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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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もう少しだけ

 星見宮へ戻る廊下には、冬の夕日がまだ細く残っていた。


 硝子窓の向こうで庭木の影が長く伸び、磨かれた石床には窓枠の線がいくつも落ちている。ルシアンの靴音がその線を越えるたび、フェリクスの声が胸の奥で蘇った。


 嫌か、怖くないか、離れてほしいか。聞いたうえで、嫌じゃないと言われたら、もう少しだけ甘えてもいい。


 もう少しだけ。


 その言葉は、軽いようでいて、妙に手の中に残った。許されるかどうかではない。求める前に、セレネを見ること。沈黙、視線、指先、呼吸、逃げるか、逃げないか。その全部を拾えということだった。


 扉の前に立つと、室内から紙の擦れる音がした。


 ルシアンは把手に手をかけ、ゆっくり開ける。


 夫婦の部屋には、暖炉の火と夜の支度を終えた布の匂いが満ちていた。香木を混ぜた薪が低く燃え、厚い絨毯の上へ橙色の光を落としている。寝台の帳はまだ下ろされておらず、窓辺の小卓には、セレネから贈られた万年筆が置かれていた。海色の宝石が、火の揺れに合わせて小さく光る。


 セレネはソファにいた。


 深い藍色の夜着は、胸元が大きく開いた薄い絹のドレスだった。首元から胸の上を細い紐が交差し、白い鎖骨と肩の線をはっきり見せている。袖は肩から手首まで透ける薄布で作られていて、肌を隠しているはずなのに、暖炉の火を受けると腕の輪郭が淡く浮かんだ。


 腰には細い紐が結ばれ、そこから金の飾り紐が垂れている。布は身体に沿うように落ち、片側だけ大きく割れて、膝から下の白い脚が覗いていた。上からは藍色の透ける羽織がかかり、縁には細い金の刺繍と薄いレースが揺れている。寝るための衣装だと言われれば、確かにそうなのだろう。だが、どこに指をかければほどけるのか、どの布を払えば肌が現れるのかを、見た者に嫌でも分からせる作りだった。


 黒髪は結わずに下ろされ、肩から胸元へ流れて、白い肌と藍色の布の境目を隠したり、見せたりしていた。


 その姿で、セレネは本を開いていた。だが、頁はほとんど進んでいないようだった。指先は同じ行のあたりを押さえたまま動かず、ルシアンが扉を開けた瞬間、海色の瞳だけが静かにこちらへ向いた。


「お帰りなさい、ルシアン」


 声は落ち着いていた。けれど、頁を押さえる白い指が、ほんの少しだけ本の端を掴み直した。待っていたのだと、そう言葉にされるより先に分かってしまう。


 ルシアンは扉の前で、喉の奥を低く鳴らした。


 声にする前の熱が、そこで引っかかる。胸元の紐、透ける袖、腰で緩く結ばれた紐、布の隙間から覗く脚。そのどれもが視界に入って、目を逸らすべきだと分かっているのに、逸らせなかった。


「……ただいま」


 返事が一拍遅れた。


 セレネは本を閉じた。薄い袖が揺れ、暖炉の火に透けて白い腕の線が浮かぶ。


「似合いませんか」


 その声はいつも通り静かだった。だが、問い方だけが少し違った。責めるでも、確かめるでもなく、彼の反応を待っている。


「似合わないわけがないだろ」


 ルシアンは外套を椅子へ掛けた。布が滑る音を聞きながら、一歩ずつ近づく。ソファの前まで来ても、まだ座らない。セレネの黒髪が胸元へ落ちて、細い紐の一部を隠している。その髪が揺れるだけで、隠されたものまで意識してしまう。


「リリアーナ様とミレイユ様からいただきました」


「また、姉上たちの仕業か」


「今日のお茶会でいただいた時に、お二人からルシアンが喜ぶから、と言われました」


 否定できなかった。


 ルシアンはセレネの隣へ腰を下ろした。沈んだソファの布がわずかに鳴り、二人の距離が近づく。セレネは逃げなかった。ただ、膝の上の本を押さえる指が、少しだけ表紙を強く掴む。


「……喜んで、いますか」


 小さな問いだった。


 ルシアンは返事の代わりに、まず彼女の髪へ触れた。黒い一房を指先ですくうと、絹糸のように滑り、暖炉の火を受けて青く艶めく。セレネの睫毛が一度だけ揺れた。


「喜んでる」


 彼は低く答えた。


「喜びすぎて困ってる」


 セレネの視線が、本の表紙からルシアンの指先へ移る。彼の手の中にある自分の髪を見て、またすぐに目を伏せた。


「困らせるつもりは、少しだけしかありませんでした」


「少しはあったのか」


「……はい」


 素直に認められて、ルシアンは短く息を吐いた。髪に触れていた指を離せず、そのまま毛先を撫でる。セレネは身じろぎしない。逃げる代わりに、本を膝の上へ置いたまま、彼の方へほんの少しだけ肩を傾けた。


「ルシアンが、私を見てくれるので」


 その声は、ひどく静かだった。


「それが……少し、嬉しくて」


 ルシアンはもう一度、喉の奥を鳴らした。


 熱の逃げ場がない。


「お前な」


「はい」


「そういうことを言うなら、俺の理性の心配もしてくれ」


「心配しています」


「している顔じゃない」


「しています。だから、本を読んで待っていました」


「読めていたのか」


 セレネは答えなかった。


 それだけで、十分だった。


 ルシアンはその沈黙に負け、髪から手を滑らせた。彼女の肩にかかる透ける羽織の端へ触れる。藍色の薄布は指の腹にほとんど重さを残さず、布越しに肌の温度だけを淡く伝えてきた。袖の縁に入った金の刺繍が、彼の指の下でかすかにざらつく。


 セレネの呼吸が、ほんの少しだけ浅くなった。


「嫌か」


「……いいえ」


 短い返事に、ルシアンの指先が熱を持つ。


「リリアーナ様が、暖炉の前では綺麗に見えると」


「姉上は余計なことをよく知ってるな」


「ミレイユ様は、ルシアンが髪に触れるなら、この袖が邪魔にならないと」


「兄上のところの夫婦も、余計なことをよく見ている」


 セレネの指が、本の表紙から離れた。迷うように動いたあと、ルシアンの袖口へそっと触れる。


 彼女は視線を上げない。けれど、袖口に添えられた指は逃げていない。薄い夜着も、透ける羽織も、緩く結ばれた腰紐も、全部を分かった上で、彼に見せるために着たのだと分かる。


 ルシアンは彼女の手から本を取り、小卓へ置いた。頁が閉じる乾いた音が、暖炉のそばで小さく鳴る。


 セレネの指が、本を追うようにわずかに動いた。けれど引き留めはしない。その代わり、ルシアンの袖口へ触れたまま、逃げる場所をそこに移すように細い指を添えている。


「ルシアンが、喜ぶと聞いたので」


 セレネは視線を伏せたまま言った。


「……着てみたいと思いました」


 その声が、ルシアンの胸の奥を容赦なく甘く削った。


 ルシアンはソファに深く座り直し、さらに距離を詰めた。膝が触れるほど近くなると、藍色の薄布が彼の黒い上着に触れ、金の飾り紐が小さく揺れた。彼はセレネの手首を取り、透ける袖の上から親指でそっと撫でる。


「綺麗だ」


 今度はゆっくり言った。


「可愛い。俺のために着たなら、なおさら悪い」


「悪い、ですか」


「俺が止まれなくなる」


 セレネは視線を逸らした。頬に火の色が濃く落ちる。


「……止まらなくても」


 そこで彼女は言葉を止めた。


 ルシアンの指が、透ける袖から腰のあたりへ滑りかける。藍色の布の重なり、緩く結ばれた紐、そこから垂れる金の飾り。指をかければ簡単にほどけてしまいそうだった。彼はその手前で止め、セレネを見る。


「セレネ」


「はい」


「触れていいか」


 彼女は答えず、少しだけ身を寄せた。言葉より先に、腰にかかる布が彼の指へ近づく。白い指がルシアンの袖を掴み、離れない。


「嫌なら、言います」


 声は小さい。けれど、はっきりしていた。


 ルシアンは目を閉じかけた。


 フェリクスの言葉が、胸の奥で甘くほどける。


 嫌じゃないなら、もう少しだけ甘えてもいい。


「抱きしめてもいいか」


 セレネは一度、彼の手元を見た。それから、透ける袖の腕をゆっくり上げる。


「聞かなくても、分かっていると思います」


「聞きたいんだよ」


 セレネの睫毛が揺れた。


「では」


 彼女は、今度は自分から彼の肩へ指を置いた。薄い袖が暖炉の火を受け、淡い藍色に光る。


「抱きしめてください、ルシアン」


 その瞬間、ルシアンの理性はきれいに沈んだ。


 彼はセレネを腕の中へ引き寄せた。藍色の薄布が揺れ、腰の飾り紐が小さく鳴る。セレネは彼の胸元へ寄りかかり、背へ腕を回した。薄い袖越しの腕が彼の上着に触れ、レースの縁が微かに擦れる。


 ルシアンが彼女の黒髪へ顔を寄せると、香油と暖炉の熱を含んだ布の匂いが混ざり、呼吸のたびに胸の奥が熱くなった。セレネは離れず、むしろ彼の背に回した腕を、ゆっくりと深くする。


「本当に、反則だ」


「褒めていますか」


「惚れ直してる」


 セレネの指が、彼の背中で小さく布を掴んだ。


「……それなら」


 耳元に落ちた声は、かすかに柔らかい。


「着て、よかったです」


 ルシアンはそのまま、彼女の髪に唇を押し当てた。もう一度喉が鳴る。今度は隠せなかった。セレネはその音に気づいたように肩をわずかに揺らしたが、離れようとはしなかった。むしろ、彼の背に回した腕を、ゆっくりと深くした。


「……今の音」


「忘れろ」


「嫌です」


 小さな声だった。ルシアンは息を詰め、セレネの髪にもう一度唇を押し当てた。


「お前が悪い」


「私ですか」


「そうだ」


「では……」


 セレネはゆっくり顔を上げた。海色の瞳は静かで、けれどそこにいつもの冷たさはなかった。暖炉の火がその奥に細く揺れる。


「責任を取ります」


 ルシアンの指が止まった。


「意味を分かって言ってるのか」


「少しは」


「少しじゃ足りない」


「では」


 彼女はほんの少しだけ視線を逸らし、それでも背に回した手をほどかなかった。


「教えてください」


 その一言で、ルシアンは完全に負けた。


 彼はセレネの頬に触れた。白い肌は暖炉の温度を含み、指先の下で柔らかく温かい。頬へ触れたまま、ゆっくり顔を近づける。彼女の睫毛が伏せられる。逃げない。背に回された腕もほどけない。


 最初は、確かめるような口づけだった。


 触れて、離れて、また触れる。昨夜と同じように、逃げ道を塞がないように。それでも、唇が離れた瞬間、胸の奥がすぐに次を求めた。セレネの指が背中で布を掴む力を、ほんの少しだけ強める。その小さな許しに、ルシアンはもう一度唇を重ねた。


 今度は、先ほどより深く。


 唇の隙間からこぼれた彼女の吐息が、すぐ近くで熱を帯びる。セレネの肩がわずかに揺れ、彼女の手がルシアンの背を探るように動いた。まだ強くはない。けれど、離れるためではなく、近づくための手だった。


 ルシアンは彼女の髪に指を差し入れ、首筋にかかる黒髪をそっと避けた。そこに白い肌が現れる。暖炉の火と夜の青が、その細い線を淡く分けていた。


 抑えろ。


 大事に扱え。


 自分に言い聞かせながら、ルシアンは一度唇を離した。額が触れるほど近い距離で、セレネの呼吸が小さく乱れている。彼女は目を伏せたまま、背に回した手をほどかない。


「苦しいなら」


「苦しくは、ありません」


「本当に?」


 問うと、セレネはほんの少しだけ目を上げた。


「ルシアンは、確認が多いです」


「嫌か」


「……嫌ではありません」


「なら、もう少しだけ」


 セレネの睫毛が、また伏せられた。


 それを合図に、ルシアンは再び唇を重ねた。


 今度は、待つ余裕が少しずつ失われていく。浅く触れていたはずの口づけが、角度を変えるたび深くなる。彼女が息を吸おうとするわずかな隙間を待ち、それからまた戻る。急かしたいわけではない。ただ、温度が近づくほど、離れるための理由が見つからなくなっていく。


 セレネの指が、ルシアンの背で上着の布を掴んだ。


 その一つで、彼の中にあった最後の余裕が危うくなる。


 唇を解き、彼女の頬に触れる。頬から耳の下へ、指先を滑らせると、セレネの肩が小さく震えた。逃げない。だが、反応は確かにある。その静かな揺れが、いつもの冷静な彼女との落差を作り、ルシアンの理性をさらに削った。


「セレネ」


 名を呼ぶと、彼女は伏せていた視線を上げた。


「このまま触れていたら、もっと欲しくなる」


 セレネの指が、ルシアンの背で止まった。


「無理なら止める。嫌なら、ここで終わる。お前が一言でもそう言ったら、それ以上はしない」


 セレネは少しだけ目を伏せた。藍色の薄布越しに、背へ回された指が彼の上着を掴み直す。


「嫌なら、こうしていません」


 小さな声だった。


「でも、ルシアンが聞いてくれるのは……好きです」


 その一言で、ルシアンの喉の奥がまた低く鳴った。


 やがて、セレネの手がルシアンの背から離れた。


 一瞬、胸が冷える。


 しかし彼女の手は逃げるために離れたのではなかった。セレネは自分の胸元へ視線を落とした。夜着の胸元には、細い藍色の紐が何本も交差している。そのうち一本を、白い指がそっと摘まんだ。


「これは……ここを引くと、緩むそうです」


 声は静かだった。けれど、指先は紐を摘まんだまま動かない。


「リリアーナ様が、ほどき方も教えてくださいました」


 ルシアンは思わず目を閉じた。


「姉上……」


「ルシアンが困るかもしれない、ともおっしゃっていました」


「確信犯だろ」


「ですが」


 セレネは摘まんでいた紐を、ほんの少しだけ引いた。胸元で交差していた布がわずかに緩み、藍色の薄絹が白い肌から浮く。暖炉の火が、その隙間へ淡く入り込んだ。


「困るだけでは、ないのでしょう?」


 その言葉に、ルシアンの喉が低く鳴った。


 彼女は逃げていない。むしろ、自分からほどける場所を示している。それが分かった瞬間、ルシアンの指先まで熱が巡った。


 ルシアンは、セレネの胸元で交差している細い紐へ指をかけた。強く引けばすぐにほどけそうな結び目だったが、彼は急がず、まず一つ目の結びを緩める。藍色の紐が白い肌の上を滑り、胸元を押さえていた布がほんの少しだけ緩んだ。


 セレネの呼吸が浅くなる。


 ルシアンはそこで手を止め、彼女の顔を見た。セレネは目を伏せていたが、逃げるようには身を引かない。むしろ、膝の上に置かれていた指が、ルシアンの袖を小さく掴んだ。


「止めるか」


「……まだ」


 その声を聞いてから、ルシアンは次の紐をほどいた。


 胸元で交差していた紐がほどけるたび、藍色の薄絹は少しずつ形を失っていく。肩にかかっていた透ける羽織がずれ、片方の肩から、なめらかな白い肌が現れた。暖炉の火がその肌に淡く映り、黒髪がそこへ流れて、見えたばかりの白さを半分隠す。


 ルシアンは息を忘れた。


「……見すぎです」


 セレネが小さく言った。


「悪い」


 謝りながら、視線はすぐには外れなかった。


 セレネが、ほんの小さく笑った。声になるかならないかの、暖炉の火に紛れるような笑みだった。


「やはり、見ているではありませんか」


「見ない方が無理だ。お前が綺麗だから」


 そう返すと、セレネの睫毛がゆっくり伏せられた。肩に落ちた黒髪の隙間から、白い肌が暖炉の火を受けて淡く光る。彼女は困ったように視線を逸らしたが、ルシアンの袖を掴む指は離れなかった。


 彼は肩へ落ちた黒髪をそっと避け、露わになった肌へ口づけた。


 セレネの指が、膝の上で強く握られる。逃げはしない。けれど、呼吸が浅くなる。その反応を確かめてから、ルシアンはもう一度、同じ場所へ唇を落とした。


 白い肩が、暖炉の火を受けて淡く熱を帯びている。黒髪がそこへ流れ、彼が触れた場所を半分隠した。セレネの睫毛が震え、袖を掴んでいた指が、今度はルシアンの腕へ移る。


「ルシアン」


 名を呼ぶ声が、かすかに揺れていた。


「止めるか」


 セレネは首を横に振った。黒髪が肩の上で小さく流れる。


「……止めないでください」


 小さな声だった。


 その言葉で、ルシアンの喉がまた低く鳴った。


「震えてる」


「知っています」


「理由は?」


 セレネは少しだけ視線を逸らした。白い肩へ落ちた髪の先が、彼女の呼吸に合わせてかすかに揺れる。


「……言わせますか」


「聞きたい」


「意地悪です」


「今さらだ」


 ルシアンが肩口へ額を寄せると、セレネの指が彼の腕を掴み直した。拒む力ではない。引き留めるための力だった。


「……ルシアンが、触れるからです」


 その答えは、いつものセレネにしてはずいぶん素直だった。


 ルシアンは目を伏せた。胸の奥で熱が重くなる。


「もっと触れたら?」


 セレネの指が、一度だけ止まる。けれど、離れない。


「……嫌なら、言います」


 静かな声だった。けれど、それは拒絶ではなく、彼を受け入れるための約束に聞こえた。


 ルシアンは彼女の肩にもう一度口づけた。


「なら、言うまで止めない」


「……はい」


 その返事は小さかったが、確かに彼の腕の中に落ちた。


 ルシアンは彼女を抱き上げた。腕を背に回し、もう片方の手を膝の下へ差し入れる前に、セレネの顔を見た。海色の瞳は少しだけ揺れたが、首に回された腕はほどけない。むしろ、彼が動くのを待つように、細い指が肩口の布を掴んだ。


 その許しを確かめてから、ルシアンは彼女を抱え上げる。藍色の薄絹が腕の中で流れ、金の飾り紐が小さく鳴った。露わになった肩が胸元に触れ、喉の奥に上がってきた熱を、彼は短い息で押し込めた。


 寝台までの数歩が、やけに近く、遠かった。セレネの黒髪が腕にかかり、香油の匂いが動くたびに深くなる。彼女は何も言わず、ルシアンの首に回した腕に少しだけ力を込めていた。その小さな重みが、彼の足を急がせそうになって、かえって一歩ずつ慎重にさせた。


 寝台の縁へ下ろすと、帳の内側に暖炉の光が薄く差し込んだ。白い寝具は夜の青を吸い、セレネの黒髪がその上へ広がる。ルシアンは膝をつき、彼女の前で止まった。


 欲が、喉元まで上がってきていた。


 触れたい。もっと見たい。もっと近くで、彼女の呼吸を感じたい。だがその熱の向こうに、フェリクスの言葉が残っている。聞け。無理をさせるな。彼女の指先を見ろ。


「セレネ」


 ルシアンは彼女の手を取った。


「ここで止めることもできる」


 セレネはしばらく彼を見ていた。海色の瞳が、暗い帳の中で静かに光を含む。やがて、彼女は握られた手をほどく代わりに、ルシアンの指をゆっくり握り返した。


「止めたい時は、言います」


「本当に」


「はい」


「なら」


 ルシアンは彼女の手の甲へ口づけた。


「今夜は、もう少しだけ甘える」


 セレネは答えなかった。ただ、指先が彼の手を離さなかった。


 ルシアンは立ち上がり、寝台脇の灯りへ手を伸ばした。硝子覆いの中で炎が細く揺れる。火を落とす前に、彼はもう一度セレネを見た。藍色の布の影、白い肩、黒髪、伏せられた睫毛。彼女は逃げていない。彼を見ている。


 それだけを確かめて、ルシアンは灯りを落とした。


 部屋は、暖炉の遠い赤と、窓辺の月明かりだけになった。


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