夜風と果実酒
星見宮へ続く回廊は、夜になると昼よりも音が少なかった。
開け放たれた窓から夏の夜風が入り込み、白い薄布をゆるく揺らしている。磨かれた石床には月光が淡く落ち、遠くで噴水の水音だけが絶えず響いていた。昼間の熱はまだ石壁の奥へ残っているらしく、乾いた空気の中へわずかな熱気が混じる。
セレネが自分から酒を飲み、自分を呼ぶ。どちらも普段なら考えにくいことだった。
星見宮の奥へ進むほど、人の気配は薄くなっていく。壁へ掛けられた燭台の火だけが静かに揺れ、侍女達の足音さえ遠い。
やがて、見慣れた扉の前でルシアンは足を止めた。
一度だけ、軽く扉を叩く。
「セレネ」
返事はない。
もう一度呼ぶべきか迷ったが、扉の隙間からは灯りが漏れている。完全に眠っている気配ではなかった。
ルシアンは小さく息を吐き、ゆっくりと扉の取っ手へ手を掛ける。
鍵は掛かっていなかった。
音を立てないよう押し開けた瞬間、果実酒の甘い香りが微かに流れ出る。
室内には柔らかな灯りが落ちていた。
窓が半分ほど開いている。薄布の向こうで夜風が揺れ、卓上の燭台の火が小さく影を揺らしていた。昼間の熱を残した空気の中へ、果実酒の甘い香りが静かに溶けている。
卓には硝子杯が二つ置かれていた。片方には淡い琥珀色の酒がまだ少し残っている。隣へ並べられた果実はほとんど手がつけられていなかった。
そして、その奥でセレネがこちらを見た瞬間、ルシアンは無意識に呼吸を止める。
普段の執務用ドレスでも、舞踏会用の礼装でもない。
肩を露わにした室内用のドレスだった。
薄い灰青色の布地は夜気を透かすみたいに柔らかく、白い肩から鎖骨へかけての線が、燭台の灯りに淡く浮かんでいる。胸元は過度に開いているわけではない。それでも、普段は首元まで閉じられた服しか見慣れていないせいで、露わになった肩や鎖骨へ視線が引かれるたび、妙に呼吸が浅くなった。
腰には細い青灰色の帯が結ばれている。締め付けるためというより、柔らかな布をまとめるためだけのものだった。座り方が変わるたび、薄布越しに身体の線が曖昧に浮かぶ。
黒髪は完全にはまとめ直されていない。片側だけ軽く留められているせいで、肩へ流れた髪が白い肌の上へ静かに落ちていた。
ルシアンは扉を閉める手を一瞬止めた。
ヴィオレッタのドレスはもっと大胆だった。胸元も背中も、男の視線を集めるために作られているのが分かる服だった。それを見ても、鬱陶しいとしか思わなかった。
なのに、今は違う。
目を逸らすべきなのに、逸らした先でもまた見てしまう。
背後で扉を閉める。静かな音だった。
だが、その音だけで、ここが完全に2人きりの空間になったことを妙に意識させられる。
セレネはそんなルシアンを見上げたまま、少し間を置いてから、自分の肩口へ視線を落とした。
「……リリアーナ様から、少し肩を出した方が柔らかく見えると勧められました」
言い慣れていないのが分かる口調だった。
ルシアンは返事に詰まる。胸の奥が妙に熱を持つ。
セレネは肩へ落ちた髪を静かに押さえた。露わになった肌を隠すためというより、その装いに自分でもまだ慣れていないような仕草だった。
「普段の私は、あまり柔らかくは見えないそうです」
「……誰がそんなこと言った」
「リリアーナ様です。悪い意味ではなく」
セレネはそこで少しだけ視線を落とした。
「殿下をお呼びするなら、少しは婚約者らしく見えた方がいいのではないかと、そう思いました」
その言葉が、果実酒の甘い香りより強く胸へ残る。
セレネは膝の上で指を組み直し、少し間を置いてから続けた。
「ヴィオレッタ様のような方を見ると、自分は随分違うと思います」
ルシアンは眉を寄せる。
「何でそこであいつが出てくる」
「……あの方は、とても華やかでした。堂々としていて、人へ見られることにも慣れていらっしゃるようでしたし」
そこでほんの少しだけ言葉が止まる。
「その……女性らしい方の方が、殿方は好まれるのではないかと考えてしまいました」
ルシアンはしばらく言葉を失った。
今この状況で、そんなことを言うのか。
肩を露わにした姿で、自分を部屋へ呼び、こんな顔でこちらを見ながら。
「……誰がそんなこと言った」
「言われたわけではありません。ただ、ヴィオレッタ様を見ていると、そういうものなのかと」
「馬鹿言うな」
思ったより強い声が出た。
セレネの睫毛がわずかに揺れる。
ルシアンは小さく息を吐き、額へ手を当てた。
「……今のお前見て、それ言える男の気が知れない」
低く落ちた声に、セレネの視線がわずかに揺れる。白い肩へ黒髪が滑り落ちる。
その仕草だけで、また喉の奥が熱を持った。
ルシアンは誤魔化すように視線を逸らし、ようやく長椅子へ腰を下ろす。
「……とりあえず座れ。立ったままだと、こっちの調子が狂う」
セレネは小さく頷き、静かに座り直した。
距離は近すぎない。だが、卓を挟むほど遠くもない。
窓から吹き込む夜風が黒髪を揺らし、果実酒の甘い香りが静かに流れる。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「酒のせいで言っているなら、今日は帰る」
セレネの睫毛がわずかに揺れる。
「酔っているからではありません」
「本当にそうか」
「……少しだけ飲みました。ですが、意識ははっきりしています」
ルシアンはしばらく黙ったまま彼女を見る。
酔って判断を失っているようには見えない。だが、普段より空気が柔らかい。視線の落とし方も、言葉を選ぶ間も、どこか熱を含んでいた。
沈黙が落ちる。
燭台の火が小さく揺れ、窓の外では噴水の水音だけが静かに続いていた。
先に口を開いたのはセレネだった。
「今日、ヴィオレッタ様と話されていた時、落ち着きませんでした」
ルシアンは小さく息を吐く。
「あれは社交上の挨拶だ」
「分かっています」
セレネは静かに頷いた。
「必要なことだというのも理解しています」
「ですが、落ち着きませんでした」
膝の上で組まれていた指先が、静かに布を掴む。
「不愉快、という言葉が正しいのかは分かりません。ただ、胸の奥がずっとざわついていました」
海色の瞳はまっすぐこちらを見ていた。
「殿下が、私の婚約者であることを、確かめたくなりました」
その声は大きくなかった。だが、不思議なほど真っ直ぐだった。
ルシアンはしばらく返事ができなかった。
視線を逸らせばいいのに、それもできない。灯りの下でこちらを見る海色の瞳から、どうしても目が離せなかった。
「……それで、俺を呼んだのか」
「はい」
「確認のために?」
「そうです」
あまりにも真面目に頷かれて、ルシアンは額を押さえたくなる。
そんな顔で言われて、平気でいられる男がいるわけがなかった。
セレネは少しだけ呼吸を整えるように間を置き、それから静かに続ける。
「ですから……殿下に、触れてほしいと思いました」
ルシアンは息を止めた。
夜風が吹き込み、薄布が揺れる。
燭台の火がわずかに震えた。
それでも、耳に残るのは今の言葉だけだった。
セレネは視線を逸らさない。
頬は少しだけ熱を持っているように見える。勢いで口にしている顔ではなかった。
だからこそ、余計に危うい。ルシアンはゆっくり息を吐いた。
「……お前、自分が何言ってるか分かってるのか」
低く返すと、セレネの睫毛がわずかに揺れる。
「はい」
「簡単に答えるな」
自分でも驚くほど声が掠れていた。
「俺は、お前が思ってるほど冷静じゃない」
セレネの指先が、膝の上で静かに布を掴む。
「今のお前にそんなことを言われて、ただ優しく触れて終わらせられるほど、出来た男じゃない」
言葉を落とすたび、自分の理性が削れていくのが分かった。
それでも止めなければならない。
ここで一度でも間違えれば、きっと戻れなくなる。
ルシアンは視線を逸らさないまま、低く続ける。
「途中で、止まれなくなるかもしれない」
セレネはすぐには返事をしなかった。
海色の瞳がわずかに揺れ、膝の上で組まれていた指先が静かに強張る。
それでも、逸らされない。
ルシアンは喉の奥が熱くなるのを感じた。
自分がどんな顔をしているのか、どこまで伝わっているのか分からない。
夜風が黒髪を揺らす。
白い肩が、灯りの下で静かに浮かんでいた。




