触れた熱
「途中で、止まれなくなるかもしれない」
低く落ちた声のあと、室内にはしばらく何も響かなかった。開いた窓から入り込む夜風だけが静かな空気を揺らし、薄布がかすかに波打つたびに、燭台の火が淡く震えた。
セレネはすぐには返事をしなかった。海色の瞳がわずかに揺れ、膝の上で重ねられていた指先が静かに強張る。それでも、こちらから目を逸らさない。ルシアンは浅く息を吐いた。怖がらせたかと思った。今の自分の声は、それくらい危うかった。
だが、セレネは逃げない。白い肩へ落ちた黒髪が夜風に揺れる。その姿を見ているだけで、呼吸がうまく落ち着かなかった。
「……今ならまだやめられる」
セレネの睫毛が小さく震える。
「怖いなら言え」
返事はなかった。ただ、薄く開いた唇から静かな呼吸だけが零れている。やがて、海色の瞳がほんの少しだけ下がり、それから戻った。
「……婚約者として、大切にしてくださっているのは分かっておりました」
落ち着いた声だった。けれど、いつもより半拍遅い。
「ですが、今の殿下は……少し、違う方のように見えます」
ルシアンはわずかに眉を寄せた。
「今それを聞くのか」
息混じりの声になる。セレネは視線を逸らさない。頬にはまだ薄い熱が残っていた。ルシアンは目を閉じかける。違うに決まっている。今、自分がどれだけ必死で抑えているのか、セレネはどこまで分かっているのか。
「……本当に、分かってないな」
低く零れた声に、セレネの睫毛がわずかに揺れた。それでも彼女は顔を背けない。膝の上の指先は強張ったままだが、海色の瞳だけはまっすぐルシアンを映していた。
ルシアンは長く息を吐き、長椅子へ座るセレネの前へゆっくり腰を落とした。視線の高さを合わせ、片手をそっと持ち上げる。
「……触れるだけだ」
低く告げてから、指先を伸ばす。まず黒髪へ触れた。絹を撫でるような感触が静かに指の間を滑る。肩へ流れていた髪をひと束すくい上げ、そのまま耳へ掛ける途中で、指先が白い頬へ触れた。
熱い。思ったよりずっと。
セレネの肩がぴくりと揺れ、長い睫毛が震えて、浅い呼吸がわずかに乱れた。黒髪を耳へ掛けると、隠れていた耳が灯りの下へ露わになる。そこまで熱を持っていることに気づき、胸の奥が落ち着かなく灼けた。
そのまま頬へ手を添える。長椅子へ座るセレネを覗き込むような形になっていることに気づき、ルシアンは浅く息を吐いた。近い。呼吸が混ざるほど。吐息が頬へ触れるたび、理性が少しずつ削られていく。
ルシアンはそこで動きを止めた。
「……触れたぞ」
低く掠れた声だった。
「お前が言った通り、ちゃんと触れた」
本当は、そのまま引き寄せたかった。肩を抱いて、唇へ触れて、二度と他の誰にも見せたくない顔を、自分だけのものとして閉じ込めたかった。だが、それをやればもう戻れない気がした。ルシアンは浅く息を吐く。
「だから、これ以上は——」
「……これだけでは、足りません」
言葉を遮るように落ちた声に、ルシアンは止まった。
海色の瞳がこちらを見ていた。少し潤んだ視線が揺れながら、それでもまっすぐルシアンを映している。喉の奥を押さえるように息を吐いた。
「……お前、本当に分かって言ってるのか」
セレネの指先が膝の上で小さく布を掴む。
「触れるだけなら、他にもある」
それは説得というより、自分へ言い聞かせるための言葉だった。
セレネはしばらく黙っていた。夜風が薄布を揺らし、その静かな間のあと、小さく唇が開く。
「……それでも、足りません」
声は少し掠れていた。けれど、曖昧に笑うでもなく、視線を逸らすでもない。その顔を見ているだけで、呼吸がうまく落ちなくなる。
ルシアンは片手で目元を覆い、深く息を吐いた。
「俺を信用しすぎだ」
「後悔するようなことを、殿下はなさらないと思っています」
その返答に、胸の奥が大きく揺れる。嬉しいと思った。同時に、危うかった。こんな風に見上げられて、平気でいられるわけがない。
ルシアンはゆっくり手を下ろし、頬へ添えた手をそのまま滑らせる。親指で熱を持った肌をそっと撫でた。
「目を閉じろ」
セレネの睫毛が震える。少し遅れて、ゆっくり瞼が伏せられた。長い睫毛が灯りの下で影を落とす。その顔を見た瞬間、胸の奥がどうしようもなく熱くなる。
ルシアンは堪えるように一度目を閉じ、浅く息を吐いた。これ以上は駄目だと思うのに、もう触れずにはいられなかった。頬を包んだまま、ゆっくり顔を近づける。呼吸が混ざるほど近づいたあと、閉じられた瞼へそっと口付けた。
触れるだけの浅い熱だった。セレネの息が小さく止まる。
ルシアンはゆっくり顔を離した。だが、頬へ添えた手だけは離せない。近いまま呼吸が触れる。やがてセレネがゆっくり目を開けた。海色の瞳が近い。長い睫毛がまだ不安定に震えている。浅い呼吸のたび、薄く開いた唇がわずかに揺れた。
頬へ添えた手の下で、熱を持った肌が小さく強張る。それでも、セレネは逸らさなかった。まっすぐこちらを見上げている。その視線だけで、息がうまく落ちなくなる。
「……そんな顔するな」
低く掠れた声だった。頬へ添えた手を離せないまま、親指が熱を持った肌をゆっくり撫でる。そのまま指先が唇へ触れた。
ぴくりとセレネの肩が揺れる。薄く開いた唇は、触れただけで熱かった。浅い呼吸が指先へかかる。ルシアンは堪えるように息を吐いた。
その時だった。唇へ触れていた指先へ、セレネがほんのわずかに顔を寄せる。次を待つように、と表現するには静かすぎる動きだった。熱い呼吸が指先へ絡み、海色の瞳が小さく揺れる。それでも視線は逸らされない。
その顔を見た瞬間、胸の奥が強く軋んだ。
「……本当に、分かってやってるのか」
掠れた声になる。セレネの睫毛が震えた。それでも唇はわずかに開いたまま、逃げようとしない。
ルシアンは喉の奥を押し殺すように息を吐き、ゆっくり顔を近づける。鼻先がかすめる。吐息が混ざるほど近い。あと少しで触れる距離で一度止まった。
それでも、もう離れられない。
ルシアンはそっと唇を重ねた。触れた瞬間、セレネの呼吸が小さく震える。柔らかい。その感触だけで、胸の奥が大きく揺れた。
ほんの浅い口付けだった。触れて、離れるだけのはずだったのに、離れ際、無意識にもう一度触れてしまう。熱い吐息が唇の隙間へかかる。その熱だけで理性が揺らいだ。
いつの間にか、セレネの指先はルシアンの上着を強く掴んでいた。離れないように、と訴えるように。自分でも気づかないまま力が入っていたのか、セレネの呼吸が小さく乱れる。
唇が離れたあとも、距離だけは離れない。熱い吐息が近い。乱れた呼吸のまま、セレネはゆっくりルシアンを見上げた。海色の瞳が薄く潤んでいる。
「……もっと」
掠れた声だった。
その瞬間、ルシアンの呼吸が止まる。セレネの指先がさらに強く上着を掴んだ。
「……セレネ」
低く名前を呼ぶ声が掠れる。だがセレネは目を逸らさなかった。熱を持った唇が、次の口付けを待つようにわずかに開いている。その顔を見た瞬間、理性が音を立てて崩れた。
「……無理だ」
低く零した声のあと、ルシアンは堪えきれず再び深く口付ける。空いていた腕が腰へ回り、そのまま強く抱き寄せた。細い身体が逃げ場を失い、胸へぶつかる。抱き込んだ瞬間、自分でも驚くほど腕へ力が入った。離したくない。その衝動が、抑えきれないほど強く胸の奥を灼いていた。
角度を変えてさらに深く唇を重ねる。浅く食まれた瞬間、セレネの喉から小さく息が漏れた。熱い吐息が唇の隙間から零れる。その声だけで、理性がさらに削られていく。腕の中の身体は熱を持っていた。触れている場所すべてが近い。離さないように抱き寄せながら、ルシアンは何度も口付けた。
一度離れる。だが離れたのはほんの数秒だった。唇が離れても、呼吸だけは絡んだまま残る。乱れた吐息の合間、セレネの睫毛が不安定に震えた。その顔を見た瞬間、また触れずにはいられなくなる。
ルシアンは再び深く口付けた。角度を変えて触れ、離れる前にまた重ねる。そのたび、セレネの吐息が甘く震えた。目を閉じたまま、セレネの唇がかすかに追いかけてくる。その仕草だけで、胸の奥がどうしようもなく熱くなる。
口付けの合間、セレネの指先がルシアンの襟元へ触れた。触れ返された。ただそれだけで、呼吸が止まりそうになる。
「……ルシアン様」
乱れた呼吸の合間に落ちた声へ、ルシアンの動きが止まった。
掠れた声だった。普段よりずっと近く、低く、熱を含んでいた。その呼び方だけで、胸の奥が激しく軋む。
ルシアンはゆっくり顔を上げた。海色の瞳が薄く潤んでいる。熱を持った頬。乱れた呼吸。唇は先ほどの口付けの熱を残したまま微かに開いていた。
今、自分の名前を呼んだ。
ルシアンは強く息を呑む。
「……今、わざとか」
掠れた声になる。だがセレネは、小さく首を振った。自分でも気づいていなかったような、揺れた仕草だった。
その顔を見た瞬間、最後に残っていた理性まで崩れ落ちた。
「……駄目だ」
低く零した声のあと、ルシアンは再び唇を重ねる。呼吸を奪うように何度も口付けた。離れても、またすぐ触れたくなる。熱い吐息が絡む。浅く唇を食めば、セレネの肩が小さく震えた。
離れなければと思うのに、腕が緩まない。抱き寄せたまま口付けているうちに、セレネの身体がゆっくり後ろへ傾いた。押し倒すつもりではなかった。だが次の瞬間、細い背中が長椅子へ沈み、黒髪が布地の上へ広がる。気づけば、覆い被さるような姿勢になっていた。腕の内側へ閉じ込める形になっていることに気づき、ルシアンは息を止める。
長椅子へ沈んだセレネの両脇へ腕をついたまま、強く目を閉じた。
近すぎる。乱れた呼吸も、熱を持った唇も、全部が理性を奪っていく。セレネの呼吸は浅い。唇は熱を持ち、海色の瞳は薄く潤んでいる。睫毛が震え、乱れた呼吸が唇の隙間から小さく漏れていた。それでも、セレネは逃げなかった。触れるたび、熱を持った呼吸だけが小さく乱れていく。その様子を見ているだけで、理性が削られる。
ルシアンは額を押しつけたまま、苦しそうに深く息を吐いた。
「……これ以上は、本当に駄目だ」




