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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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離したくない

乱れた呼吸だけが、静かな室内へ残っていた。


 窓の外で、夜風が木々を揺らす音がする。閉じ切っていなかった薄布が静かに波打ち、その隙間から入り込んだ夜気が熱を持った肌へゆっくり触れた。だが、ルシアンにはもうそれすら遠かった。セレネの肩へ額を押しつけたまま、深く息を吐く。


 肩を露わにした薄い衣服越しに、ほとんど直接に近い体温が伝わってきた。白い肌へ落ちる自分の吐息に、セレネの肩が小さく震える。その反応だけで喉の奥がじわりと熱を持った。柔らかな感触も、甘い香りも近すぎる。こんな状態で密着したままでは、本当に理性が保たない。


 そう思って離れようとした瞬間、セレネの指先が服を掴んだ。離す気がない、と訴えるような掴み方だった。その仕草ひとつで、また抱き締めたくなるのだから、どうしようもなかった。


 ルシアンは浅く息を吐き、そのまま露わになった肩へ唇を寄せる。触れるだけの短い口付けだった。だが、柔らかな肌へ唇が触れた瞬間、胸の奥で何かが大きく揺れる。セレネが小さく息を呑んだ。窓の外で風がまた枝を鳴らす。その音だけが、しばらく静かな室内へ残った。


 肩へ落ちた黒髪をそっと避ける。白い首筋が灯りの下へ露わになった。細く、綺麗で、触れた瞬間壊れてしまいそうなくらい白い。ルシアンは呼吸を止める。なのに次の瞬間には、もう首筋へ口付けていた。熱を確かめるようにゆっくり触れるたび、セレネの呼吸が不安定に揺れる。肩へ添えられた指先が、無意識のようにルシアンの服を強く掴んだ。


 その反応が近すぎる。体温も、甘い香りも、触れるたび震える呼吸も、全部が理性を奪っていく。ルシアンは強く息を吐き、そこでようやく顔を上げた。これ以上は本当にまずい。


 そう思いながら見た海色の瞳は、熱を残して静かに揺れていた。乱れた呼吸。赤みの残る頬。薄く潤んだ視線。だが、その顔を見た瞬間、不思議なくらい胸の奥が静かになる。抱き締めたい。大事にしたい。その感情だけが、熱の奥へゆっくり残っていく。


 ルシアンは小さく息を吐き、今度は優しく黒髪を撫でた。


「……ソファで寝かせるわけにはいかない」


 低く呟いたあと、ゆっくり腕を差し入れる。背へ片腕を回し、もう片方を膝裏へ添えた瞬間、セレネの身体がふわりと浮いた。セレネが小さく息を呑む。黒髪が肩を滑り落ち、柔らかな感触が腕へ触れた。


「……殿下」


「今さらだろ」


 掠れた声で返しながら、そのまま抱き上げる。驚くほど軽い。細い身体がすっぽり腕の中へ収まってしまう。しかもセレネは抵抗しない。むしろ落ち着くように、そっとルシアンの肩口へ額を寄せた。


 その瞬間、また胸の奥が甘く軋む。


「……お前、本当に無防備だな」


 低く零した声は、自分でも驚くほど甘かった。だがセレネは分かっていない顔をしている。海色の瞳が静かにルシアンを映したあと、安心したように睫毛を伏せた。その反応ひとつひとつに感情を揺らされながら、ルシアンは寝台へ向かった。夜の静かな室内へ、衣擦れの音だけが小さく響いていた。


 寝台へそっと身体を降ろす。白い寝具へ黒髪が広がった。離れようとした瞬間、服の裾をまた掴まれる。ルシアンは止まった。海色の瞳が静かにこちらを見上げている。熱を残したまま、離そうとしない。


「……セレネ」


 呼ぶと、長い睫毛がわずかに揺れる。


「このまま寝る気か」


 静かな問いだった。だがセレネは小さく瞬きをしたあと、ほんの少しだけ指先へ力を込めた。離れたくない、と言葉にされなくても分かる。


 閉じ切っていなかった窓から夜風が吹き込み、揺れた燭台の灯りが白い頬へ淡く影を落とした。その姿を見ているだけで、落ち着かなくなる。ルシアンは視線を逸らし、浅く息を吐いた。


「……お前、本当にそういうところだぞ」


 掠れた声が漏れる。だがセレネ本人は、自分がどれだけ危険なことをしているのか分かっていない顔をしていた。


「一回離せ」


 言うと、セレネの指先がぴたりと止まる。


「……嫌です」


 即答だった。ルシアンは数秒固まった。


「嫌ってお前……」


「離れると、戻ってこない気がします」


 静かな声だった。けれど掴んだ手だけは離れない。その言葉に、胸の奥が大きく揺れる。ルシアンは何も言えないまま、そのままセレネを抱き寄せた。細い身体が腕の中へ深く収まる。黒髪へ顔を埋めるように、苦しそうに息を吐いた。


「……行かない」


 低い声だった。そのまま額へ軽く口付ける。


「だから一回だけ離せ。制服のまま寝るわけにいかない」


 セレネはしばらく黙っていた。やがて、ほんの少しだけ指先の力が緩む。


「……一緒に寝てくださるなら」


 その瞬間、ルシアンは強く息を止めた。窓の外で、風が静かに木々を揺らしている。その音だけがやけに遠い。


「……お前な」


 掠れた声になる。だが結局断れるわけもなく、ルシアンは観念したように息を吐いた。


「分かった。約束する」


 その返答を聞いた瞬間、セレネの指先がようやく離れる。ルシアンは立ち上がり、特務隊の上着へ手をかけた。留め具を外し、重い外套を肩から滑らせる。ようやく少し呼吸が楽になる。


 だが、寝台へ視線を戻した瞬間、意味がなかったと思った。セレネがこちらを見ている。黒髪が白い寝具へ広がり、海色の瞳が静かにルシアンを映していた。その顔だけで、また心臓がうるさくなる。


「……そんな顔するな」


「どんな顔でしょう」


「自覚ないなら余計に質が悪い」


 低く呟きながら、ルシアンは再び寝台へ腰を下ろした。途端に、セレネの指先が服の袖へ触れる。離さない、と言うように。その瞬間、胸の奥がまた甘く揺れた。


「……ルシアン様」


 静かな声だった。呼ばれた瞬間、先ほどの熱が一気に蘇る。口付けの合間。乱れた呼吸。熱を持った瞳。自分の名前を呼ばれた瞬間、理性が崩れ落ちたことまで全部思い出す。


 ルシアンは堪えるようにセレネの肩口へ額を押しつけた。


「……今それは反則だろ」


 掠れた声になる。だがセレネは不思議そうに小さく瞬きをしただけだった。本気で分かっていない。その無防備さが危険すぎる。


 ルシアンは深く息を吐き、そのまま寝台へ横になる。すぐ隣へ、セレネの体温が近づいた。細い身体がそっと腕の中へ収まる。無意識のように胸元へ額を寄せてくるその仕草だけで、また抱き締めずにはいられなかった。


「……だから無防備すぎるんだよ、お前は」


 低く呟きながら、黒髪へそっと口付ける。セレネは抵抗しない。むしろ安心したように、さらに近くへ寄った。腕の中の熱が近い。乱れていた呼吸が少しずつ穏やかになり、やがて小さな寝息へ変わっていく。


 眠ったのか。ルシアンは目を瞬かせる。つい先ほどまで、あんな顔で自分を見上げていたくせに、今は無防備に腕の中で眠っている。ルシアンはしばらく、その髪を撫でることしかできなかった。失いたくない。その感情だけが、胸の奥へ深く残る。窓の外では、夜がゆっくり更けていった。


    ◇


 閉じ切っていなかったカーテンが、朝風にわずかに揺れる。その隙間から零れた淡い金色の光が、セレネの黒髪へ静かに落ちていた。腕の中の体温はまだ温かい。規則正しい寝息だけが近かった。


 ルシアンはゆっくり目を開ける。最初に感じたのは、胸元へ寄せられた柔らかな重みだった。ぼんやり視線を落とし、そこでようやく昨夜の記憶が戻る。


 口付けた。何度も。抱き締めて、そのまま離せなくなって——。


 ルシアンは低く息を吐いた。


「……最悪だ」


 掠れた声が漏れる。完全に理性が飛んでいた。いや、最後で止まっただけ、まだましなのか。そんなことを考えた瞬間、腕の中の身体が小さく動く。ルシアンの呼吸が止まった。


 長い睫毛が震え、ゆっくり海色の瞳が開く。まだ眠たげに揺れた視線が、近い距離のままルシアンを映した。数秒、沈黙が落ちる。朝風がカーテンを揺らし、柔らかな光が静かに寝台へ差し込んでいた。


 近い。近すぎる。抱き締めたまま眠っていたことを思い出し、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。


「……おはようございます」


 先にそう言ったのはセレネだった。普段と変わらない静かな声。だが、どこか少しだけ掠れている。昨夜の熱を思い出しそうになり、ルシアンは浅く息を吐いた。


「……おはよう」


 思ったより声が低くなる。セレネはまだ腕の中にいた。離れようとしない。いや、違う。自分が離していない。その事実に気づき、ルシアンは一瞬言葉を失う。


「……昨日のこと、覚えてるか」


 聞いた瞬間、自分で何を確認しているのか分からなくなった。だがセレネは少しだけ瞬きをしたあと、小さく頷く。


「覚えています」


 静かな返答だった。けれどその瞬間、白い頬へゆっくり熱が差していく。ルシアンは息を止めた。昨夜、自分から足りませんと言ったことも。もっと、と零したことも。名前を呼んだことも。全部覚えている顔だった。その事実だけで、胸の奥が大きく揺れる。


「……殿下?」


「その呼び方やめろ」


 セレネが小さく瞬きをする。まだ眠たげな海色の瞳が近い。ルシアンは視線を逸らすように浅く息を吐いた。


「昨夜、呼んだだろ」


 低い声だった。セレネの睫毛がわずかに震える。どうやら思い出したらしい。白い頬へさらに赤みが差した。窓の外で、小鳥の鳴き声が微かに響く。朝の静かな空気だけが、二人の間へゆっくり流れていく。


「……今は、ルシアンでいい」


 しばらく沈黙が落ちる。やがて、小さな声が零れた。


「……ルシアン」


 その瞬間、胸の奥がどうしようもなく甘くなる。ルシアンは何も言えないまま、そのままセレネを強く抱き寄せた。細い身体が腕の中へ深く収まる。セレネが小さく息を呑んだ。


「……苦しいです」


「我慢しろ」


 低い声だった。


「お前が悪い」


 セレネは不思議そうに小さく瞬きをする。その顔が可愛くて、本当に駄目だった。ルシアンは堪えるようにセレネの髪へ顔を埋め、小さく息を吐く。このままずっと離したくないと、本気で思ってしまう自分がいた。


 だが、やがてルシアンは名残を断ち切るようにゆっくり身体を起こす。腕の中から熱が離れる。それだけで妙に落ち着かない。セレネの指先が、まだ服の袖を掴んでいた。その仕草に胸の奥が甘く揺れる。


「……このままだと、本当に部屋から出られなくなる」


 低く掠れた声だった。セレネが小さく瞬きをする。


「侍女が来る前に戻らないとまずい」


 さすがに婚約者とはいえ、同じ寝台で朝を迎えたと知られれば面倒になる。ルシアン自身、それくらいの理性はまだ残っていた。残っているだけ、ましなのかもしれないが。セレネはしばらく黙っていた。だが、服を掴んだ指先だけは離れない。その反応が可愛すぎて、本当に困る。


 ルシアンは浅く息を吐き、そっとセレネの頭を撫でた。黒髪が指の間を静かに滑る。


「そんな顔するな」


 低く言いながら、額へ軽く口付ける。


「またあとで会える」


 セレネの睫毛がわずかに揺れる。ややあって、小さく指先の力が抜けた。ようやく解放された袖を見て、ルシアンは苦笑する。本気で離してもらえないかと思った。


 寝台の脇へ置いていた上着を手に取る。羽織ろうとした、その瞬間。視線が合った。海色の瞳が静かにこちらを見ている。その顔を見た瞬間、駄目だった。


 ルシアンは諦めたように息を吐き、再び寝台へ身を屈める。


「……本当にずるい」


 掠れた声で呟き、そのまま唇へ優しく口付けた。短い、触れるだけの口付け。けれど離れた瞬間、セレネの睫毛がわずかに震える。その反応だけで、また離れがたくなる。


 ルシアンは小さく笑い、今度こそ額へ軽く触れた。


「またあとで」


 低く囁いてから、ようやく部屋を後にした。閉じた扉の向こう側へ、まだ熱だけが残っている気がした。

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― 新着の感想 ―
恋愛どっぷり会!きゅんきゅんですね! ルシアンとセレネのやり取りがやばかったです!!
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