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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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最初から、相棒だった

 万年筆事件の処遇は、翌日、学院長へ預けられた。ルシアンは生徒会長として、万年筆、羊皮紙、古い家系録、寄付者名簿、聞き取りの記録を示し、報告を終えた。


 ドミニク・レイフォードには、万年筆の窃盗と羊皮紙の隠滅について、学院規則に沿った処分が下されることになった。レイフォード家については、二世代前の先代が犯した罪を現当主だけに背負わせるには重すぎたが、家紋を継ぐ者としての責任は免れず、領地の一部を王家へ返上することで決着した。


 テオ・メルツの紛失偽装は、厳しい処分ではなく、注意と聞き取りに留められた。万年筆の中身については一切知らず、祖父の言葉と母の沈黙に縛られていた事情が汲まれたためだった。学院は消されたメルツ家の名を古い記録へ照らし直し、レイフォード家の寄付記録とともに、正式な調査へ回すことを決めた。


 それで、古い羊皮紙に書かれた冤罪が、すべて裁かれたわけではない。だが、万年筆の胴軸に隠されていたものは、もうテオ・メルツひとりの手の中で、何かも分からないまま守られるものではなくなった。


 あの事件は、セレネと初めて解いた事件だった。


 そう呼べるほど大きな事件になるとは、当時のルシアンは思っていなかった。彼は証言と時刻と規則を追い、セレネは万年筆の傷や折り目、金具に残ったわずかな違和感を拾った。役割を決めたわけではない。打ち合わせたわけでもない。それなのに、二人の視線は最初から同じ机の上へ自然に集まり、散らばっていた紙片を一つの形へ寄せていた。


 卒業してからも、それは変わらなかった。


 セレネは星見宮へ移り、王族の習わしを学びながら、特務隊の仕事にも当然のように手を貸すようになった。礼儀作法の教師が残していった分厚い作法書の隣に、事件記録や聞き取りの控えが置かれる日もあった。彼女はそれを面倒だとも誇らしげだとも言わず、ただ必要なものとして受け取っていた。


 最初は、相棒だと思っていた。


 事件を追う時、隣にいるとやりやすい。誰も拾わない一点を拾い、ルシアンの見落とした沈黙に指を置く。そういう相手だと思っていた。


 けれど、今はそれだけでは足りなかった。


 セレネは、相棒という言葉だけで収まる存在ではなくなっていた。事件の場で隣に立つだけではなく、帰る部屋の灯りの中にいてほしい。眠る前に声を聞き、朝、同じ窓の光の下で顔を見たい。守りたいと思うたび、触れたいと思うたび、胸の奥にあるものはもう、理解したいという興味でも、優秀な補佐への信頼でもなかった。


 愛してやまない。


 その言葉を、ルシアンは今さらのように掌の中で確かめた。


 学院の廊下に残っていた半歩分の距離は、もう夜の灯りの中に溶けていた。



 星見宮の夫婦の部屋には、夜が降りていた。


 暖炉の火は低く保たれ、香木を混ぜた薪の匂いが、厚い絨毯と寝台の布へ静かに染みている。窓の外では王城の庭が月を受け、白い石壁の影が細く伸びていた。冬の夜は硝子越しに冷えているはずなのに、セレネの体温が触れている右腕だけは、ひどく甘く熱を持っていた。


 セレネは、ルシアンの腕の中で本を読んでいた。深い藍色の夜用ドレスの布がソファの上で柔らかく重なり、黒髪が彼の胸元から腕へ流れている。彼女は片手で本を支え、もう片方の手をルシアンの袖口に軽く添えていた。無意識なのかどうかは分からない。ただ、その細い指が頁をめくる間に彼の袖を掴み直すたび、ルシアンの理性は少しずつ役に立たなくなっていく。


 掌には、セレネから贈られた万年筆があった。黒に近い深い軸。胴の中央に嵌め込まれた海色の宝石。暖炉の火が揺れるたび、その青は彼女の瞳と同じ色を沈める。


「思い出していましたか」


 セレネは本から目を離さずに言った。寄りかかったままの声は近く、言葉が胸元でほどけるように届く。


「ああ」


 ルシアンは万年筆を机へ置き、空いた手で彼女の黒髪に触れた。指を通すと、絹糸のように滑って、火の色を受けた髪が青く艶めく。


「お前と初めて解いた事件のことを、少しな」


「万年筆の件ですか」


「そうだ。今思えば、あの時から随分自然だった。俺はお前を呼ぶのに、ほとんど迷わなかったし、お前も当然みたいに横にいた」


「必要だと思いましたので」


「……そういうところが、昔からお前らしい」


 ルシアンが髪の一房を指に絡めると、セレネの視線がようやく本から外れた。海色の瞳が、少しだけ上目に彼を見る。


「嫌ですか」


「まさか」


 ルシアンはその黒髪へ口づけた。火と香油と、セレネ自身のほのかな匂いがした。甘すぎない、冷えた花に似た香り。唇を離しても、髪の感触がしばらく残る。


「むしろ、困ってる」


「困るのですか」


「お前が可愛すぎてな」


 セレネの指が、頁の端で止まった。伏せた睫毛の影が白い頬に落ちる。火の色がそこへ薄く差して、彼女の横顔をいつもより柔らかく見せていた。


「……本が読みにくくなります」


「読ませる気がなくなってきた」


「ルシアン」


 小さく窘めるように名を呼ばれただけで、胸の奥が満たされる。学院の廊下で聞いた「殿下」とは違う。名前の響きが近い。礼儀のために置かれていた一歩が消えて、今は腕の中から届く。


「もう一度」


「……何をですか」


「名前」


 セレネは本を伏せたまま、少しだけ視線を逸らした。暖炉の火が頬に薄く差し、白い指先が頁の端を押さえる。


「ルシアン」


 柔らかな声だった。


 それだけで十分だった。ルシアンは、セレネを抱く腕に力を込めた。


 彼女の膝に伏せられていた本が、指先から滑る。頁が一度だけめくれ、絨毯の上へ柔らかな音を立てて落ちた。


「本、落ちました」


「落としておけ」


 低く返すと、セレネの指がルシアンの袖を掴んだ。咎めるような言葉のあとに、困ったような吐息が落ちる。


「もぉ……」


 その声が、ひどく甘かった。


 セレネは本を拾おうとせず、ためらいながらルシアンの背へ腕を回した。細い指が上着の布を掴み、少しずつ力を込めてくる。その重みが胸へ届いた瞬間、ルシアンの奥で、抑えていたものが静かに熱を持った。


 なんて、愛しい。


 どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。学院の廊下で半歩後ろにいた時も、星見宮へ移ってきた時も、事件記録と礼儀作法の本を同じ机に並べていた午後も、彼女はずっと隣にいた。相棒だと思っていたものの内側に、こんなにも深い熱があったことを、ルシアンは遅れて知った。


 その遅さが、今さら悔しかった。


 ルシアンはセレネの黒髪に顔をうずめた。香油と石鹸、暖炉の火を含んだ布の匂いが混ざり、呼吸のたびに近くなる。離したくない、と腕が勝手に訴えそうになるのを、彼はかろうじて抑えた。


「ルシアン?」


 髪の向こうで、セレネの声が揺れた。


「どうしました?」


「……少しだけ、このままでいさせてくれ」


 答える代わりに、セレネの指が背中の布を掴み直した。拒む動きではなかった。それだけで、ルシアンの理性はまた甘く削られる。


 ゆっくり顔を上げると、セレネの海色の瞳がすぐ近くにあった。暖炉の火を映したその色は、いつもより深い。唇が何かを言いかけるようにわずかに開き、それから閉じる。背へ回された腕は、ほどけない。


「嫌なら、止める」


 ルシアンが言うと、セレネは小さく眉を寄せた。困ったような顔なのに、指先は彼の上着を離さない。


「嫌では、ありません」


 その一言が、最後の理性を揺らした。


 ルシアンは彼女の頬に触れ、まず確かめるように唇を重ねた。触れて、離れて、また触れる。セレネの睫毛が伏せられ、背に回された指がかすかに強くなる。


 唇が離れたのは、ほんの一瞬だった。セレネが息を吸う、そのわずかな間を待ってから、ルシアンはまた彼女へ触れた。今度は先ほどよりも深く、けれど急かすのではなく、腕の中にいる温度を確かめるように。


 角度を変えるたび、腕の中のセレネの呼吸が小さく揺れた。息を吸うために唇が離れる。そのわずかな間さえ惜しくて、ルシアンはまた戻ってしまう。怖がらせたいわけではない。ただ、彼女が近くにいることを、唇でも確かめずにはいられなかった。


「……ルシアン」


 名前を呼ばれると、胸の奥が甘く痺れた。


「苦しいなら、離れる」


 そう言いながらも、腕はすぐにはほどけなかった。セレネは少しだけ頬を染め、彼の胸元へ額を寄せる。


「離れてほしいとは、言っていません」


 ルシアンは、負けた。


 もう一度、唇を重ねる。浅く、深く、何度も。セレネの指が背中の布を掴み、時々、呼吸の隙間で小さく震えた。そのたびに、ルシアンは頬を撫で、髪へ触れ、逃げ道を塞がないようにしながら、離したくない気持ちだけを伝える。


 ようやく唇を離しても、遠ざかれなかった。額が触れるほど近い距離で、互いの呼吸だけが重なる。絨毯の上に落ちた本は開いたまま、暖炉の熱で頁の端をわずかに反らせていた。


「……本が」


「あとで拾う」


「ルシアン」


「今は、こっちを見ろ」


 セレネは少しだけ視線を逸らした。けれど、背に回された腕はそのままだった。


 相棒だった。今も、そうだ。けれどそれ以上に、腕の中で本を落とし、困ったように彼を呼びながら、それでも背中へ腕を回してくれる、愛してやまない人だった。


 机の上の万年筆が、暖炉の火を受けて海色に光っている。最初の事件は、古い万年筆から始まった。今、ルシアンの手元には、セレネが選んだ新しい万年筆がある。隠された羊皮紙の代わりに、彼女の瞳と同じ色の石が嵌め込まれている。


 これからも、紙に残った名や、消された記録や、誰かが見ないふりをした罪が、二人の前に置かれるのだろう。学院の廊下で拾った足音は、まだどこかへ続いている。けれど、その先を見る時、ルシアンはもう隣を探して迷わない。


 セレネの指が、彼の背中で静かに布を掴んでいた。


 夜の星見宮には、薪の音と、近い呼吸と、二人ぶんの衣擦れだけが残っていた。


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