った今、それはただの筆記具には見えない。


 机には、古い家系録と寄付者名簿が開かれている。メルツ家の名がある頁、次の版でその名が消えた頁、そしてレイフォード伯爵家の寄付記録。その下に小さく添えられた、メルツ家文書整理という注記。図書塔の高窓の外では、夕刻の雪が青く沈みはじめていた。ランプの火が古い紙を照らし、頁をめくるたび、乾いた糊の匂いが指先に残る。


 扉の向こうで、テオの足音は階段の方へ消えていった。あの少年は、胴軸を開けていないと言った。祖父の言葉も、母の警告も、守るべきものの形を教えてはくれなかったのだろう。机に残った万年筆だけが、答えを知っていた。


 セレネは家系録の写しを静かに重ねた。メルツの名がある頁と、消えた頁。その隣に、レイフォード家の名が並ぶ。紙の上では、二つの家が同じ時代に触れていた。


「セレネ」


「はい」


「俺はレイフォードの周りを当たる。友人、取り巻き、同じ寮の者だ。最近あいつが何を聞いていたかを拾う」


 セレネは机の上の万年筆へ視線を落とした。


「私は、テオ様と普段言葉を交わしている方を当たります」


「ああ。食堂、寮、図書塔、普段のやり取りだ。テオが何を大事にしていたか、誰がそれを知っていたかも聞いてくれ」


「分かりました」


 セレネは寄付者名簿に目印の紙片を挟み、家系録を閉じた。重い表紙が落ちる時、古い革の匂いがふわりと立つ。ルシアンは万年筆を布に包み、胸元へ収めた。


 図書塔を出ると、回廊の硝子窓に雪が触れては溶け、細い水筋を作っていた。放課後の学院には、まだ人の気配が残っている。講義棟の方からは椅子を引く音、階段を下りる革靴の音、食堂へ急ぐ生徒たちの低い話し声が、石壁を伝って届いた。


 ルシアンは、ドミニク・レイフォードと普段近くにいる生徒たちを当たった。友人、同じ寮の者、食堂で席を共にする者。レイフォードの名を出すと、礼儀正しかった声が少しずつ薄くなる。答える前に廊下を見る者、袖口を直すふりをする者、聞かれた言葉だけを返して余白を残す者がいた。


「最近、レイフォードがテオ・メルツについて何か尋ねていたことはあるか」


 背の高い男子生徒は、少し考えるように目を伏せた。ドミニクと同じ寮で、食堂でも近くに座ることが多いという。袖口の金刺繍を指で撫で、廊下を行き交う生徒たちへ一度だけ視線を流してから、声を落とした。


「そういえば、ある時から、やたらとメルツ君のことを聞かれるようになりました」


「どんなことだ」


「メルツ君はどんなやつだとか、普段誰といるのかとか。僕も親しいわけではないので、よく分からないと答えましたが」


「お前だけに聞いていたのか」


「いえ。たぶん、色々な人に聞いていたと思います。食堂でメルツ君の名前が出たこともありました」


 ルシアンは礼を言って、その生徒を下がらせた。次に声をかけたのは、テオと同じ講義を取り、図書塔でも何度か近くの机に座ったことがあるという生徒だった。彼は最初、レイフォードの名を出すと困ったように笑ったが、やがて思い出したように眉を寄せた。


「そういえば、メルツ君が大切にしている物はないか、と聞かれたことがあります」


「大切にしている物?」


「はい。よく分からなかったんですけど、いつも持っている物は何かとか、失くしたら困る物はあるかとか」


「お前は何と答えた」


「僕は何も。そこまで親しくなかったので」


「今日のことは、こちらから許可するまで話すな」


「はい、殿下」


 聞き取りを終えたルシアンは、生徒会室へ戻った。図書塔から持ち出した写しは、あらかじめ生徒会室の机へ移させてある。暖炉の火は細く、窓の外では雪が中庭の石畳を薄く濡らしていた。濡れた外套の匂いと、積まれた書類の紙の匂いが混ざっている。


 しばらくして、セレネも戻ってきた。彼女は数枚の聞き取りをまとめた紙片を持っていた。名前は伏せ、場所と内容だけが短く並んでいる。セレネはその一枚を、机の上へ静かに置いた。


「メルツ様が大切にされているものは、祖父の形見の万年筆だと話した方がいました」


「誰に」


「レイフォード様に尋ねられた生徒です。本人は軽い雑談だと思って答えたそうです。同じ内容を、食堂で同席した方も聞いていました」


 セレネは紙片の端を揃えた。


「二人とも、同じ言い方でした」


 ルシアンは、セレネが置いた紙片を一枚ずつ読んだ。食堂、図書塔、寮の談話室。場所は違うのに、どの証言にも同じ流れがあった。レイフォードはテオ本人ではなく、周囲から少しずつ聞いている。何を大事にしているか。何を失えば困るか。その先に、祖父の形見の万年筆があった。


「ということは、ドミニク・レイフォードは、あの万年筆が形見だと知っていたということだな」


「はい」


「そして、テオが大切にしている物を探していた」


 ルシアンは寄付者名簿の写しへ視線を落とした。レイフォード伯爵家の名。その下に残る、メルツ家文書整理の注記。古い紙の上の接点と、今の学院で集めた声が、同じ万年筆へ寄っていく。


「レイフォードを呼べ」


 生徒会室に控えていた役員が、すぐに礼を取った。


「ドミニク・レイフォード様を、こちらへ」


「ああ」


 役員が出ていくと、廊下の足音が遠ざかった。ルシアンは紙片の角を揃えた。家系録、寄付者名簿、聞き取り、万年筆。別々の場所から来たものが、机の中央で一つの細い線を作っていた。


 ドミニク・レイフォードが現れたのは、塔の鐘が夜を告げる少し前だった。濃紺の制服に乱れはなく、襟元の金刺繍も袖口も整っている。扉の前で礼を取る姿は、伯爵家嫡男として美しく整えられていた。


「殿下。お呼びと伺いました」


「入れ、レイフォード」


 ドミニクは室内へ入り、勧められた椅子に腰を下ろした。机の上の家系録、寄付者名簿、万年筆へ順に視線が動く。短い視線だったが、万年筆の金具で一度止まった。


「お前は、テオ・メルツについて調べていたな」


 ドミニクの口元に、薄い笑みが乗った。


「調べていた、とは大げさです。学院では、誰かの話題が出ることもございます」


「どんなやつか。普段誰といるか。大切にしている物はないか。そう聞いていたそうだ」


 笑みの端が、わずかに止まった。


「雑談です」


「祖父の形見の万年筆を大事にしていると聞いたな」


「……誰がそのようなことを」


「答えろ」


 ドミニクは膝の上に置いた指を組み直した。動きは小さい。けれど、それまで飾りのように整っていた手元に、初めて生活の癖が出た。


「聞いたかもしれません」


「テオの万年筆も見ていたな。握り口の傷と、金具のあたりを何度も」


「目に入っただけではありませんか。彼はよく机に置いていましたから」


 ルシアンは机の上の万年筆を指先で少しだけ動かした。ドミニクの視線が、金具を避けるように軸の中央へ落ちる。


「お前は普段、万年筆を使うか」


「いいえ。私は羽根ペンを使うことが多いです」


「そうか」


 ルシアンは自分の万年筆を机の中央へ置いた。テオの万年筆と同型だが、握り口に傷はない。金具もまだ擦れていない。


「俺はこの型を、自分で分解したことがない。テオが失くした万年筆と、俺のものは同じデザインらしいんだが、これのインクを変えるのをどうしたらいいか知っているか?」


 ドミニクは短く一礼し、万年筆へ手を伸ばした。扱いは丁寧だった。蓋を外す時も、軸を机に触れさせない。金具の位置を確かめるように指を添え、胴の継ぎ目を軽く撫でる。その指は迷わず、金具の下の継ぎ目へ届いた。


「この型は、金具の部分を回すと外れます。ただ、戻す時に軸がずれると締まりが悪くなりますので……」


 言い終える前に、ドミニクの指が金具の上で止まった。


 ルシアンはすぐには口を挟まなかった。蓋を外された万年筆の黒い軸が、ランプの火を細く返していた。窓の外で雪が硝子に触れ、水になって落ちる。暖炉の火は低く、紙の端だけが赤く照らされている。


「続けろ」


 ドミニクは一度だけ瞬きをした。


「……無理に外さない方がよろしいかと。インクを替えるだけなら、胴軸までは」


「胴軸」


 ルシアンは、その言葉だけを拾った。


 ドミニクの指が止まる。万年筆はまだ彼の手の中にあった。


「普段は羽根ペンを使うと言ったな」


「はい」


「では、なぜその型の胴軸が外れることを知っている」


 ドミニクは答えなかった。


「同じ型を、どこで扱った」


 ドミニクはすぐに答えなかった。手の中の万年筆を机へ戻す時、金具が皿に触れるような細い音がした。置かれた軸は、ほんの少しだけルシアンの方へ傾いている。


「……同じ型を、見たことがあっただけです」


「誰の」


「覚えておりません」


「テオの万年筆ではないのか」


 ドミニクの口元に、かろうじて笑みの形が戻った。


「それは、私を疑っておられるという意味でしょうか」


「まだ、そうは言っていない」


 ルシアンは机の上の紙片を一枚、指先で押さえた。


「お前はテオのことを周囲に聞いていた。大切にしている物を尋ねた。祖父の形見の万年筆だと聞いた。そして、その万年筆と同じ型の扱いを知っている」


 ドミニクは、もう答えなかった。


「今、それはどこにある」


「それ、とは」


「テオの万年筆だ」


「私は知りません」


「なら、万年筆以外に持ち去ったものもないな」


 ドミニクの視線が、今度は寄付者名簿へ動いた。レイフォード伯爵家の寄付。その下にある、あの小さな注記。ルシアンはそれを見てから、静かに言った。


「レイフォード。今ここで出せば、お前が自分から差し出した記録は残る。出さないなら、学院長と寮監を呼び、正式に調べる」


 ドミニクの指が、膝の上で止まった。


「……殿下は、私にレイフォードの名を差し出せとおっしゃるのですか」


「違う。お前が今も隠しているものを出せと言っている」


 しばらくして、ドミニクは制服の内側へ手を入れた。取り出した細い革の書類挟みは、外から見れば講義の覚書を入れる程度のものだった。角に雪の湿りが残っている。どこかへ移す途中だったのか、あるいは部屋へ置いておくことを避けたのか。ルシアンには、そこまでは分からない。


 書類挟みの留め具が外される。中から出てきたのは、細く巻かれた羊皮紙だった。長く閉じ込められていたらしく、広げようとしても端が戻る。羊皮紙の端が巻き戻ろうとすると、セレネが黙って文鎮を置いた。白い指は、文字の上には触れない。ルシアンはランプを近づけた。古いインクの濃淡が、羊皮紙の上に残っている。


「テオを呼べ」


 ドミニクの顔がルシアンへ向いた。何か言いかけたが、言葉にはならなかった。


 テオ・メルツが生徒会室へ戻ってきた時、彼は扉の前で足を止めた。室内にドミニクがいることに気づき、それから机の上の羊皮紙を見た。制服の脇に下ろした手が、行き場をなくしたように指先だけ動いた。


「これは」


「お前の万年筆の中にあったものだ」


 ルシアンが言うと、テオの唇がわずかに開いた。羊皮紙へ伸びかけた視線が、途中で止まる。彼は机から半歩離れたまま、指先だけを制服の縫い目へ押しつけた。


「……僕は、読んだことはありません」


 そこだけは迷わなかった。だが、視線は羊皮紙の文字へ吸い寄せられていく。


 ルシアンは羊皮紙へ目を落とした。古い文字はところどころ擦れていたが、筋だけは読めた。


 行の途中で、インクが一度大きく滲んでいた。書き手が筆を止めたのか、紙に水が落ちたのかは分からない。その下に、税として納めるはずだった銀貨の数と、差し替えられた帳簿の日付が残っていた。


「レイフォード家が預かっていた領地の収入記録に、書き換えがある。税として納めるはずの銀貨の一部が消え、その責任を、記録係だったメルツ家当主に負わせた、とある」


 テオの指が、制服の脇を強く握った。


「証人の名が三つある。帳簿を見た者、銀貨の運搬に立ち会った者、それから主家へ報告した者。だが、そのうち二人は、後にレイフォード家の屋敷へ召し抱えられている」


 ドミニクは椅子に座ったまま、机の木目を見ていた。口元に残っていた笑みの形は、もう消えていた。羊皮紙には、消えた銀貨の額、差し替えられた記録、メルツ家当主が職を失った日付が、ところどころ欠けながらも残っていた。


「レイフォード家は、その後、学院へ多額の寄付を行っている。寄付者名簿には、メルツ家文書整理の注記がある」


 テオは羊皮紙を見つめていた。祖父が守れと言ったもの。母が知らないふりをしろと言った理由。その中身を、彼は今、初めて知っている。


「祖父は……これを」


 机へ伸びかけた手は、羊皮紙に触れる前に止まった。


「なぜ隠した、レイフォード」


 ルシアンが問うと、ドミニクは顔を上げた。整った顔立ちは崩れていない。けれど、声に乗っていた余裕は削れていた。


「私が生まれる前の話です」


 低い声だった。


「私が命じたことではありません。私が記録を書き換えたわけでも、証人を買ったわけでもない。けれど、その紙が外へ出れば、父も、母も、弟たちも、レイフォードの名で生きる者すべてが裁かれる」


「だから隠したのか」


「守ろうとしただけです」


 テオの指が机の縁を強く掴んだ。けれど彼は、何も言わなかった。


「私に言われても困ります。私が知った時には、もう家はレイフォードとして続いていました。父も、母も、弟たちも、その名で生きている」


 ドミニクの指が、膝の上で強く組まれた。


「私に、何ができたというのですか」


「お前は、テオの万年筆からこれを抜いた」


「……はい」


「どこで」


「図書塔です。彼が席を外した時、机に残っていました。中に何があるのか、確かめるだけのつもりでした」


 ドミニクは、自分の膝の上へ視線を落とした。


「開けた以上、戻すことはできませんでした」


 ルシアンは羊皮紙、万年筆、家系録、寄付者名簿を順に見た。テオの知らなかった羊皮紙がドミニクの書類挟みから出たことで、万年筆の紛失は、二世代前の記録へ繋がった。


「レイフォード」


 ルシアンは声を低くした。


「これは、お前の家だけの問題では済まない。学院の記録、寄付の経緯、メルツ家の除籍理由。全部、正式に調べる」


「私の処分は」


「今ここで決めることじゃない。お前が羊皮紙を隠したことは正式に扱う。テオについては、なぜ調査を止めようとしたのかを確認する。二人とも、今夜は学院の外へ出るな」


 テオが顔を上げる。唇が動いたが、声は出なかった。調べないでくれと言ったこと、万年筆を失くしただけだと閉じようとしたこと。その理由まで、羊皮紙の横に置かれている。


 机の上には、羊皮紙と万年筆と古い名簿が残っていた。どれも薄く、軽いものばかりだった。けれど、その下に沈んでいる年月だけが、誰の手にもすぐには動かせない。


 祖父の証言は、ようやく読まれた。


 けれど、その紙を誰の罪として扱うのか、まだ誰も答えを持っていなかった。


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