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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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旧校舎

 昨日は夕日の色に紛れていた石壁の割れ目が、午前の光の中では細く黒く見えた。


 旧校舎は、学院の敷地の端に建っている。蔦は壁の上まで伸びていたが、秋になって葉の多くは乾き、窓枠のそばで茶色く縮れていた。板で塞がれた窓の隙間には落葉が引っかかり、残った硝子は白く曇っている。正面扉には太い鎖がかかり、錠前の表面には赤茶けた錆が浮いていた。


 ルシアンは扉の前で足を止めた。隣にはセレネが立っている。黒髪をきちんとまとめ、海色の瞳は扉の金具と鎖を順に見ていた。後ろには学院長と事務官、特務隊からはクライヴと、記録役を兼ねる隊員を一人連れてきている。灯り、記録具、鍵の管理簿、旧校舎の使用記録はそろっていた。


「鍵の管理簿を」


 事務官が革表紙の帳面を開いた。ルシアンは日付と鍵の番号を確認してから、錠前へ視線を戻す。記録上、正面扉が最後に開けられたのは旧校舎を封鎖した時だった。その後の点検は外から行われ、内部へ入った記録はない。


「学院長」


「はい」


「本当に、封鎖した時から一度も開けていないのか」


「記録上は、その通りでございます。点検は外観のみで、内部へ入った記録はありません」


「記録上は、か」


 ルシアンは錠前に近づいた。鍵穴の周りだけ、埃が薄い。古い錆の上に、指で触れたような跡があり、金具の縁には細い擦れが残っている。何十年も動いていない金属なら、そこだけが新しく見える理由はない。


 セレネが、鎖のかかった扉の金具を見ていた。


「殿下、鎖の位置が少し合っていません」


「合っていない?」


「金具に残っている擦れ跡と、今かかっている鎖の位置がずれています。ずっとこのままだったなら、同じ場所に跡が残るはずです」


 ルシアンは扉へ近づき、鎖と金具の接している部分を見た。錆びた金具には、長い間鎖が触れていたらしい跡が薄く残っている。だが、今の鎖はその跡から指一本ほど外れた位置にかかっていた。


「一度外して、掛け直した可能性があるな」


 学院長は管理簿の頁を押さえたまま、鍵穴から目を離せずにいた。事務官の持つ帳面の紙が、風にめくれかける。クライヴが一歩前へ出て、扉と鎖の位置を記録した。


「錠前、鍵穴、鎖の位置を写しておけ。あとで管理簿と合わせる」


「承知しました」


 学院側が持ってきた鍵を錠前へ差し込むと、最初にわずかな抵抗があった。だが、その後は思ったよりも素直に回った。鎖を外す音が、石壁に近いところで低く響く。扉の合わせ目に手をかけると、古い木が乾いた音を立てた。


 扉が開いた。


 長く閉め切られた建物に残る、乾いた埃と冷えた壁の匂いが外へ流れた。クライヴが先に灯りを差し入れ、床板の状態を確かめる。ルシアンはそれを待ってから、旧校舎の中へ足を踏み入れた。


 一階の廊下は広かった。


 左右には教室の扉が並び、古い表示札が斜めに傾いている。床板はところどころ黒ずみ、踏む場所によって低く鳴った。壁には、剥がれかけた掲示物が残っている。端の丸まった時間割、名の一部が消えた清掃当番表、古い発表会の知らせ。紙は黄ばみ、糊の跡だけが壁に黒く残っていた。


 ルシアンは最初の教室の扉を開けた。


 机と椅子が、黒板へ向かって並んでいる。いくつかの椅子は脚が傾き、机の天板には小さな傷があった。板で塞がれていない窓の隙間から光が入り、床に細い線を作っている。黒板には、消し残された日付の一部と、授業で使ったらしい単語が薄く残っていた。黒板の下の溝には白い粉が溜まり、その上に埃がかぶっている。


 ここは、かつて教室だった。


 学生が座り、教師が板書し、廊下の掲示を見て、自分の名前を探した場所だった。その痕跡だけが、古い木と紙の匂いの中に残っている。


 ルシアンは教室から廊下へ戻った。灯りを床へ向ける。


 足跡は教室の中ではなく、廊下の中央に続いていた。


「ここを踏むな」


 クライヴと隊員がすぐに足を止めた。ルシアンはしゃがまず、廊下の端へ身を寄せて足跡の列を見た。積もった埃の上に、靴底の跡がいくつか重なっている。輪郭は完全ではないが、古いものではなかった。埃の表面が踏み固められ、縁だけが崩れている。


「正面扉から入って、奥へ向かっている」


 クライヴが記録具を構えた。


「戻った跡もありますか」


「ある。だが、全部が同じ靴ではない。歩幅も少し違う」


 ルシアンは灯りを低くさせ、廊下の中央から右寄りに残った跡を見た。軽く歩いた跡の隣に、少し深く残ったものがある。足の間隔も広い。重い物を持っていたのか、途中で歩幅が乱れたのかもしれない。今は、それ以上を言うべきではなかった。


 記録では閉ざされたままの廊下に、往復した跡がいくつも重なっていた。


 セレネが、クライヴの持つ灯りを少し上げさせた。その光で、掲示板の角に残った蜘蛛の巣が見えた。上の方の糸は白く埃をかぶっている。だが、人の肩から胸のあたりの高さだけ、糸が途中で切れていた。切れた端には、まだ新しい埃が乗っていない。


「殿下」


「何だ」


「ここを通ったものが、触れたのかもしれません」


 セレネは蜘蛛の巣には触れず、視線だけで高さを示した。ルシアンはその位置を見て、廊下の足跡へ目を戻す。


「人か、荷物か」


「はい」


 ルシアンは奥へ進んだ。廊下の両側には、同じように教室が続いている。扉の隙間から見える机の列、壁際に寄せられた壊れた椅子、古い棚。人のいない学校は、使われていた時の形をそのまま残していた。だからこそ、最近動いたものは目につく。


 廊下の突き当たり近くに、小さな準備室があった。


 扉の札は半分ほど剥がれ、文字の一部しか読めない。取っ手の周りには埃が薄く、扉の下には、開閉で削れた弧のような跡があった。床に積もった埃が扉の動きに沿って払われている。その線の上には、まだ厚い埃が戻っていない。


「ここも開けられているな」


 学院長が身を乗り出しかけた。ルシアンは手を上げて止める。


「触るな。扉の下を見ろ」


 学院長は足を止めた。ルシアンは床を指した。


「長く閉ざされていたなら、扉の開く形に沿って、ここだけ新しく削れることはない」


「では、最近誰かが」


「可能性だ。今はそう記録する」


 クライヴが一段下がった位置から、床と扉の下を写し取る。ルシアンは準備室を無理に開けなかった。中を見れば何か分かるかもしれない。だが、入口の跡を壊せば、誰がどこを通ったかを読む手がかりが減る。


「中はあとで確認する。今は、足跡を追う」


「承知しました」


 奥へ進むほど、光は少なくなった。窓を塞いだ板の隙間から入る光は細く、灯りを掲げる隊員の腕が壁に影を作る。埃が少し舞い、古い木の匂いに湿った石の匂いが混じった。足元の板はところどころ傷んでいる。ルシアンは一歩ごとに床を見て、足跡の列を外さないように進んだ。


 階段の手前に、柱時計があった。


 文字盤は曇り、針は同じ時刻で止まっている。下の硝子扉には細いひびが入り、振り子は動いていなかった。時計の脇には、遅刻への注意を書いた貼り紙が残っている。上半分は読めたが、下半分は湿気で波打ち、文字が崩れていた。


 その前で、足跡の向きが変わっていた。


 一部は右手の廊下へ続いている。だが、深く残っている跡は階段へ向かっていた。柱時計の前で立ち止まったらしい跡もある。靴底が重なり、埃が丸く削れていた。


 ルシアンは階段の前で止まった。


 二階へ続く階段は、奥へ向かって折れている。手すりは黒ずみ、踏み板の端には埃が積もっていた。中央だけが薄く擦れている。人が通る幅だけ、埃が少ない。手すりの途中にも、蜘蛛の巣が切れた箇所があった。


 二階の端の壊れた窓に、首を吊った女生徒が見える。エラリア嬢が寮へ戻らなくなった頃から、そう言われ始めた。


 ルシアンは踏み板を見た。階段にも足跡が続いている。上へ向かった跡と、戻った跡がある。だが、このまま上がれば、跡の重なりをさらに崩すことになる。階段は幅が狭く、廊下のように端を避けて歩く余地も少ない。


「クライヴ」


「はい」


「ここから先は、先に記録を取る。階段にはまだ入るな」


「承知しました」


 クライヴが隊員へ合図をした。灯りが一つ、階段の下へ向けられる。踏み板の埃と靴底の形が、薄い光の中で浮かぶ。


 学院長は管理簿を胸元に抱えたまま、階段を見上げていた。事務官は記録の束を持ち直し、紙の端を指で押さえている。セレネはルシアンの隣に立ち、階段の先ではなく、一段目に残った跡を見ていた。


「殿下」


 クライヴが一段下がった位置から声をかけた。


「上へ向かった跡と、下りてきた跡があります」


「ああ」


 ルシアンは足跡を見たまま答えた。


「少なくとも、誰かは上へ行っている」


 それだけを言った。


 灯りの届く範囲の先で、階段は折れ、二階へ続いていた。踏み板の中央に残った足跡は、暗い方へ向かっていた。


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