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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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越えた距離

 夜になっても、扉の音が耳から離れなかった。


 星見宮の自室で、ルシアンは机の上に広げた報告書へ視線を落としていた。燭台の火は静かに揺れ、紙面の文字を淡く浮かび上がらせている。第二の首なし死体。三日前の遺体と酷似。首部欠損。切断面は異様に滑らか。争った痕跡は少ない。王都で広がり始めた噂。偽りの伴侶は三日目に首を失う。首を落とされた者の名は、片割れの記憶から消える。


 事件として見るなら、いくつも引っかかる点があった。死体の見せ方が整いすぎている。噂の広がりが早すぎる。恐怖の向かう先が、あまりにも貴族社会の柔らかい部分を狙っている。婚約、伴侶、打算、裏切り、愛のない結びつき。どれも、王都の夜会で微笑みながら交わされる言葉の下に、腐るほど埋まっているものばかりだ。


 それなのに、ルシアンの思考は何度も紙面から逸れた。


 白い回廊。夏の光。シオンの低い声。セレネの横顔。侍女へ向けられた視線。何を拒んだのか、何を求めたのか分からない短い沈黙。そして、木扉が閉じる鈍い音。


 あの音だけが、事件の報告よりもしつこく残っている。


 ルシアンは報告書を閉じた。革表紙が低く鳴る。閉じたところで、頭の中が静かになるわけではなかった。むしろ、紙面から目を離した分だけ、昼間の光景が鮮明になる。


 セレネの視線に後ろめたさはなかった。


 それは分かっている。それでも、自分の知らない何かが、シオンとセレネの間にある。その事実だけが、細い棘のように胸に残っていた。


 椅子の背には、脱いだ上着を掛けていた。首元はいつもより少し緩めてある。王族特務隊の隊長として現場へ出る時のような装いではない。自室で報告書を読むための、わずかに崩した格好だった。


 だが、身体を楽にしても、胸の内側までは緩まない。


 フェリクスの言葉も、まだ頭の隅に残っている。星見宮にも夫婦の部屋があるでしょ、と兄はあまりにも軽く言った。まるで、隣の部屋へ茶を取りに行く程度の気楽さで。


 セレネと同じ部屋で過ごしたい。できるなら、夜も、朝も、そばにいたい。その願いは、もう誤魔化しようがなかった。だが同時に、彼女を傷つけるようなことだけは絶対にしたくない。自分の欲で、彼女の名誉を曇らせたくない。


 それでも、会いたかった。


 ルシアンは椅子から立ち上がった。窓の外は夜の色に沈んでいる。昼には水音を立てていた庭の噴水も、今は沈黙していた。その静けさが、かえって妙に耳につく。遠くの庭からは、夜風に揺れる葉擦れだけがかすかに届いていた。


 頭を冷やすつもりで、ルシアンは硝子扉を開けた。


 夜風が入ってくる。


 夏の夜の風は、昼の熱をまだわずかに残していた。それでも石造りの宮を渡ってくるうちに角が取れ、緩めた襟元を撫でる頃には、熱を持った思考を少しだけ冷ましていく。


 ベランダへ出ると、星見宮の白い手すりが月明かりを受けて淡く光っていた。庭には祝宴の名残の花がまだいくつか残され、甘い香りが夜気に溶けている。昼の賑わいが嘘のように、宮は静かだった。止まった噴水の沈黙までが、夜の中に深く沈んでいる。


 水音がないのに、水辺の気配だけは残っている。


 ルシアンは小さく息を吐き、手すりへ指を置いた。


 その時、向かいのベランダに人影が見えた。


 黒髪が月明かりを受けて、夜の水面のように淡く光っている。セレネは、昼間のようにきちんと装った姿ではなかった。薄い白のナイトドレスに、同じ色の羽織を軽く肩へかけている。細い肩紐と、風に揺れる柔らかな布。結いきられていない黒髪が背へ流れ、その私的な姿が、いつもの彼女よりずっと近く見えた。


 眠ろうとしていたのか、それとも眠れなかったのか。ルシアンには分からない。ただ、彼女もまた、夜の中で一人、何かを抱えていたのだと思った。


 セレネがこちらに気づく。深い海色の瞳が夜の中で静かに上がった。


「ルシアン様」


 名を呼ばれただけで、胸の内側が乱れる。


 昼間からずっと胸に残っていた扉の音が、その声で一瞬だけ遠ざかった。だが同時に、もっと近くへ行きたいという願いが、どうしようもなく強くなる。


「そっちへ行ってもいいか」


 声に出してから、ルシアンは自分の言葉の軽率さを少しだけ思い知った。夜のベランダで、婚約者の部屋へ向かう。王族として褒められた行動ではない。だが、セレネはすぐには答えず、ただ静かに彼を見つめた。


「危なくありませんか」


 返ってきたのは、拒絶ではなく確認だった。


 ルシアンはほんの少しだけ口元を緩める。


「俺を誰だと思ってる」


「第三王子殿下です」


「そういう意味じゃない」


 セレネはわずかに首を傾げた。その仕草があまりにも普段通りで、胸の張りつめたものが少しだけ緩む。


「でしたら、どうぞ」


 どうぞ、という言葉が、夜気の中で静かに落ちた。


 ルシアンは手すりへ手をかける。星見宮の二つのベランダは、決して飛び越えられない距離ではない。王族特務隊の訓練を積んだ彼にとっては、危険と呼ぶほどでもなかった。だが、以前なら越えなかった距離だった。


 礼儀。節度。婚約者としての線引き。越えない理由はいくらでもあった。


 けれど今夜、ルシアンはそのどれでもなく、ただ会いたいという理由だけで手すりを越えた。


 夜風が、緩めたシャツの襟元をゆるく撫でる。短い空白の後、彼の靴底がセレネのベランダの石床に静かに触れた。わずかな音が夜に沈む。振り返れば、自分の部屋の明かりが向こう側で揺れている。戻れる距離だ。だが、もう同じ場所には戻れない気がした。


 セレネは彼を見上げていた。驚きはない。けれど、ほんのわずかに目を細めたように見える。月明かりのせいかもしれない。


「寒くないか」


「大丈夫です」


「眠れなかったのか」


「少し、考え事をしていました」


 考え事。


 その言葉に、昼間の扉の音がまた胸の奥で鳴った。


 ルシアンはセレネの前で足を止めた。夜風が、彼女の黒髪を頬へ流す。考えるより先に、指先が動いていた。


 ルシアンはその髪をそっと掬い、耳の後ろへ逃がす。月明かりを含んだ黒髪は、夏の夜気をまとって、指先にさらりと流れた。


「昼間」


 セレネの睫毛が、わずかに揺れる。


「シオンと話していただろ」


「……はい」


「何を話していた」


 責めるつもりはなかった。少なくとも、そのつもりで声を出した。けれど、言葉の底に硬さが混じったのを自分でも感じた。


 セレネはすぐには答えなかった。


 夜風が二人の間を抜ける。セレネは一度だけ視線を落とす。沈黙は長くはなかった。だが、ルシアンにはその短い間が、昼間の白い回廊よりも遠く感じられた。


「……まだ、話せません」


 静かな声だった。


 拒絶ではない。そう思いたかった。いや、実際、拒絶ではなかったのだろう。セレネの声には突き放す冷たさはない。ただ、今は言葉にできないものを抱えている人間の、深い静けさがあった。


 それでも、痛みは消えない。


 聞きたい。だが、今のセレネから無理に言葉を奪うことだけはしたくなかった。


「分かった」


 喉の奥が苦い。


 セレネが顔を上げる。海色の瞳が月明かりを受けて、いつもより少し淡く見えた。


「よろしいのですか」


「よくはない」


 正直に言うと、セレネは何も返さなかった。


「だが、お前が今は話せないと言うなら、待つ。無理に聞き出すつもりはない」


 言えたのは、彼女を信じているからだ。だが、信じていることと、苦しくないことは違う。胸の奥ではまだ、昼間の扉が閉じた音が鳴っている。シオンが知っていて、自分が知らない何か。セレネが話せずにいる何か。それを思うたび、男としての感情が、隊長としての理性の奥で静かに荒れた。


 それでも、暴く男にはなりたくなかった。


 セレネがいつか自分で差し出すなら、その時に受け取りたい。そうでなければ、自分が欲しいからという理由だけで、彼女の胸の中へ土足で踏み込むことになる。


 ルシアンは一度だけ息を吐いた。言わないつもりだった言葉が、胸の内側で行き場を失っている。情けない願いだと分かっていた。それでも、今夜はどうしても、それくらいは欲しかった。


「その代わり、頼みたいことがある」


「何でしょう」


 セレネは逃げなかった。


 だからこそ、ルシアンは余計に声を落とすしかなかった。


「二人の時は」


 そこで言葉が少し詰まる。


 シオンと何を話したのか。なぜ自分には話せないのか。聞きたいことは山ほどある。けれど、今、ルシアンが口にしたいのはそれではなかった。


「……敬称は、いらない」


 セレネが静かに瞬きをした。


「ルシアン様、ではなく?」


「ルシアンでいい」


 言ってから、ひどく子供じみた願いだと思った。敬称ひとつで、秘密がなくなるわけではない。シオンが知っていて、自分が知らない何かに届くわけでもない。昼間閉じた扉が開くわけでもない。


 それでも、彼女の口から呼ばれるその名だけは、少しでも近い場所に置きたかった。


 セレネはしばらく黙っていた。


 夜の沈黙の中で、庭木の葉がかすかに揺れる。ルシアンは自分の指先がわずかに強張っていることに気づいた。たかが名前だ。そう思おうとしても、胸の奥は少しも落ち着かなかった。


 やがて、セレネの唇が静かに動く。


「……ルシアン」


 たった一言だった。


 それなのに、胸の奥に張りつめていたものが、少しだけほどける。息をすることすら一瞬忘れた。昨日の朝にも聞いた名だ。けれど今夜のそれは、もっと静かで、もっと深く届いた。


「もう一度」


 口にしてから、自分でも浅ましいと思った。だが、セレネは責めなかった。ほんのわずかに視線を伏せ、月明かりの下で、もう一度その名を呼ぶ。


「ルシアン」


 今度は、先ほどよりも柔らかかった。


 その瞬間、ルシアンの中で何かが静かに崩れた。


 夜風がまた二人の間を抜けた。先ほど耳の後ろへ逃がした黒髪が、もう一度頬へ戻りかける。ルシアンは今度は髪ではなく、彼女の肩へそっと手を置いた。


 そのまま、何も言わずに腕の中へ引き寄せる。


 薄い衣擦れの音が、夜に混じった。薄い羽織越しに触れる身体は、昼間のドレス姿よりもずっと頼りなく感じられる。セレネは一瞬だけかすかに息を止めたが、逃げなかった。拒まなかった。その事実が、ルシアンの胸をさらに締めつける。彼女の細い指が、彼のシャツの布地にそっと触れた。


 それだけで十分だった。


 今は、秘密を暴けなくてもいい。全部を知ることができなくてもいい。昼間の扉の向こうに何があったとしても、今この腕の中にいるセレネが、自分から離れようとしていない。その事実だけを、ルシアンはどうしようもなく欲していた。


「……苦しいですか」


 腕の中で、セレネが静かに尋ねた。


「苦しくない」


「ですが、力が入っています」


「入る」


 低く返すと、セレネはそれ以上問わなかった。代わりに、彼のシャツに触れていた指先が、ほんの少しだけ布を掴む。


 その仕草だけで、ルシアンは抱き締める腕の力を緩めた。離したくはなかったが、壊したいわけではない。触れていたいことと、彼女を苦しめないことは、同じ場所に置かなければならなかった。


 しばらく、二人はそのまま夏の夜風の中にいた。庭木の葉擦れ。室内から漏れる淡い灯り。月明かりに白く照らされた手すり。昼間の回廊とは違う、静かな夜の空気が二人を包んでいる。


 やがて、セレネがほんの少し身じろぎした。


 ルシアンは腕を緩める。セレネは逃げなかった。ただ少しだけ視線を落とし、月明かりの下で、その白い指先が袖口に触れる。何かを迷うような、けれど逃げるためではない沈黙だった。


「……お茶でも、飲まれていきますか」


 静かな声だった。


 それだけなら、いつものセレネらしい実用的な提案にも聞こえた。夏の夜風とはいえ、長く外に立っていれば、身体も少しずつ冷えてくる。茶を用意する理由はいくらでもあった。


 だが、この時間に、彼女の部屋で、二人で茶を飲む。


 その意味を、ルシアンが意識しないはずがなかった。


 フェリクスの顔が一瞬だけ頭をよぎった。星見宮にも夫婦の部屋があるでしょ、と気楽に言った兄の声まで蘇りかけて、ルシアンは胸の内側でそれを追い払う。


「……茶だけだぞ」


 ようやく出した声は、自分でも情けないほど低かった。


「はい」


 セレネは静かに答えた。


 その返事が本当に茶の話だけをしているのか、そうではないのか、ルシアンには分からない。分からないからこそ、余計にたちが悪い。セレネは硝子扉の方へ半歩下がり、こちらを待つ。


 行けば、また離れがたくなる。


 分かっていた。


 だが、彼女が自分の名を呼び、腕の中で逃げず、そして今、自分の部屋へ招いている。そのすべてを前にして、断れるはずがなかった。


 セレネの指が、硝子扉の取っ手に触れる。室内の淡い灯りが、扉の向こうで揺れていた。昼間、自分の前で閉じた扉とは違う。今、目の前の扉は、彼女自身の手で静かに開かれようとしている。


 ルシアンは一歩踏み出した。


 夜風が背後で揺れる。事件も、噂も、シオンとの秘密も、消えたわけではない。何ひとつ解決していない。


 それでも、呼ばれた名と、腕の中に残る彼女の重さだけは、確かに自分へ向けられたものだった。


 セレネが扉を開ける。


 ルシアンは、その明かりの中へ足を踏み入れた。扉が背後で閉まると、夏の夜風が途切れる。緩めた襟元に残っていた夜気だけが、少し遅れて肌から離れていった。


「……茶だけだぞ」


 念を押す声は、やはり少し頼りなかった。


「はい」


 セレネの返事は静かだった。


 けれど、その夜、彼女が自分で開いた扉の向こうへ招いたのは、確かにルシアンだった。

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