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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第4章 夫婦の部屋と学院の記憶

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壁の向こう

 階段の上は、まだ灯りが届かず暗かった。


 クライヴが踏み板の埃と靴底の形を記録し、もう一人の隊員が灯りの位置を変える。ルシアンは一段目の前で待っていた。上へ向かった跡と、下りてきた跡が重なっている。踏み板の端には厚く埃が残り、中央だけが薄く擦れていた。誰かが階段の真ん中を、何度か通っている。


「上がる。足跡の上は踏むな」


「承知しました」


 クライヴが先に灯りを高く掲げる。ルシアンは階段の端に足を置き、踏み板の中央を避けて上がった。古い木は体重を受けるたびに低く鳴ったが、崩れるほどではない。セレネは少し後ろを歩いている。黒髪をきちんとまとめ、海色の瞳は手すりではなく足元の跡を見ていた。


 二階の廊下へ出ると、窓を塞いだ板の隙間から細い光が入っていた。一階よりも風が入りやすいのか、壁際では埃が筋のように寄っている。だが、床の中央に残った足跡ははっきりしていた。階段から上がり、右手の奥へ向かっている。


 途中に扉は三つあった。


 一つ目の教室の前では、足跡は止まらなかった。取っ手には埃が厚くつき、床の前にも踏み跡はない。二つ目の扉も同じだった。表示札は落ちかけ、扉の下には細い蜘蛛の巣が張ったままになっている。三つ目の小部屋の前にも、古い埃がそのまま積もっていた。


 足跡は途中の扉の前で止まらず、廊下の突き当たりへ続いている。


「他の部屋には寄っていないな」


 ルシアンが言うと、クライヴが足元を確認して頷いた。


「はい。端の部屋へ向かっています」


 廊下の突き当たりに、他の教室より広い扉があった。


 そこが二階の一番端の部屋だった。これ以上奥へ進む廊下はない。外から見た時、壊れた窓があったのもこの位置だ。札は半分ほど剥がれていたが、残った文字で美術室だったことは分かる。取っ手の周りだけ埃が薄い。扉の下には、開閉で削れた跡があり、足跡はそこで何度も重なっていた。


「ここだな」


 ルシアンは手袋越しに取っ手へ触れた。金具は冷えていたが、固くはなかった。扉を少し押すと、蝶番が短く鳴る。開いた隙間から、古い油と顔料の匂いが出てきた。湿った石の匂いに混じって、乾いた絵具の匂いが残っている。


 中へ灯りを入れると、画架の列がまず見えた。


 倒れたものもあれば、壁際に寄せられたものもある。机の上には絵具皿が置かれ、縁に固まった色が厚く残っていた。筆は束ねられたまま乾き、毛先が広がっている。床には、絵を載せる木枠がいくつか積まれていた。


 ルシアンは足跡を避けて中へ入った。


 部屋の奥へ進むと、石膏像が棚の上と床の上に分けて置かれていた。欠けた鼻や指の白い断面が、灯りを受けて浮かぶ。古い人体模型もあり、片腕の関節が外れかけていた。壊れた窓のそばでは、破れたカーテンの端が秋の風でわずかに動いている。


 壁際には、古い絵が数枚立てかけられている。風景画も人物画もあったが、人物の顔だけが黒く塗りつぶされていた。黒く塗られた部分だけ、周囲より艶が残っている。もとの顔の輪郭が、厚い黒の下から少しだけ透けていた。


 学院長は絵から目をそらし、管理簿を抱え直した。ルシアンは絵に近づきすぎず、床を見た。


 ここにも足跡があった。


 入口から窓辺へ向かう跡。窓辺から壁際へ戻る跡。画架の脚を引きずった線。木枠を置き直したらしい四角い埃の跡。長く放置されていた部屋の中で、いくつかのものだけが最近動いている。


「誰かがここで作業していた」


「掃除ではありませんね」


 セレネが短く返した。彼女の視線は、床の引きずった跡から窓辺へ移っている。


「ああ。埃を払った跡じゃない。画架や木枠を動かした跡だ」


 ルシアンは床に残る細い線を見た。脚を引きずった跡は、窓辺へ向かって伸びている。


 壊れた窓のそばは、床の埃がさらに乱れていた。画架が一台、窓に向けて置かれている。その上には黒い布がかけられ、布の内側には石膏像の頭部と、人体模型の肩の部分が組み合わされていた。近くで見れば、画架と布と模型を組み合わせたものにすぎない。だが、黒い布は縦に落ち、石膏の頭部は布の上に半分隠れている。


 ルシアンは窓へ近づき、割れた硝子の残った枠から外を見た。下には、昨日セレネと立った敷地の端の道が見える。夕方なら、西から差す光がこの窓の縁にかかる。ルシアンは窓から身を引き、画架の正面ではなく、斜め下から見える位置に立った。黒い布の縦の線が石膏の頭部の下へ伸び、壊れた窓枠と重なる。


 外から見上げた者が、人の姿と見間違える余地はある。


 少なくとも、そう見せるために置かれている。


 ルシアンは画架の脚元を見た。床には、画架を置いた跡がいくつもある。四本の脚の跡が少しずつずれ、何度も位置を直したことが分かる。窓枠の下には、木炭か何かでつけた細い印が二つ残っていた。布の端にも結び直した跡があり、ほつれた繊維が一箇所だけ新しく切れている。


「偶然じゃないな」


 クライヴが灯りを近づけた。


「噂の女生徒ですか」


「そう見えるように作ってある。外から、ちょうど人に見える位置を探している」


 ルシアンは窓の外と画架の位置をもう一度見比べた。


「一度置いただけじゃない。何度も角度を変えている。夕方、外を通る者に見えるようにだ」


 セレネが、石膏像の首元を見ていた。


「吊っているわけではありません」


「布は、見た目を作るためか」


「はい。支えているのは、後ろの紐です」


 ルシアンは黒い布の端を見た。布は石膏像の重さを支えていない。ただ、頭の下へ垂らされている。外から見た者に、首から下が黒く伸びているように見せるためだった。


 怪異ではない。古い校舎の暗がりが作った見間違いでもない。誰かがこの部屋へ入り、道具を動かし、外から見える形を作った。


「では、首を吊った女生徒という噂は」


 学院長が画架を見たまま言った。


「誰かが、そう見えるものを作った。噂はそこから広がったんだろう」


 ルシアンは壊れた窓へ視線を戻した。


「学院側が確認に来た時は、なぜ気づかなかった」


 学院長は管理簿をめくった。指先が紙の端を押さえる。


「確認した職員は、旧校舎の中へは入っておりません。正面扉の鎖がかかったままでしたので、外から壊れた窓を見ただけです」


「中へ入っていないのか」


「はい。その時には窓に何も見えなかったため、学生の見間違いとして処理したと記録にあります」


 ルシアンは床に残る足跡を見た。旧校舎に入った職員の跡ではない。確認に来た者が外から見ただけなら、この廊下と美術室の足跡は別の誰かのものだ。


「つまり、誰もこの仕掛けを近くで見ていないわけだな」


「はい」


「クライヴ、位置を記録しろ。画架、布、石膏像、窓枠の印。動かすな」


「承知しました」


 クライヴが隊員に指示を出す。学院長は壊れた窓の向こうを見ていた。ルシアンは部屋の奥へ視線を移す。


 足跡は、窓辺だけで終わっていなかった。


 画架の周りで乱れたあと、壁際へ続いている。そこには古い絵や木枠が立てかけられ、破れたカーテンの束が床に置かれていた。木枠の下の埃は、四角い輪郭だけ残してずれている。最近積み直されたものだ。誰かが窓辺の仕掛けだけでなく、部屋の奥にも手を入れている。


 セレネは部屋の中央へ戻った。それから壊れた窓へ近づき、割れた硝子に触れないよう手を窓枠へ添えて、少しだけ身を乗り出す。


「危ない。あまり身を出すな」


「はい。すぐに戻ります」


 セレネは外壁に沿って視線を動かした。ルシアンも隣へ寄り、窓の外を確認する。


 旧美術室は、廊下の突き当たりにある角部屋だった。外から見ても、この壊れた窓が二階の端にある。だが、窓から外壁の角を確かめると、壊れた窓と建物の端との間に、まだ壁の厚み以上の余白があった。蔦と板に隠れるように、塞がれた小さな窓も一つ見える。


 ルシアンは室内へ視線を戻した。


 その塞がれた窓があるはずの位置には、壁しかない。


「殿下」


「何だ」


「この部屋、外から見た時よりも狭い感じがします」


 セレネは窓枠から手を離し、部屋の奥の壁へ視線を移した。


 ルシアンはもう一度、壊れた窓の外を見た。ここは廊下の突き当たりにある角部屋のはずだった。だが、壊れた窓の外には、建物の端までまだ少し壁が続いている。室内へ視線を戻すと、その分の空間がない。


「ここが角の部屋ではないということか」


「はい。外から見える端が、この壁の向こうにあります」


 セレネは壁に近づきすぎず、床を示した。壁の前には、足跡が集まっている。何度も立ったらしく、埃が丸く薄くなっていた。だが、その先に扉はない。取っ手も、継ぎ目も見えない。ただ古い壁板が並んでいるだけだった。


 ルシアンは壁の前に立った。


「クライヴ、灯りを」


 灯りが寄せられる。壁板は古く、表面に細い傷がある。釘の位置は他の壁と同じように見えたが、一部だけ板の色が周囲よりわずかに浅かった。


 ルシアンは手袋をした指の関節で、壁を軽く叩いた。最初の板は、詰まった木の音がした。隣へ移ると、同じように低く返る。さらに横へずらした時だけ、音が少し軽かった。


 もう一度、同じ場所を叩く。


 音は先ほどと同じだった。板の奥に、壁材とは別の空間がある。ルシアンは叩いた位置から手を離さず、足元に残る跡を見た。


 学院長が一歩近づいた。


「殿下」


「触るな」


 ルシアンは手を上げた。壁の前の床には、足跡がいくつも重なっている。何かを押したのか、立ち止まって作業したのか、同じ場所で靴底が何度も向きを変えていた。


 セレネは壁の端を見ていた。


「殿下」


「何だ」


「この壁の向こう、空いているかもしれません」


 ルシアンは壁へ視線を戻した。三つとも、同じ一点を指している。建物の外から見える端、それに合わない室内の壁、そしてここだけ軽く返る音。


「クライヴ、ここを重点的に記録しろ」


「隠し部屋、でしょうか」


「まだ決めるな」


 ルシアンは壁から手を離さず、足元の跡を見た。


「だが、壁の向こうに空間がある可能性は高い」


 クライヴが頷き、隊員が灯りを壁へ向けた。光が古い板の継ぎ目を細く照らす。壁の前に集まった足跡は、そこで途切れていた。


「ここで止める」


 ルシアンは壁から手を離した。


「壁は破るな。入口を探すのも、記録を取ってからだ。足跡を全部写せ。窓辺の仕掛けと、この壁の前の跡を分けて記録しろ」


「承知しました」


 クライヴが答える。


 ルシアンは、もう一度壁を見た。壊れた窓の仕掛け。外からは見えるのに、内側にはない塞がれた窓。壁の前に集まった足跡。


「この奥だ」


 ルシアンは壁の前から目を離さなかった。


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