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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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愛しすぎる血筋

 フェリクスの研究室には、午後の光が斜めに差し込んでいた。


 王城の北側にあるその部屋は、いつ来ても紙と薬草と硝子の匂いが混ざっている。壁一面の棚には、古文書、標本瓶、乾燥させた花弁、鉱石片、用途の分からない細い器具が隙間なく並び、窓際にはミレイユが選別したらしい香草の束が、柔らかな紐で吊るされていた。乾いた葉が風に触れるたび、青く苦い匂いが薄く広がる。


 ルシアンは扉の前で、一度だけ立ち止まった。


 事件の資料を借りる時も、古文書の解読を頼む時も、毒や薬の話を聞く時も、この部屋へ来ること自体に迷ったことはない。以前にも、セレネのことで兄に助言を求めたことはあった。だからこそ、今日また同じような話を持ち込むことに、妙な気まずさがあった。事件のように証拠を並べれば答えが出るものではない。ただ、セレネを愛しすぎて、自分でも持て余しているという話だった。


「入れば?」


 中から、のんびりした声がした。


 ルシアンは眉を寄せ、扉を押し開ける。フェリクスは窓辺の机に向かっていた。淡い琥珀色の液体が入った小瓶を光に透かし、隣の硝子皿へ薬匙を置くところだった。袖口は緩くまくられ、髪はいつも通り少し乱れている。研究中の顔のままなのに、こちらを見る目だけが、すでに面白がっていた。


「また、そういう顔で来たね」


「どういう顔だ」


「事件じゃなくて、セレネ嬢のことを話しに来た顔」


「決めつけるな」


「違うの?」


 違わなかった。


 ルシアンが黙ると、フェリクスは薬匙を硝子皿の縁に置いた。小さな音が、乾いた薬草の匂いの中で澄んで響く。


「ほら。座りなよ。前より深刻そうな顔をしているけど、セレネ嬢と喧嘩でもした?」


「してない」


「じゃあ、進んだ方だ」


「言い方を選べ」


「選んだ結果だよ」


 フェリクスは悪びれもせず、椅子の背にもたれた。机の端には、ミレイユの筆跡らしい細かな覚え書きが置かれている。香油に使う花弁の乾燥時間、妊娠中に避ける薬草の名、試薬の濃度。乱雑な研究机の上で、その一枚だけはきちんと重しをされていた。触れられないように、大切に。


「そういえば、星見宮の部屋を移したんだって?」


 フェリクスは何でもないことのように言った。


 ルシアンの指が、椅子の背に触れたまま止まる。


「……誰から聞いた」


「王城の中で、第三王子と婚約者が夫婦の部屋へ移った話を、誰にも聞かれないと思ってる?」


「うるさい」


「別々の部屋じゃなくて、同じ部屋に。ふうん。なるほどね」


「何が、なるほどなんだ」


「いや。今日のお前の顔に、少し説明がついた気がして」


 フェリクスは肘をつき、にこにことこちらを見る。その視線があまりに腹立たしくて、ルシアンは椅子を引く音をわざと低く響かせて腰を下ろした。


「同じ部屋になって、何か困った?」


「……笑わないで聞いてほしい」


 フェリクスは黙った。


 正確には、黙ろうとした。唇が一度引き結ばれ、肩がわずかに揺れる。棚の上の標本瓶に午後の光が当たり、中の乾いた花弁が赤褐色に透けていた。ルシアンは、その瓶ごと兄に投げつけたい気持ちをかろうじて抑えた。


「その前置きで笑わないのは、なかなか難しいね」


「……真面目に聞け」


「聞くよ。とても聞きたい」


「その言い方がすでに信用できない」


「前にも相談に来たんだから、少しは信用してほしいな」


「その結果、今こうしてからかわれてるんだが」


「からかってないよ。弟の恋路を見守ってる」


 ルシアンは息を吐いた。暖炉の火が細く揺れ、机の上の小瓶に琥珀色の影を落とす。こんな話をするために来たのか、と自分でも呆れる。だが昨夜から、胸の奥に残った熱が収まらなかった。


 セレネが腕の中で本を落としたこと。困ったように「もぉ」と吐息を零したこと。名前を呼ばせるだけで、どうしようもなく満たされたこと。黒髪に顔を埋めた時の香り。離れてほしいとは言っていません、と背に回された指が布を掴んだこと。


 思い出すだけで、指先が熱を帯びる。


「セレネが」


「うん」


「可愛すぎて、本当にどうしようもない」


 言った瞬間、部屋の音がやけに細くなった。


 暖炉の薪が小さく鳴る。吊るされた香草が窓辺で擦れ、乾いた葉の音を立てる。フェリクスは一度だけ瞬きをし、それからゆっくり頷いた。笑わなかった。笑わなかったが、その顔は腹が立つほど分かっている者の顔だった。


「なるほど」


「何だ、その顔は」


「いや、順調そうで何より」


「順調なのか、これは」


「お前がセレネ嬢を可愛いと思って、どうしようもなくなって、僕のところへ来た。かなり順調だと思うよ」


「俺は、もう少し自制の利く人間だと思っていた」


「利いてる方じゃない?」


「どこがだ」


「本当に利いてなかったら、今ごろ僕のところで相談なんてしてないよ。セレネ嬢を抱きしめたまま、部屋から出てこない」


 ルシアンは反射的に言い返そうとして、言葉を失った。


 昨夜、実際にそうしたかった。腕の中で本を読ませているだけで足りず、髪に触れ、名前を呼ばせ、口づけた。落ちた本を拾わせる気にもならなかった。離れる隙間さえ惜しいなど、以前の自分なら鼻で笑っていたはずだ。


「……否定しきれないことを言うな」


 フェリクスはそこで、とうとう肩を揺らした。声を立てて笑うのではなく、楽しさを隠しきれないように唇を曲げる。


「アルヴェリアの家系は、愛しすぎちゃうんだよね」


 あまりに平然と言われ、ルシアンは眉を寄せた。


「何だ、それは」


「そのままの意味だよ。相手のことも、自分のことも、持て余すくらい愛しちゃう。僕だってミレイユを離せないから、よく分かるよ」


 フェリクスは本当に、何でもないことのように言った。


 机の上にはミレイユの覚え書き。窓辺には彼女が扱う香草。棚の端には、彼女が分類したらしい小瓶が整然と並んでいる。フェリクスの研究室なのに、ところどころにミレイユの手が残っていた。乱雑な書類の中で、彼女に関わるものだけが傷つかない場所へ置かれている。


「今は子がお腹にいるから夜伽はできないけど」


「兄上」


「何?」


「もう少し言い方を選べ」


「夫婦の話だよ。お前だって、いずれ分かる」


「今ここで詳しく聞きたいわけじゃない」


 フェリクスはくすくすと笑った。下品な響きはなかった。ただ、本当に当然の生活の一部を話している顔だった。


「でも、毎日キスはするよ。触れていないと落ち着かないし、同じ部屋にいるなら近くに座っていたい。ミレイユが本を読んでいても、髪に触れたくなる。手を握っていたくなる。お腹の子に悪いことはしないよ。医師にもミレイユにも怒られない範囲でね。でも、触れられる距離にいるのに触れないでいるのは、なかなかつらい」


「……分かるのが嫌だ」


「分かるんだ」


 フェリクスの目が楽しげに細まる。


 ルシアンは肘掛けに手を置き、額を押さえた。分かってしまう。昨夜、セレネが腕の中で本を読んでいた時、彼女の髪が胸元へ流れているだけで、何度も指を伸ばした。名前を呼ばせた。髪へ口づけた。本が落ちても拾わせなかった。


 自分だけがどうかしているのだと思っていた。王族特務隊隊長として、第三王子として、人前ではいくらでも顔を整えられる。だがセレネが相手になると、触れたい、近くに置きたい、声を聞きたいという欲が、じわじわと理性の縁を濡らしてくる。


「祖父上の代からかな」


 フェリクスは机の上の小瓶を一本、指で少しだけ横へずらした。


「王家は昔からそうだった、とは言わないよ。十九代目の頃には、側室を巡って随分揉めた記録もあるしね。でも、祖父上がどうしてああなったのかは分からないけど、あの辺りから溺愛の血が濃くなったみたいなんだ」


 フェリクスはそこで、ミレイユの覚え書きへちらりと目を落とした。


「父上も母上だけだった。叔父上も、エルミナ公爵家へ入ってからは、政務の書簡より夫人の体調を気にする手紙の方が多いらしいし、隣国へ嫁いだ叔母上なんて、国境を越えてまで惚気の手紙を送ってくるからね。あの世代から、どうにも一人に偏る。レオニス兄上も、リリアーナ様だけだろう。僕も、ミレイユ以外は考えられない。……で、お前はセレネ嬢だ」


 ルシアンは黙った。


 王家とは、本来、血を残すための仕組みを背負っている。政略も、家格も、同盟も、愛情だけでは測れないものがいくつも絡む。実際、古い王家の記録には、愛情ではなく権力と欲で人を傷つけた名も残っている。だが祖父の代から、どこかおかしいほど一人に傾く者が増えたらしい。父王は王妃だけを隣に置き、フェリクスはミレイユの香草ひとつを研究室で大切にしている。


 そしてルシアンは、セレネの髪に触れるだけで、己の血の熱さを持て余していた。


「レオニス兄上も、相当だと思うよ」


 フェリクスが、ふと思い出したように言った。


「レオニス兄上が?」


「うん。表では涼しい顔をしているけどね。リリアーナ様と赤ん坊の前では、目が違う。あの人、自分では隠せているつもりかもしれないけど、抱き上げる時の手がとても慎重なんだ。リリアーナ様が少し咳をしただけで、水差しの位置を見るし、赤ん坊が眠っている時は、部屋の扉を閉める音まで変える」


 ルシアンは、記憶の中のレオニスを思い返した。


 確かに、王太子はいつも淡々としている。会議では感情を見せず、必要な言葉だけを選び、誰より早く結論へ辿り着く。けれどリリアーナの傍に立つ時、わずかに肩の角度が変わる。赤子の泣き声が隣室から聞こえた時、書類をめくる手が一拍だけ止まったこともあった。


 あれも、そうだったのか。


「レオニス兄上までか」


「レオニス兄上こそ、だよ。長男だから一番抑えているだけで、あの人も相当愛しすぎる側だと思う」


「……救いがないな」


「あるよ。愛される相手が嫌がっていないなら、救いしかない」


 フェリクスの声は軽かったが、そこだけは妙に静かだった。


 ルシアンは窓辺へ視線を向けた。午後の光が、吊るされた香草を透かしている。乾いた葉の影が壁に揺れ、棚の硝子瓶の中で小さな光が動いた。


 嫌がっていないなら。


 昨夜のセレネの指が、背中の布を掴んだ感触が蘇る。離れてほしいとは言っていません、と胸元で告げた声。頬を染めながらも、腕をほどかなかった彼女。あの小さな許しを、一つずつ確かめるたび、ルシアンの中の熱は落ち着くどころか、深くなっていく。


「……怖いな」


 気づけば、声が落ちていた。


 フェリクスは笑わなかった。薬匙を弄んでいた指を止め、こちらを見る。


「何が」


「大事にしたいのに、触れたいと思う。守りたいのに、近くに閉じ込めておきたくなる。セレネが嫌がらないのを見ると、余計に歯止めが利かなくなりそうで」


 言葉にすると、胸の奥にあったものが少しだけ形を持った。


 セレネは物ではない。守るべき宝物でも、閉じ込めるための人形でもない。彼女は自分の足で隣に立ち、事件の場で紙の端を押さえ、必要ならルシアンの考えにも淡々と異を唱える。だからこそ、欲しいと思うたびに、壊さないよう手の強さを測りたくなる。


 フェリクスはしばらく黙っていた。暖炉の火が、細い薪の皮を鳴らす。


「その怖さがあるなら、大丈夫じゃないかな」


「そうか」


「うん。怖くなくなったら、少し危ない。でもお前は、ちゃんと怖がっている。相手を見て、止まる場所を探している。なら、セレネ嬢もお前の腕の中で本を落とせるんだと思うよ」


「……そこまで話した覚えはない」


「顔に書いてある」


「書いてない」


「書いてるよ。昨日、何かあった顔をしてる」


 ルシアンは口を閉じた。否定できなかった。


 フェリクスは楽しげに笑い、机の端に置かれていた菓子皿をルシアンの方へ押した。小さな焼き菓子が数枚。おそらくミレイユが持たせたものだろう。甘い香りが薬草の匂いの中へ混ざる。


「まあ、帰ってあげなよ」


「まだ相談の途中だ」


「もう答えは出てる顔だよ。セレネ嬢のところに帰りたいんだろう?」


 ルシアンは反射的に言い返そうとして、やめた。


 帰りたい。


 その一言が、あまりに素直に胸へ落ちた。星見宮の夫婦の部屋。暖炉の火。藍色の夜用ドレス。腕の中で本を読んでいたセレネ。彼女の黒髪に混じる香油と石鹸の匂い。名前を呼ぶ声。


 つい先ほど部屋を出てきたばかりなのに、もう戻りたかった。


「……愛しすぎる血筋、か」


 ルシアンが呟くと、フェリクスは嬉しそうに頷いた。


「そう。諦めると楽だよ」


「諦めたら歯止めがなくなるだろ」


「だから、愛される側にちゃんと聞くんだよ。嫌か、怖くないか、離れてほしいか。聞いたうえで、嫌じゃないと言われたら、もう少しだけ甘えてもいい」


 ルシアンは菓子皿の端へ視線を落とした。粉砂糖が皿の上に薄く散り、午後の光で白く光っている。


 もう少しだけ。


 昨夜もそう思った。もう一度、名前を呼んでほしい。もう少し髪に触れていたい。もう一度、口づけたい。何度も重ねるたび、足りなくなる。けれどセレネの指が背に回り、離れなくていいと告げるなら、その甘さを恐れすぎる必要はないのかもしれない。


「兄上」


「うん」


「今日の話は、誰にも言うな」


「ミレイユには?」


「言うな」


「でも、僕が嬉しそうにしていたら多分ばれるよ」


「そこを隠せ」


「努力はする」


「信用できない」


 フェリクスは笑った。研究室の窓辺で、吊るされた香草がかすかに揺れる。午後の光は傾き始め、硝子瓶の中の液体が少し濃い色に見えた。


 ルシアンは席を立った。


 来た時より、胸の奥は軽くなっていた。解決したわけではない。セレネへの想いが薄まったわけでも、自制が急に戻ったわけでもない。むしろ、愛しすぎる血筋などという厄介な名前を与えられたせいで、逃げ場はなくなった気もする。


 けれど、その逃げ場のなさが、嫌ではなかった。


 扉へ向かう途中、フェリクスが背後から声をかける。


「ルシアン」


「何だ」


「セレネ嬢によろしく。あと、あんまり困らせすぎないようにね」


「分かってる」


「でも、少しくらい困った顔も可愛いよね」


 ルシアンは扉の取っ手に手をかけたまま、深く息を吐いた。


「分かるのが腹立たしい」


 フェリクスの笑い声を背中で聞きながら、ルシアンは研究室を出た。


 廊下には夕方の光が伸びていた。磨かれた床に窓枠の影が細く落ち、遠くで侍女たちの衣擦れが過ぎていく。王城の匂いは、研究室よりずっと薄い。石と蝋と、乾いた冬の匂い。だがルシアンの意識はすでに、星見宮の方へ向いていた。


 愛しすぎる血筋。


 厄介で、少し情けなくて、けれど温かい言葉だった。


 ルシアンは歩きながら、セレネの名を胸の内で呼んだ。早く戻って、彼女の髪に触れたい。昨夜落とした本の続きを読んでいるなら、今度は拾ってやってもいい。もっとも、腕の中で読ませ続けられる自信はなかった。


 その程度には、もう諦め始めている。


 星見宮へ続く廊下の先で、冬の夕日が硝子窓を淡く染めていた。夕日の金が、ルシアンの瞳の奥で静かに強くなった。


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