弟からの便り
ルシアンが目を覚ました時、セレネはまだ眠っていた。
星見宮の夫婦の部屋には、香木の燃え残りの匂いが薄く漂っていた。帳の隙間から差し込む朝の光が、枕に散ったセレネの黒髪を青く透かしている。薄い寝具は白い肩を頼りなく覆っていたが、ルシアンはそれ以上見続けるのをやめ、そっと寝台を離れた。
起こさないように身支度を始める。水差しの水で顔を洗い、上着へ腕を通し、留め具に指をかけたところで、また寝台の方へ意識が引かれた。昨夜、腕の中で触れた温度が、まだ指先に残っている。
侍女が手紙を届けたのは、その途中だった。
扉の外で控えめな声がし、銀盆に載せられた一通の封筒だけが部屋へ運ばれる。王立学院の寮で使われる簡素な白い封筒だった。封蝋にはヴァルキュリア侯爵家の印が捺されていたが、蝋の端が歪み、急いで封じたのだと一目で分かった。
差出人の名を見た瞬間、ルシアンは上着の留め具から手を離した。
フィン・ヴァルキュリア。
セレネの弟だ。
その時、寝台の方で布が小さく擦れた。黒髪を片側へ流しながら身を起こしたセレネは、寝具を引き寄せるより先に、ルシアンの手元にある封筒へ視線を向けた。まだ眠りの残る海色の瞳が、白い封筒の形だけを拾う。
「誰かの手紙ですか?」
「フィンからだ」
それだけで、セレネは寝台を降りた。
ルシアンは息を止めかけた。
セレネは、生まれたままの姿だった。
人前なら髪の一筋、袖口の角度、視線の置き方まで乱さない女が、弟からの手紙を前にすると、肌を隠すことより先に封筒へ手を伸ばしていた。白い足が絨毯に触れ、黒髪が背へ流れ、朝の光が肩から腰の線を淡くなぞる。彼女は自分が今、どんな姿で朝の光の中に立っているのかを忘れているのではないかと思うほど無防備だった。
ルシアンは、すぐにガウンを取るべきだと分かっていた。
分かっているのに、指が動かなかった。目の前の白い肩を見た瞬間、昨夜、腕の中で聞いた彼女の声や、掌に残った肌の温度まで思い出してしまう。一度触れた記憶は、朝になったくらいでは薄れなかった。
セレネはそれに気づかないまま、封筒へ指をかけている。
その無頓着さが、ルシアンにはひどくたちが悪かった。自分の前だから許しているのか、本当に手紙しか見えていないのか。どちらにしても、彼の理性を少しも助けてくれない。
喉の奥が低く鳴りそうになって、ルシアンは短く息を吐いた。
「セレネ」
呼ぶ声が、少し低くなる。
セレネは封筒を受け取りながら顔を上げた。
「はい」
「そのまま読む気か」
「急ぎだと思われますので」
「ああ、そうかもしれないな」
ルシアンは寝台脇に落ちていた真珠色のガウンを拾った。すぐに羽織らせるつもりだった。だが、近づくと、黒髪の下に覗く白い肩が目に入る。
セレネは封を切ろうとしていた。ルシアンが背後に立っても、封筒の端に視線を落としたままだ。彼は黒髪を指先でそっと避け、ガウンを掛けるより先に、その肩へ唇を押し当てた。
一度触れるだけのつもりだった。
けれど、白い肌に唇が触れた瞬間、昨夜の熱が喉の奥まで戻ってきた。ルシアンはほんの少しだけ力を込め、柔らかな肌を確かめるように口づける。セレネの指が封筒の上で止まり、蝋の欠片が銀盆へ落ちた。乾いた音が小さく響く。
唇を離すと、肩先の白さに淡い赤が残っていた。
ルシアンはそれを見て、自分が少しやりすぎたことに気づいた。けれど後悔より先に、胸の奥へ甘い満足が沈む。セレネはゆっくり視線を落とし、そこに残った色へ指先で触れた。
「……ルシアン」
「悪い」
謝る声は、自分でも分かるほど反省していなかった。
ルシアンは真珠色のガウンを広げ、今度こそセレネの肩へそっと掛けた。薄い絹が白い肌を覆い、朝の光に浮いていた線が柔らかく隠れる。彼は前を合わせ、乱れた黒髪を襟の外へ逃がしてやりながら、小さく息を吐いた。
「でも、お前がそんな格好でうろうろしてくるのも悪いと思うが……」
セレネはそこで、ようやく自分の姿を思い出したように視線を下げた。ガウンの前を押さえる白い指が、少しだけ強くなる。白い頬に、薄く赤みが差した。
「……気を抜きすぎました」
「俺の前で気を抜くのはいい」
ルシアンは襟元を整えながら、低く言った。
「ただし、俺の理性に期待しすぎるな」
セレネは返事をせず、ガウンの襟を握ったまま、ほんの少しだけ目を伏せた。
それでも、彼女の指はすぐに封筒へ戻った。
便箋には、数行だけが残されていた。
急いで書いたのだろう。文字の終わりがところどころ掠れ、最後の署名だけが、紙の下で小さく沈んでいる。
『姉上へ。
僕は今、誘拐事件の犯人として疑われています。
僕は何もしていません。
でも、誰も信じてくれません。
助けてください。
殿下にも、どうかお願いします。
フィン』
それだけだった。
ルシアンは便箋の下へ視線を落とした。そこから先には、何も書かれていない。
「誘拐事件」
低く呟くと、セレネの指がフィンの署名の下で止まった。
以前に顔を合わせたフィンの姿が、ふいに胸の内へ浮かぶ。セレネと同じ黒髪と海色の瞳を持ちながら、表情は姉よりずっと素直に動く少年だった。姉の前では少し背筋を伸ばし、褒められたい気持ちを隠しきれずにいた。
それから、水鏡の事件。あの時もフィンは、噴水の水面に誰かを見たと言い、騎士の誰にも信じてもらえなかった。それでも嘘だとは言わず、青ざめたまま、見たものから目を逸らさなかった。
その少年が、また同じ学院で、誰にも信じてもらえないままこの数行を書いた。姉上へ、と書き出した手紙の最後に、助けてください、と残している。
ルシアンは、便箋から目を離せなかった。そのことだけが、胸の奥に重く沈んだ。
セレネは便箋を畳もうとして、途中で手を止めた。
「フィンは、私を心配させるようなことを、わざわざ手紙に書く子ではありません」
その指は、署名の下から離れない。
「それでも、助けてくださいと書いています」
ルシアンは、フィンの署名を見た。短い手紙の最後に、その名だけが残っている。
セレネの指は、まだ署名の下から離れていなかった。
「学院へ行く」
ルシアンは言った。
セレネが顔を上げる。
「まだ、事情も分かっていません」
「だから行く」
ルシアンは銀盆に残された封筒へ目を戻した。侯爵家の封蝋は、割れたまま固く光っている。
「これだけしか書けない状況で、待つ理由はない」
セレネはようやく便箋を畳んだ。折り目に指を添える動きは丁寧だったが、いつもより少し遅かった。フィンの署名が内側で潰れないように、紙の重なりをわずかにずらす。
「迷惑をかけます」
「お前が言うことじゃない」
「ですが」
「フィンはお前の弟だ」
ルシアンは一度そこで言葉を切った。
「それに、いずれ俺の義弟になる」
セレネの睫毛が一度だけ揺れた。
「ルシアン」
「王族特務としても見過ごせない。学院で誘拐事件が起きているなら、相手が誰であれ調べる。だが、それだけじゃない。誰かがフィンを犯人に仕立てようとしているなら、俺が止める」
セレネはしばらく彼を見ていた。やがて彼女は、畳んだ手紙を胸元へ寄せた。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「それでも、言いたいです」
セレネは便箋の角を指で押さえた。ガウンの襟元から覗く白い指が、紙の端を折らないように支えている。ルシアンはその手に触れたかったが、今は呼び鈴へ手を伸ばした。
金属の澄んだ音が、朝の部屋に細く響く。廊下の向こうで侍従の足音が近づいてくる。セレネはその間にガウンの前を押さえ、寝台脇に置かれていた部屋着へ目を向けた。もう一度、ほんの少しだけ視線を伏せる。
「……着替えます」
「そうしてくれ」
ルシアンは短く答えたあと、声を低めた。
「俺の理性のためにも」
セレネは手紙を持ったまま、彼を見た。海色の瞳が一度だけ瞬く。
「今は、事件の支度をする時間です」
「分かってる。だから言った」
「ルシアンは、正直ですね」
「お前が無防備すぎるんだよ」
セレネは答えず、ガウンの襟元を少しだけ握った。その仕草に、ルシアンはまた負けそうになったが、扉の外で侍従が控える気配がしたため、どうにか視線を逸らした。
「学院へ先触れを出せ」
扉越しに、彼は命じた。
「王族特務隊として向かう。フィン・ヴァルキュリアを、俺たちが着くまで移送させるな。尋問するなら学院長立ち会いで記録を残せ。寮の部屋と所持品には手を入れるな」
侍従が返事をし、足音が遠ざかっていく。
ルシアンは窓の外を見た。星見宮の庭は冬の朝に沈み、刈り込まれた低木の上には薄く霜が残っている。学院の人間が誰もフィンを信じないというなら、その疑いがどこから生まれたのかを見ればいい。
王立学院。
その名を思うと、石床に残る冬の冷えと、放課後の図書塔の匂いが胸の奥へ戻った。かつてセレネと二人で、紙に残った違和感を追った場所。今度はそこから、フィンの短い悲鳴が届いている。
セレネは着替えのために一度寝台の陰へ向かいかけ、手紙を小卓の上へ置こうとして、やめた。結局、便箋を胸元へ寄せたまま、部屋の奥へ消える。その背を見送りながら、ルシアンは拳を握った。
誰が誘拐されたのか。なぜフィンが疑われているのか。学院で何が起きたのか。
ただ、助けてください、という一文だけが、朝の部屋に残っていた。




