知らない扉
フェリクスの研究室は、いつ来ても紙と薬草と古い革表紙の匂いがした。
王城の奥まった一角にあるその部屋は、第二王子の私室というより、半ば書庫であり、半ば実験室だった。壁一面の棚には古文書や写本、解体しかけの古い錠前、用途の分からない硝子器具が並び、窓際には乾燥させた草束が逆さに吊るされている。昼前の光が高い窓から斜めに差し込み、机の上に積まれた紙束の端を淡く照らしていた。
ルシアンは扉の前で一度だけ足を止めた。
相談、などという言葉を自分から認めるのは癪だった。しかも内容が内容だ。王族特務隊の案件でも、地下構造の解読でも、毒物や古記録の照合でもない。今の自分が抱えているのは、もっと厄介で、もっと情けなくて、そして誰にも聞かれたくない種類のものだった。
だが、それでも足はここへ向いていた。
レオニス兄上のところへ行けば、おそらく真面目な顔で王族としての責任を説かれる。正しい。間違いなく正しい。だが、今それを真正面から食らえば、ルシアンはその場で机に額を打ちつけたくなる自信があった。フェリクスなら、もう少し息の抜けた顔で聞く。いや、余計なことも言うだろう。言うに決まっている。それでも、結局こういう時に足が向くのは、この兄の部屋だった。
ルシアンが扉を叩くと、中から間延びした声が返ってきた。
「開いてるよ」
入ると、フェリクスは机の上に広げた羊皮紙から顔を上げた。銀縁の眼鏡の奥で、眠そうな瞳がゆるく細められる。王子というより、徹夜明けの研究者そのものだった。もっとも、彼はいつでもそう見える。
「珍しいね、ルシアンが自分から来るなんて。事件?」
「……事件ではない」
その返答だけで、フェリクスの目がわずかに楽しげになる。ルシアンはそれに気づき、早くも来たことを後悔しかけた。
「じゃあ、セレネ嬢?」
「なぜそこで即答する」
「君が事件以外でそんな顔をして僕のところへ来る理由なんて、それくらいしかないでしょ」
あっさり言われ、ルシアンは舌打ちを飲み込んだ。実際、その通りだったから余計に腹が立つ。フェリクスは椅子の背にもたれ、手元の羽根ペンを置いた。からかうというより、最初からそういう相談が来ると知っていたような落ち着きだった。
その顔を見て、ルシアンの中の意地が少しだけ緩んだ。
兄弟の中で、フェリクスはいつも一歩横にいる。レオニスのように王家の正面に立つわけではなく、ルシアンのように現場へ飛び込むわけでもない。けれど、振り返ると妙な場所で茶を飲みながら、こちらの悩みをとっくに見抜いている。腹立たしいほど気楽で、腹立たしいほど頼りになる兄だった。
ルシアンは近くの椅子に腰を下ろした。革張りの椅子がわずかに沈む。膝の上で組んだ手袋の指先に、前夜の感触が蘇りかけて、慌てて視線を机へ落とした。
黒髪。薄い寝衣の白。自分の袖を掴んだ細い指。離れると、戻ってこない気がします、と静かに言った声。
そして、朝の淡い光の中で、自分の名を呼んだ唇。
ルシアンは喉の奥が詰まるのを感じた。胸の内側だけが、妙に落ち着かない。剣を握る時の緊張とは違う。敵を前にした時の高揚とも違う。触れてはいけないものに触れてしまった後で、もう知らなかった頃には戻れないと悟る、あのどうしようもなさだった。
「……兄上」
「うん」
「婚約者と過ごす時間のことで、聞きたいことがある」
フェリクスは瞬きをした後、少しだけ口元を緩めた。
「いいよ」
「その顔をやめろ」
「まだ何も言ってないけど」
「もう言ってる顔だろ」
「君、昔からそういうところだけ察しがいいよね」
ルシアンは低く息を吐いた。ここで引けば、今日ここへ来た意味がなくなる。だが、いざ言葉にしようとすると、喉の手前でひどく重くなる。セレネの名を他人の前で出すだけで、昨夜の部屋の静けさまで一緒に引きずり出される気がした。
フェリクスは急かさなかった。ただ片肘をつき、続きを待っている。そういうところが、余計に逃げ場をなくす。
「……同じ部屋で過ごしたいと思うのは」
言いかけて、ルシアンは一度言葉を切った。何を言っているんだ、俺は。そう思ったが、フェリクスは何も言わない。
だから余計に、逃げられなかった。
「……おかしいか」
フェリクスはごく自然に答えた。
「別に。いいんじゃない?」
「いいのか」
「一緒にいたいんでしょ?」
あまりにも軽かった。ルシアンは思わず顔を上げる。
「まだ婚姻していない」
「うん」
「婚約中だぞ」
「うん」
「うん、じゃない。王族だ。世間体もある。セレネの名誉もある。俺が軽率なことをすれば、あいつに傷がつく」
言葉にすると、少しだけ息が整った。そうだ。問題はそこだ。自分が何を望むかではない。セレネがどう見られるか。彼女の静かな横顔に、くだらない噂や悪意が触れることだけは許せない。
フェリクスは頬杖をついたまま、ゆるく首を傾げた。
「でも、君は軽率なことをしないでしょ」
「……分からないから来たんだろ」
その瞬間、フェリクスの表情が少しだけ変わった。笑うでも、茶化すでもない。弟がようやく本音を吐いたことを、分かっていた顔だった。
ルシアンは視線を逸らした。窓辺の乾いた草束が、薄い光の中で影を落としている。
「昨日、セレネが離れたがらなかった」
声が低くなる。自分でも情けないほど慎重な声だった。
「俺も、離したくなかった。朝まで一緒にいた。何もしていない。だが……あいつが俺の名を呼ぶだけで、どうにかなりそうになる」
フェリクスは黙って聞いていた。
ルシアンは手袋の指を強く曲げる。
「同じ部屋で過ごしたい。できるなら、夜も、朝も、そばにいたい。だが、そうしたら自分がどこまで保てるのか分からない」
口にした途端、顔の奥がかすかに火照った。よりによって兄に何を言っている。そう思ったが、フェリクスは笑わなかった。
「そっか」
ただ、それだけだった。
その短い返事に、ルシアンは少しだけ肩の力を抜く。フェリクスは机の上の紙束を端へ寄せ、空いた場所に肘を置いた。
「ルシアンは真面目だねえ」
「悪いか」
「悪くないよ。セレネ嬢には、たぶんそれくらいがちょうどいい」
その言い方に、ルシアンは眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「君は止まれる男だってこと。止まるのも、守ることの一部だからね」
さらりと言われ、ルシアンは返す言葉を失った。フェリクスの声には、いつもの軽さがあった。けれど、その奥に妙な実感が混じっている気がした。
嫌な予感がした。
「兄上は、どうしていたんだ」
ルシアンがそう聞いた瞬間、フェリクスはごく自然に答えた。
「僕? ミレイユとは婚前からずっと同じ部屋で過ごしてたよ」
沈黙が落ちた。
研究室のどこかで、硝子器具が小さく鳴った気がした。いや、鳴ったのはルシアンの頭の中かもしれない。
「……今、何て言った」
「だから、ミレイユとは婚前から同じ部屋で過ごしてたって」
「兄上」
「うん?」
「それを、俺の相談に対する参考例として出したのか」
「駄目?」
駄目だろう。かなり駄目だ。少なくとも、今の自分に聞かせる話ではない。
ルシアンが額を押さえると、フェリクスは悪びれる様子もなく続けた。
「まあ、僕たちはそのまま子供ができたから籍を入れることになったんだけど」
「は?」
声が、思ったより低く出た。
フェリクスは机の引き出しから小さな菓子を取り出しかけ、途中でやめた。指先が菓子箱の縁に触れたまま、少しだけ目を細める。
「ミレイユのお腹が目立つ前に、ちゃんとドレスを着せてあげたかったんだ。結婚式も、彼女が何かを言われる前に済ませたかった。あの子、平気な顔をするけど、そういうところは案外ひとりで抱え込むから」
ルシアンは言葉を失った。
祝宴の時のミレイユの柔らかな笑みが脳裏をよぎる。フェリクスの隣で、幸せそうに、けれど少し緊張したように立っていた彼女。その姿を思い返すと、兄の言葉は軽率というより、妙に優しかった。優しかったからこそ、余計に混乱する。
「……待て。つまり、あの結婚式は」
「うん。間に合ってよかったよね」
「よかったよね、ではない」
「僕は研究とミレイユがいればいいし、これからはパパになるからね」
フェリクスは嬉しそうに笑った。
その顔を見て、ルシアンは深く息を吐いた。怒るべきなのか、祝うべきなのか、呆れるべきなのか、判断が追いつかない。兄上は本当に参考にしていいのか。頭の隅で、かなり真剣にそう思った。
「ルシアンだって、同じ部屋にすればいいじゃん。星見宮にも夫婦の部屋があるでしょ」
「軽く言うな」
「でも、どうせ結婚するんだし」
「まだしていない」
「するんでしょ?」
当然のように言われ、ルシアンは黙った。
する。するつもりだ。王族として定められた婚約だから、ではない。今はもう、それだけではなかった。セレネを自分の隣に置きたい。誰かのものにしたくない。彼女が朝目を覚ます時、最初に視界に入る場所にいたい。そう思ってしまう。
その欲があまりにも明確で、ルシアンは視線を落とした。
昨日のセレネがまた蘇る。袖を掴む指。逃げない海色の瞳。小さく呼ばれた自分の名。あの状態で同じ部屋にいたら、理性が保つ気がしない。いや、保たせなければならない。そう思うほど、胸の内側で何かが強く波打つ。
その時だった。
研究室の扉が、控えめながら急を告げる強さで叩かれた。
「殿下。失礼いたします」
特務隊の隊員だった。入室した男の顔には、血の気が薄かった。ルシアンは椅子から立ち上がる。フェリクスも菓子箱から手を離し、眼鏡の奥の目を細めた。先ほどまでの緩さが、部屋から静かに引いていく。
「どうした」
「警邏隊より急報です。第二の首なし死体が発見されました」
空気が変わった。
ルシアンの胸に残っていた前夜の余韻が、冷えた刃を当てられたように遠ざかる。指先が自然に剣帯へ触れた。
「場所は」
「東区の旧商会倉庫近くです。三日前に発見された遺体と酷似しています。今回も首部欠損。切断面が異様に滑らかで、周囲に大きな争った痕跡はありません」
隊員は言葉を選びながら報告していた。訓練された兵の声だったが、喉の奥にかすかな硬さがある。実際に見た者から伝わってきた恐怖が、まだ報告の端に残っているのだろう。
フェリクスがゆっくりと立ち上がった。長衣の裾が床を擦り、机の上の紙が一枚だけ揺れた。
「身元は?」
「確認中です。ただ、所持品から貴族筋、あるいは政治関係者と接点がある人物の可能性が高いと」
「三日前の件と同じ手口か」
「警邏隊はそう見ています」
ルシアンは眉を寄せた。首を失った死体。滑らかな切断面。争った痕跡の少なさ。派手な殺し方に見えて、現場は妙に静かすぎる。力任せではない。見せるための死体だ。
嫌な記憶が水底から浮かび上がる。
水鏡の魔女。眠る宮。人は怪異の名を借りて、どこまでも残酷になれる。だが時々、その名に引き寄せられるように、理屈だけでは片づかないものが姿を見せる。
隊員はさらに声を潜めた。
「それと、王都で妙な噂が広がり始めています」
「噂?」
「偽りの伴侶は三日目に首を失う、と」
フェリクスの表情から、完全に笑みが消えた。
ルシアンはゆっくりと息を吸った。
「出所は」
「不明です。市場、馬車溜まり、使用人筋、いくつかの酒場で、ほぼ同時に囁かれ始めています。ほかにも、首を落とされた者の名は片割れの記憶から消える、忘れた者は三日後に迎えに来られる、という形に変わっているものもあります」
「早すぎるな」
ルシアンは低く言った。
死体が見つかり、噂が広がる。それ自体は珍しくない。だが、形を持った怪談として王都の複数箇所へ同時に流れるのは別だ。誰かが意図している。恐怖の形を整え、人の口へ乗せている。
「偽りの伴侶、か」
フェリクスが小さく呟く。その声に、先ほどの私的な話の名残はなかった。
「婚約者、秘密の恋人、伴侶候補、政治的な結びつき。そういう関係を狙う噂だね」
「王都の貴族社会には、腐るほどある」
ルシアンは短く吐き捨てた。
愛のない婚約。利害だけの縁組。支援と引き換えの伴侶候補。隠された恋人。不実な関係。噂は、そういうものに食いつく。怪異の名を与えれば、人は自分に関係があるかもしれない恐怖を勝手に育てる。
「現場へ行く」
ルシアンは外套を取った。
「警邏隊には現場封鎖を継続させろ。見物人を近づけるな。死体の状態は口外禁止。噂を追う班も出せ。市場、酒場、貴族家の使用人筋、同時にだ」
「はっ」
隊員が頭を下げる。
フェリクスも机の上から数枚の紙を取り、手早く丸めた。
「僕も後で記録を見よう。三日前の死体の切断面について、詳しい検分書を回して」
「分かった」
ルシアンは短く答え、研究室を出た。
廊下へ出ると、昼の光は先ほどより強くなっていた。白い石造りの回廊に、窓枠の影が長く落ちている。祝宴の名残で飾られた花の一部はまだ壁際に残され、夏の甘い香りを漂わせていた。王宮は表向き穏やかだ。だが、その下を別のものが這い始めている。
足早に進みながら、ルシアンは報告の断片を頭の中で並べる。
三日前。第一の首なし死体。今日、第二。滑らかな切断面。争った痕跡の少なさ。偽りの伴侶。三日目。記憶から消える名。
噂が事件を追っているのか。事件が噂に合わせているのか。
その時、前方の回廊で聞き慣れた声がした。
「セレネ」
ルシアンの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
陽の差す回廊の向こうに、シオン・アステリオスが立っていた。薄い色の上着をゆるく着こなし、いかにも軽やかな貴公子の顔で笑っている。だが、今日はその目の奥に、どこか張りつめたものがあった。
その前に、セレネがいた。
黒髪はきちんと結われ、深い海色の瞳は静かにシオンを見ている。傍らには侍女が一人控えていた。距離は保たれている。何も不自然ではない。そう判断できるだけの理性はあった。
それでも、胸の奥が静かにざわめいた。
前夜、あの手は自分の袖を掴んでいた。朝、自分の名を呼んだ。去り際の口付けに、彼女は逃げなかった。その記憶がまだ生々しく残っているせいで、シオンがセレネの名を呼ぶだけで、喉の奥に硬いものが詰まる。
シオンの声が、わずかに低く落ちた。
「大事な話があるんだ」
そこまでは聞こえた。続く言葉は、窓から入り込んだ風と、廊下を行き交う足音に薄れる。
セレネはすぐには頷かなかった。侍女へ一度視線を向け、静かに何かを返す。
シオンは首を横に振った。
何を拒んだのか、何を求めたのかまでは分からない。ただ、その短い沈黙だけが、妙に長く見えた。
何の話だ。
喉元まで出かけた問いを、ルシアンは飲み込んだ。今、自分が割って入ればいい。王族としても、婚約者としても、それを咎める理由はいくらでもある。だが、同時に背後では第二の死体が待っている。王都に噂が広がり始めている。特務隊長として、ここで足を止めるわけにはいかなかった。
シオンが、ふとこちらに気づいた。
目が合う。
その唇に、いつもの笑みが浮かびかけた。だが完全には形にならない。まるで何かを隠すために笑いを使おうとして、途中でやめたようだった。
セレネもルシアンに気づいた。
海色の瞳がこちらを向く。ほんの短い間だった。けれど、その視線に後ろめたさはなかった。だからこそ、胸の痛みは別の形を取った。
疑っているわけではない。
セレネが、昨日あの夜を共に過ごしたあとで、別の男へ心を移すような女ではないことくらい分かっている。彼女の静けさは、そういう軽さとは最も遠い場所にある。信じている。信じているから、腹立たしいほど何も言えない。
「殿下」
同行していた隊員が、遠慮がちに声をかける。
ルシアンは視線を外した。剣帯へかけた指に力を込め、それから離す。
「行くぞ」
声は思ったより平静だった。
背後で、低い声が短く落ちた。続いて扉の開く音がする。
ルシアンは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。足が止まれば、隊長としての判断より先に、男としての感情が動く。
木扉が閉じる鈍い音だけが、白い回廊の奥でやけにはっきり響いた。
首を失った死体。三日目に囁かれる噂。偽りの伴侶という、人の弱さに食い込む言葉。
そのどれもが、今すぐ追うべきものだった。
それなのに、閉じた扉の音が、耳の奥に残り続けている。
ルシアンは歩調を速めた。窓から差す夏の光が、磨かれた床に鋭く反射する。その光の中で、彼の瞳の金色が、いつもより濃く揺れていた。




