エラリア・レイフォード
王立学院の正門は、秋の薄い光の下に立っていた。
馬車の車輪が乾いた砂利を踏むたび、門柱のそばに溜まった落葉が小さく動いた。鉄門の前にいた門番は、王族特務隊の紋章を認めるとすぐに姿勢を正し、重い門扉へ手をかける。開かれた隙間の向こうでは、外套を羽織った学生たちが足を止めていた。教本を胸に抱えた少女が隣の友人へ何かを囁き、こちらと目が合う前に顔を伏せる。校舎の窓辺にいた少年たちは、馬車が近づくと半歩下がった。
ルシアンは馬車の窓越しに学院の敷地を見た。図書塔の尖った屋根、長い石の廊下、講堂へ続く階段。かつて学生として歩いた場所へ、今は事件のために戻ってきている。懐かしいと思うには、門の内側から向けられる視線が多すぎた。
「殿下」
隣に座るセレネが、短く呼んだ。
「ああ」
ルシアンは頷いた。セレネは黒髪をきっちりとまとめ、濃紺の外套の前を乱れなく留めている。白い横顔に、窓から入る秋の光が当たっていた。海色の瞳は学院本館の入口を見ている。声は落ち着いていたが、手袋を嵌めた指先が膝の上で一度だけ組み直された。
馬車が本館前に止まると、学院の事務官と数名の教師が階段下に並んでいた。礼は整っている。だが、事務官の腕に抱えられた書類束は革紐で急いで括られていて、紙の端がそろっていなかった。
「第三王子殿下、ヴァルキュリア侯爵令嬢。お待ちしておりました」
「フィン・ヴァルキュリアは」
「ご指示通り、学院内の別室にて待機させております。移送はしておりません。所持品にも手を入れておりません」
「尋問は」
「学院長立ち会いのもと、記録を残しております。殿下のご到着以後は、追加の聴取を控えております」
「分かった」
ルシアンは短く答え、階段を上った。石段の端には乾いた落葉が寄せられ、踏まれた葉が細かく砕けている。入口を抜けると、紙とインクの匂いがした。暖炉は焚かれているはずなのに、廊下の石床からは冷えが上がってくる。歩くたび、靴音が天井の高い廊下に返り、遠巻きに見ていた学生たちが道を開けた。
学院長室へ通されると、机の上には記録簿と聞き取りの控えが揃えられていた。学院長は椅子を勧めたが、ルシアンは座らず、開かれていた記録簿へ目を落とした。
行方不明者の名は、エラリア・レイフォード。
その名を見た瞬間、ルシアンの頭に、つい最近掘り起こした学院時代の記憶が戻った。テオ・メルツの祖父の形見だった万年筆が盗まれ、その胴軸に隠されていた羊皮紙が抜き取られた。処分を受けたのがレイフォード家だ。
まさか、その家の令嬢が今度は姿を消したというのか。
偶然で済ませるには、少し引っかかる。
「行方不明は、レイフォード家の令嬢か」
「はい。エラリア・レイフォード嬢です。学院では美術を学んでおります。数日前から寮へ戻っておりません」
「誘拐と断じたのは学院か」
「いいえ。レイフォード家です。令嬢が姿を消したことで、家は誘拐の可能性を強く訴えております」
「根拠は」
「現時点では、明確なものは示されておりません。ただ、家側は、ただの外泊や失踪ではないと」
学院長の言葉は慎重だった。レイフォード家の名に押されているのは分かる。だが、学院側も誘拐と断定できるだけの材料を持っていない。
「フィンが疑われている理由は」
「エラリア嬢と最後に会う約束をしていたこと。エラリア嬢の署名入りの絵を所持していたこと。そして、その絵を男から渡されたという説明を裏付ける者がいないことです」
「絵は」
「保全しております。フィン様の部屋も、殿下のご指示通り、そのままにしてあります」
「分かった。フィンに会う」
「こちらへ」
案内されたのは、学院長室から少し離れた小さな応接室だった。廊下を歩く途中、窓の外で乾いた葉が一枚、枝から離れて中庭へ落ちた。ルシアンはその向こうに、学生時代に何度も通った図書塔の石壁を見た。昔と同じ場所にある。だが、今そこへ向かう足取りに、懐かしい軽さはなかった。
教師が応接室の扉を開ける。
フィン・ヴァルキュリアは、椅子から立ち上がりかけた姿勢でこちらを見た。
姉と同じ黒髪。同じ海色の瞳。だが、以前見た人懐こい明るさは薄れていた。制服の襟元はわずかに曲がり、袖口には指で何度も掴んだ跡がある。目の下は青く、唇の色も悪い。それでも彼は、ルシアンを見ると礼を取ろうとした。
「殿下、姉上」
「無理に畏まるな」
ルシアンがそう言うと、フィンは途中まで取ろうとしていた礼を止めた。その隙に、セレネが一定の歩幅で近づいた。駆け寄りはしない。声を荒げもしない。ただフィンの前に立ち、乱れていた襟元へ手を伸ばした。細い指が布の折れを直し、曲がっていた飾り紐を正しい位置へ戻す。
「顔色が悪いです」
「姉上、僕は」
「眠っていないでしょう」
フィンは口を開きかけ、言葉を飲み込んだ。目元が一瞬ゆがんだが、涙は落ちなかった。セレネは最後に袖口の皺を軽く払った。大げさな言葉はない。けれど、乱れを見逃さずに直す指先に、彼女が弟をどう扱っているかは出ていた。
ルシアンは、噴水の水面に誰かを見たと言い、誰にも信じてもらえなかった少年のことを思い出した。あの時も、彼は怯えながら本当のことを言おうとしていた。
「フィン」
「はい」
「俺は、お前を疑いに来たんじゃない。何があったか、最初から聞かせてくれ」
フィンの肩が少し下がった。背中に入っていた力が抜けたのが、制服の皺で分かった。それでも彼は、椅子へ座る前に、もう一度浅く礼をした。
「はい、えっと……絵を見るのも描くのも好きで、美術部に所属したんです。そこで、エラリア嬢と親しくなりました」
フィンは膝の上で手を組んだ。指先は冷えているのか、白くなっている。
「彼女の絵は、線が細くて、色の重ね方も丁寧で……見ていると、どこをどう描いたのか聞きたくなったんです。それで話すようになりました」
「レイフォード家の件は知っていたのか?」
「はい。噂は広がっていましたから」
フィンは頷いた。
「兄君のことで、エラリア嬢は学院で噂されていました。直接何かを言う者もいましたし、遠くから見て笑う者もいました。それでも、絵を描いている時の彼女はとても美しくて……僕は……ただ、友人でいたかったんです」
そこでフィンの声が一度途切れた。膝の上で組んだ指に力が入り、袖口の布が小さく歪む。ルシアンは急かさず、次の言葉を待った。
セレネは何も言わなかった。ただ、乱れを直したばかりのフィンの襟元へ視線を落とし、指先でそこに残っていた小さな糸屑を取った。その動きに気づいたフィンが、伏せていた目を少し上げる。
「エラリア嬢が失踪した日はどうしてた?」
「一緒に絵の具を買いに行く約束をしていました。学院から外出許可をいただいたので、校門で待ち合わせすることにしたんです」
「でも、エラリア嬢は来なかった」
フィンは頷いた。喉が小さく動く。
「はい。代わりに、男の人が来ました。僕たちより少し年上に見えました。学生ではない気がしましたが、物腰は荒くありませんでした。声も落ち着いていて……」
「顔は覚えているか」
「はっきりとは。外套を着ていて、帽子も深く被っていました。背は、僕より少し高かったと思います。でも、特別に目立つ服装ではありませんでした」
そこまで言って、フィンは唇を噛んだ。噛んだ場所が白くなる。セレネが短く言った。
「順番に」
「……はい」
フィンは息を整え、もう一度話し始めた。
「その男の人は、一枚の絵を僕に見せました。『この絵、あなたですよね』と聞かれて、絵を見たら、僕が描かれていました。誰が描いたものかは、一目で分かりました。よく見ていた絵柄でしたし、絵にはエラリアの署名がありましたから」
「男は何と言った」
「彼女は、君とは出かけられないと言っていたよ、と」
応接室の暖炉で薪が小さく崩れた。火の粉が赤く跳ね、すぐに黒くなる。
「それで、絵を渡してきて、立ち去っていきました。僕は、エラリア嬢に避けられたのだと思いました。レイフォード家のことで、僕と一緒にいると余計に噂されるから、もう関わらない方がいいと思ったのかもしれない、と」
「追わなかったのか」
「追いませんでした」
フィンの声がかすれた。
「……僕が、あの時すぐ捜していれば」
「それはお前のせいじゃない」
ルシアンが静かに言うと、フィンは強く瞬きをした。目元に溜まりかけた涙を、まばたきで押さえたように見えた。
「だが、何があったかを確かめるために、今は事実を聞かせてくれ」
「はい」
フィンは少しだけ顎を引いた。
「翌日になっても、エラリア嬢は寮に戻っていないと聞いて……それで行方不明だという話になりました。僕が最後に会う約束をしていたことと、絵を持っていたことで疑われることになって。男から渡されたと言っても、誰も見ていないと」
「その絵を見せろ」
ルシアンが教師へ目を向けると、控えていた事務官が箱を運んできた。薄い木箱で、封蝋には学院の印が押されている。ルシアンは封を確かめ、学院長の記録と照合してから開けさせた。
中には、布で包まれた小さな絵が入っていた。
描かれていたのは、確かにフィンだった。学院の中庭だろう。葉の残った木々を背景に、横顔のフィンが本を抱えて笑っている。黒髪には青みを含んだ影が置かれ、海色の瞳には光が丁寧に入れられていた。制服の襟、袖口、指の形までよく見て描かれている。相手を避けたい者が、わざわざ時間をかけて描いた絵には見えなかった。
右下に、エラリア・レイフォードの署名がある。
ルシアンにも分かった。この絵を描いた者は、フィンを粗末に扱っていない。
セレネが絵の前へ一歩近づいた。指は触れない。紙の端、署名、絵具の重なりを順に見る。
「この絵を見る限り、エラリア様がフィンを避けるなら、絵ではなく手紙を残すと思います」
短い声だった。
「それに、この絵を描く方が、わざわざ第三者に絵を運ばせるのは違和感があります。そういう絵を描く人には見えません」
「セレネ」
「……フィンにエラリア様を探させないための口実作りに感じます」
ルシアンは絵から視線を離さなかった。最後に会う約束をしていた。署名入りの絵を持っていた。絵を渡した男の証人はいない。
「疑われる材料が、揃いすぎている」
ルシアンが言うと、フィンの指が膝の上で強く握られた。
「では、エラリア嬢は」
「まだ分からない。だから探す」
ルシアンは絵を箱へ戻させた。布をかける前に、もう一度だけ署名を見る。エラリアという名は、細く整った字で書かれていた。急いで書いたものではない。
「エラリア嬢が普段、学院で誰と過ごしていたか分かるか」
学院長はそばに控えていた教師へ目を向けた。教師は記録を確かめてから答える。
「美術室にいることが多かったようです。美術部の学生や、美術を選択している者たちと一緒に過ごしていたと聞いております」
「美術室か」
「はい。指導には、ガーランド・グレロック講師が当たっております」
「ガーランド・グレロック」
「若い美術講師です。エラリア嬢の作品も何度か見ていたはずです」
「そうか、あとで話を聞きにいく。話を通しておいてくれ。まず、エラリア嬢の外出許可、校門の記録、女子寮の同室者の証言を揃えろ。それと、絵具を扱う店に使いを出せ。フィンの話が本当なら、エラリア嬢が行くつもりだった店か、いつも使っていた店があるはずだ。フィンの寮の部屋と所持品は、俺が立ち会うまで触るな」
「承知いたしました」
事務官が記録を取る。ペン先が紙を擦る音が、暖炉の音に混じった。
その時、廊下の向こうから、抑えた声が聞こえた。応接室の扉は完全には閉まっていなかったらしい。二人か三人の学生が通り過ぎる気配があり、そのうちの一人が、声をさらに低くした。
「旧校舎の窓、また見たって」
「二階の壊れた窓だろ。首を吊った女生徒が」
「事務員が見に行ったけど、誰もいなかったって。ロープもなかったらしい」
足音が遠ざかる。教師が顔をしかめ、扉を閉めようとしたが、ルシアンは手で制した。
「今のは」
学院長はわずかに目を伏せた。
「学生の噂です。旧校舎の二階に、首を吊った女生徒が見えると。確認に行った者はおりますが、誰もおらず、ロープも見つかっておりません」
「そうか」
ルシアンは短く答えた。
廊下の向こうでは、先ほどの学生たちの足音がもう聞こえなくなっている。事務官が紙を押さえ直し、箱に戻された絵の封がもう一度確かめられた。




