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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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夜風と果実酒

 星見宮へ続く回廊は、夜になると昼よりも音が少なかった。


 開け放たれた窓から夏の夜風が入り込み、白い薄布をゆるく揺らしている。磨かれた石床には月光が淡く落ち、遠くで噴水の水音だけが絶えず響いていた。昼間の熱はまだ石壁の奥へ残っているらしく、乾いた空気の中へわずかな熱気が混じる。


 セレネが自分から酒を飲み、自分を呼ぶ。どちらも普段なら考えにくいことだった。


 星見宮の奥へ進むほど、人の気配は薄くなっていく。壁へ掛けられた燭台の火だけが静かに揺れ、侍女達の足音さえ遠い。


 やがて、見慣れた扉の前でルシアンは足を止めた。


 一度だけ、軽く扉を叩く。


「セレネ」


 返事はない。


 もう一度呼ぶべきか迷ったが、扉の隙間からは灯りが漏れている。完全に眠っている気配ではなかった。


 ルシアンは小さく息を吐き、ゆっくりと扉の取っ手へ手を掛ける。


 鍵は掛かっていなかった。


 音を立てないよう押し開けた瞬間、果実酒の甘い香りが微かに流れ出る。


 室内には柔らかな灯りが落ちていた。


 窓が半分ほど開いている。薄布の向こうで夜風が揺れ、卓上の燭台の火が小さく影を揺らしていた。昼間の熱を残した空気の中へ、果実酒の甘い香りが静かに溶けている。


 卓には硝子杯が二つ置かれていた。片方には淡い琥珀色の酒がまだ少し残っている。隣へ並べられた果実はほとんど手がつけられていなかった。


 そして、その奥でセレネがこちらを見た瞬間、ルシアンは無意識に呼吸を止める。


 普段の執務用ドレスでも、舞踏会用の礼装でもない。


 肩を露わにした室内用のドレスだった。


 薄い灰青色の布地は夜気を透かすみたいに柔らかく、白い肩から鎖骨へかけての線が、燭台の灯りに淡く浮かんでいる。胸元は過度に開いているわけではない。それでも、普段は首元まで閉じられた服しか見慣れていないせいで、露わになった肩や鎖骨へ視線が引かれるたび、妙に呼吸が浅くなった。


 腰には細い青灰色の帯が結ばれている。締め付けるためというより、柔らかな布をまとめるためだけのものだった。座り方が変わるたび、薄布越しに身体の線が曖昧に浮かぶ。


 黒髪は完全にはまとめ直されていない。片側だけ軽く留められているせいで、肩へ流れた髪が白い肌の上へ静かに落ちていた。


 ルシアンは扉を閉める手を一瞬止めた。


 ヴィオレッタのドレスはもっと大胆だった。胸元も背中も、男の視線を集めるために作られているのが分かる服だった。それを見ても、鬱陶しいとしか思わなかった。


 なのに、今は違う。


 目を逸らすべきなのに、逸らした先でもまた見てしまう。


 背後で扉を閉める。静かな音だった。


 だが、その音だけで、ここが完全に2人きりの空間になったことを妙に意識させられる。


 セレネはそんなルシアンを見上げたまま、少し間を置いてから、自分の肩口へ視線を落とした。


「……リリアーナ様から、少し肩を出した方が柔らかく見えると勧められました」


 言い慣れていないのが分かる口調だった。


 ルシアンは返事に詰まる。胸の奥が妙に熱を持つ。


 セレネは肩へ落ちた髪を静かに押さえた。露わになった肌を隠すためというより、その装いに自分でもまだ慣れていないような仕草だった。


「普段の私は、あまり柔らかくは見えないそうです」


「……誰がそんなこと言った」


「リリアーナ様です。悪い意味ではなく」


 セレネはそこで少しだけ視線を落とした。


「殿下をお呼びするなら、少しは婚約者らしく見えた方がいいのではないかと、そう思いました」


 その言葉が、果実酒の甘い香りより強く胸へ残る。


 セレネは膝の上で指を組み直し、少し間を置いてから続けた。


「ヴィオレッタ様のような方を見ると、自分は随分違うと思います」


 ルシアンは眉を寄せる。


「何でそこであいつが出てくる」


「……あの方は、とても華やかでした。堂々としていて、人へ見られることにも慣れていらっしゃるようでしたし」


 そこでほんの少しだけ言葉が止まる。


「その……女性らしい方の方が、殿方は好まれるのではないかと考えてしまいました」


 ルシアンはしばらく言葉を失った。


 今この状況で、そんなことを言うのか。


 肩を露わにした姿で、自分を部屋へ呼び、こんな顔でこちらを見ながら。


「……誰がそんなこと言った」


「言われたわけではありません。ただ、ヴィオレッタ様を見ていると、そういうものなのかと」


「馬鹿言うな」


 思ったより強い声が出た。


 セレネの睫毛がわずかに揺れる。


 ルシアンは小さく息を吐き、額へ手を当てた。


「……今のお前見て、それ言える男の気が知れない」


 低く落ちた声に、セレネの視線がわずかに揺れる。白い肩へ黒髪が滑り落ちる。


 その仕草だけで、また喉の奥が熱を持った。


 ルシアンは誤魔化すように視線を逸らし、ようやく長椅子へ腰を下ろす。


「……とりあえず座れ。立ったままだと、こっちの調子が狂う」


 セレネは小さく頷き、静かに座り直した。


 距離は近すぎない。だが、卓を挟むほど遠くもない。


 窓から吹き込む夜風が黒髪を揺らし、果実酒の甘い香りが静かに流れる。


 ルシアンは小さく息を吐いた。


「酒のせいで言っているなら、今日は帰る」


 セレネの睫毛がわずかに揺れる。


「酔っているからではありません」


「本当にそうか」


「……少しだけ飲みました。ですが、意識ははっきりしています」


 ルシアンはしばらく黙ったまま彼女を見る。


 酔って判断を失っているようには見えない。だが、普段より空気が柔らかい。視線の落とし方も、言葉を選ぶ間も、どこか熱を含んでいた。


 沈黙が落ちる。


 燭台の火が小さく揺れ、窓の外では噴水の水音だけが静かに続いていた。


 先に口を開いたのはセレネだった。


「今日、ヴィオレッタ様と話されていた時、落ち着きませんでした」


 ルシアンは小さく息を吐く。


「あれは社交上の挨拶だ」


「分かっています」


 セレネは静かに頷いた。


「必要なことだというのも理解しています」


「ですが、落ち着きませんでした」


 膝の上で組まれていた指先が、静かに布を掴む。


「不愉快、という言葉が正しいのかは分かりません。ただ、胸の奥がずっとざわついていました」


 海色の瞳はまっすぐこちらを見ていた。


「殿下が、私の婚約者であることを、確かめたくなりました」


 その声は大きくなかった。だが、不思議なほど真っ直ぐだった。


 ルシアンはしばらく返事ができなかった。


 視線を逸らせばいいのに、それもできない。灯りの下でこちらを見る海色の瞳から、どうしても目が離せなかった。


「……それで、俺を呼んだのか」


「はい」


「確認のために?」


「そうです」


 あまりにも真面目に頷かれて、ルシアンは額を押さえたくなる。


 そんな顔で言われて、平気でいられる男がいるわけがなかった。


 セレネは少しだけ呼吸を整えるように間を置き、それから静かに続ける。


「ですから……殿下に、触れてほしいと思いました」


 ルシアンは息を止めた。


 夜風が吹き込み、薄布が揺れる。


 燭台の火がわずかに震えた。


 それでも、耳に残るのは今の言葉だけだった。


 セレネは視線を逸らさない。


 頬は少しだけ熱を持っているように見える。勢いで口にしている顔ではなかった。


 だからこそ、余計に危うい。ルシアンはゆっくり息を吐いた。


「……お前、自分が何言ってるか分かってるのか」


 低く返すと、セレネの睫毛がわずかに揺れる。


「はい」


「簡単に答えるな」


 自分でも驚くほど声が掠れていた。


「俺は、お前が思ってるほど冷静じゃない」


 セレネの指先が、膝の上で静かに布を掴む。


「今のお前にそんなことを言われて、ただ優しく触れて終わらせられるほど、出来た男じゃない」


 言葉を落とすたび、自分の理性が削れていくのが分かった。


 それでも止めなければならない。


 ここで一度でも間違えれば、きっと戻れなくなる。


 ルシアンは視線を逸らさないまま、低く続ける。


「途中で、止まれなくなるかもしれない」


 セレネはすぐには返事をしなかった。


 海色の瞳がわずかに揺れ、膝の上で組まれていた指先が静かに強張る。


 それでも、逸らされない。


 ルシアンは喉の奥が熱くなるのを感じた。


 自分がどんな顔をしているのか、どこまで伝わっているのか分からない。


 夜風が黒髪を揺らす。


 白い肩が、灯りの下で静かに浮かんでいた。

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