出ていない令嬢
学院から借りた控え室の窓には、午後の光が斜めに入っていた。
机の上には、外出許可の控え、校門の通行記録、女子寮の聞き取り、画材店からの返答が順に並べられている。薄い紙ばかりなのに、机の上へ並ぶと、一枚ずつ確かめずには進めない重さがあった。窓の外では、乾いた落葉が石畳を擦る音がする。暖炉には火が入っていたが、部屋の隅までは届かず、石床の冷えが靴底から上がってきた。
ルシアンは椅子に座らず、机の前に立っていた。セレネは隣で、報告書の一枚へ視線を落としている。黒髪は乱れなくまとめられ、海色の瞳は文字を追っていた。学院長は机の向こうに立ち、事務官は外出許可の控えを両手で差し出した。
「エラリア・レイフォード嬢は、失踪当日の外出許可を取っております。行き先は王都東通りの画材店。同行者の欄には、フィン・ヴァルキュリア様のお名前がございます」
「校門の記録は」
事務官は次の帳面を開いた。革表紙の角が擦れていて、今日だけで何度も開かれたことが分かる。
「門番の通行記録に、エラリア嬢が門を出た記載はありません」
「記録漏れの可能性は」
「門番二名に確認いたしました。当日は外出する学生が何人かおりましたが、エラリア嬢が門へ来た記憶はないとのことです。フィン様が待っていたとされる時間帯にも、該当する記録はありません」
ルシアンは外出許可の控えと通行記録を見比べた。外出許可には、エラリア嬢の名がある。校門の帳面には、その名がない。紙の上では街へ出るはずだった令嬢が、門の記録では外へ出ていない。
「絵具店は」
「使いを出しました。該当する画材店には、当日エラリア嬢は来ておりません。店主も、彼女の顔を覚えているそうです。何度か利用していたため、来ていれば分かったと」
外出許可はある。行き先も、同行者の名も書かれている。だが、校門を出た記録はなく、店にも来ていない。
フィンへの疑いは、エラリア嬢が学院の外へ出たという前提に立っている。その前提が、崩れていた。
「やはり、学院から出ていないということだな?」
「その可能性が高いかと」
学院長が答えた。語尾は控えめだったが、否定はしなかった。
ルシアンは机の上の聞き取り控えへ視線を移した。女子寮の同室者の証言は、外出許可の控えとは別に分けられている。
「同室者は何か言っていたか」
事務官が一枚の紙を差し出した。
「エラリア嬢は当日、画材を一式持って部屋を出たそうです」
「画材を一式?」
「写生用の板、筆入れ、絵具箱、布包みの紙束です。普段、制作の時に使っていたものだと」
セレネがその証言へ視線を落とした。指先は紙に触れない。けれど、同じ行をもう一度読むように視線が止まる。
「……買いに行くだけなら、写生板までは持ちません」
短い言葉だった。
ルシアンも同じことを考えていた。買いに行くだけなら、道具を全部持つ必要はない。絵具箱や紙束まで持って出たのなら、どこかで描くつもりだったか、誰かに見せるつもりだったのかもしれない。
だが、それを誰に、どこで、まではまだ分からない。
ルシアンは外出許可の控えを机へ戻した。紙が木の天板に触れ、小さな音がした。
「フィンに確認する」
控えていた教師がすぐに部屋を出た。ほどなくして、フィンが控え室へ入ってくる。先ほどより顔色は少し戻っていたが、目の下の青さは消えていない。姉の姿を見て、彼は一度だけ背筋を伸ばした。セレネは何も言わず、フィンの前に置かれていた茶杯を、彼の手が届く位置へ少し寄せた。
「フィン」
「はい、殿下」
「買い物のあと、どこかへ寄る話は聞いていたか」
「いいえ」
「画材を持ってくるとは」
「聞いていません。絵の具を買いに行く約束でしたから……道具を一式持っていくという話は聞いていません」
フィンは膝の横で手を握った。指先が制服の布を掴み、すぐに離す。
「僕が、もっとちゃんと聞いていれば」
「事実だけを」
セレネは短く言った。フィンはその一言で口を閉じ、握っていた制服の布を離した。
「すみません。僕が聞いていたのは、絵の具を買いに行くことだけです。どこかで描くとか、誰かに会うとか、そういう話はありませんでした」
「分かった」
ルシアンはそれ以上、フィンを問い詰めなかった。知らないことを繰り返し尋ねても意味はない。今必要なのは、エラリア嬢が本当はどこへ向かうつもりだったのかを、記録と人の足取りから探すことだった。
次に向かったのは、美術室だった。
学院本館から少し奥へ入った棟の二階に、その部屋はあった。廊下を進むほど、紙とインクの匂いに、絵具の油の匂いが混じり始める。扉の前には、乾かしている途中らしい小さな板が立てかけられ、床には薄く削られた木炭の粉が落ちていた。教師が扉を叩くと、中から若い男の声が返る。
「どうぞ」
美術室は、秋の光がよく入る部屋だった。
高い窓の下に画架が並び、壁際には石膏像や静物用の器が置かれている。机の上には布をかけた絵が数枚重ねられ、絵具皿の縁には乾いた色が薄く残っていた。窓辺では、洗われた筆が柄をそろえて置かれている。人が使った跡はあるが、道具の置き方は整っていた。
中央にいた男が手を止めた。絵具のついた布で指先を拭い、汚れた布を机の端へ畳んで置いてから、まっすぐに礼をする。
「第三王子殿下。ヴァルキュリア侯爵令嬢。ガーランド・グレロックです」
若い講師だった。学生たちより少し年上に見える。濃い茶の髪を後ろで軽く束ね、袖口には絵具が少しだけ付いていた。だが、礼の形は崩れていない。王族を前にした態度は、落ち着いていた。
「エラリア・レイフォード嬢について聞きたい」
「承知しております。学院長から話は伺いました」
ガーランドは作業台の上を片づけた。ルシアンは座らず、室内を一度見た。画架、窓、絵具棚。エラリア嬢が制作していた場所。フィンが彼女と話すようになった場所。
「エラリア嬢は、美術部でどんな様子だった」
「熱心な学生でした。授業の後もよく残って制作していました。構図を決めるまでは時間をかけますが、一度描き始めると集中する方で」
「最近、変わったことは」
ガーランドは少し考えてから答えた。
「制作の手が止まることはありました。けれど、絵をやめる様子はありませんでした」
「レイフォード家の件は、彼女の入学前の話だな」
「はい。ですが、家名にまつわる噂は残っておりました。エラリア嬢が入学してからも、兄君のことを口にする学生はいました」
「本人が関わっていなくても、家紋の話となると難しいな」
「はい。それでも、彼女は制作をやめませんでした」
「フィンとは、美術部でよく話していたのか」
「はい。フィン様はよく質問をする方で、エラリア嬢も嫌がってはいませんでした。むしろ、説明するのを楽しんでいたように見えました」
セレネが、並べられた画架の一つへ視線を向ける。白い布がかけられていて、中身は見えない。彼女は触れず、視線だけを戻した。
「フィンを描いた絵を知っていますか」
「フィン様を描いていた絵なら、何度か見ました」
ガーランドは自然に頷いた。
「横顔の光の入り方が気になると言って、授業後にも残っていたことがあります。最後に見た時には、ほとんど完成していました。署名を入れると言っていたので、仕上げに近かったと思います」
ルシアンは頷いただけだった。指導講師なら、生徒の絵を見ていても不思議ではない。エラリア嬢が何度も手を入れていた絵なら、なおさらだ。
「失踪当日、彼女を見たか」
「午前の授業後に少し。絵具箱を持っていたと思います。急いでいる様子ではありませんでした」
「どこへ行くかは」
「聞いておりません。外出許可を取っているとは、後で聞きました」
「美術部は、外で描くこともあるのか」
「あります。中庭や温室の周辺が多いですね。許可を取れば、敷地内の古い建物を写生することもあります」
「旧校舎もか」
「外観を描く程度なら。中へ入ることは禁じられています」
ルシアンは美術室の窓へ視線を向けた。ここから旧校舎は見えない。だが、学院の敷地内で写生をすることがあるなら、画材を持って出た理由の一つにはなる。
「分かった。必要があれば、また話を聞く」
「はい。エラリア嬢のためになることでしたら、できる限り協力いたします」
ガーランドはもう一度、丁寧に礼をした。
美術室を出ると、廊下の空気が少し冷えて感じられた。絵具の油の匂いが背後に残り、代わりに石床の冷えと、古い木枠の匂いが戻ってくる。階段を下りたところで、事務官が駆け寄ってきた。腕には、薄い聞き取りの束がある。
「殿下。旧校舎の噂について、確認が取れました」
ルシアンは足を止めた。セレネも隣で立ち止まる。
「話せ」
「最初に、旧校舎二階の壊れた窓に首を吊った女生徒が見えると言われ始めたのは、エラリア嬢が寮へ戻らなくなった頃です。それ以前の記録には、同じ噂はありません」
「事務員が確認した件は」
「はい。噂が出てすぐ、学院の事務員が旧校舎へ確認に行っております。部屋には誰もおらず、ロープも見つかっておりません」
ルシアンは報告書を受け取り、日付を見た。
エラリア嬢が寮へ戻らなかった日。校門を出た記録のない日。画材を一式持って部屋を出た日。旧校舎の壊れた窓の噂が出始めた日。
日付が同じ頃に集まっている。
セレネが、紙面から視線を上げた。
「……目撃証言があっても、首を吊った女生徒の姿も、ロープも見つかっていないということですね」
「そう言われ始めたのが、エラリア嬢が消えた頃か」
「はい」
事務官が答える。
ルシアンは報告書を閉じた。外へ出ていない足取りと、同じ頃に立った旧校舎の噂。その二つを、別々のものとして片づけるには早かった。
「旧校舎を確認する」
学院長の顔色が変わった。
「今からでございますか」
「中へ入るのは明日だ。日が落ちかけている。準備なしで古い校舎へ入る気はない」
ルシアンは事務官へ指示を出した。
「灯りを用意しろ。鍵を確認しておけ。学院長の立ち会いも必要だ。特務隊から二名連れてくる。学生は近づけるな」
「承知いたしました」
日が傾き始めた中庭を抜け、ルシアンとセレネは敷地の端へ向かった。旧校舎の中へ入るつもりはない。翌日の確認に備え、外から位置を見ておくためだった。道の両側には、葉を落とした木々が並び、枝の隙間から夕方の光が差している。足元では、乾いた葉が靴に触れて割れた。学院本館の声は、ここまで来ると遠くなる。
やがて、使われていない校舎が見えた。
古い石造りの建物だった。壁には蔦が絡み、窓枠のいくつかは板で塞がれている。正面扉には太い鎖がかけられ、金具の周りには赤茶けた錆が浮いていた。人が出入りしない建物は、窓も扉も黒ずみ、使われている校舎とは色が違って見えた。
ルシアンは二階の端を見上げた。
そこに、壊れた窓があった。
硝子は一部だけ残り、秋の夕日を受けて白く反射している。窓の奥は見えない。人影はない。ロープもない。ただ、複数の学生が、そこに首を吊った女生徒を見たと言っている。
ルシアンはセレネを見た。彼女は壊れた窓ではなく、鎖のかかった正面扉を見ていた。
「明日、中へ入る」
ルシアンは旧校舎へ視線を戻して言った。
「記録と証言を全部持ってこさせろ。旧校舎の使用記録、鍵の管理簿、過去に立ち入りを許可された者の名もだ」
「承知いたしました」
背後で事務官が答える。
夕日が傾き、壊れた窓に残った硝子の光が細くなっていく。鎖のかかった扉は、夕方の光の中でも開く気配を見せなかった。




