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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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薄青の硝子瓶

 セレネが執務室を出てから、思ったより長く戻ってこなかった。


 昼へ近づくにつれ、王族特務隊の執務室には夏の熱がじわじわと溜まっていく。窓は開け放たれていたが、白く乾いた風が入るだけで、石造りの室内に籠もった暑さはほとんど動かない。遠くでは中庭の噴水が絶えず水音を響かせ、陽を受けた回廊の白壁がぼんやりと眩しかった。


 文官達は机へ向かったまま筆を走らせ、隊員達は報告書を抱えて出入りを繰り返している。いつも通りの執務室だったが、ルシアンは書類へ視線を落とすたび、無意識に扉の方を見てしまう。


 やがて、控えていた侍従が静かに一礼した。


「リリアーナ妃殿下より、お手紙です」


 差し出された封を受け取り、ルシアンは封蝋を切る。柔らかな筆跡が目へ入った。


『セレネ様を少しお借りしております。ミレイユ様もお呼びして、お茶をご一緒しておりますので、ご安心くださいませ』


 読み終えたあとも、ルシアンはすぐには便箋を閉じなかった。


「……お茶会、か」


 向かいで書類を整理していたクライヴが顔を上げる。


「王太子妃殿下ですか」


「ああ」


 短く返しながら、ルシアンは便箋を畳んだ。


 リリアーナなら、午前中の空気を見て放っておかなかったのだろう。ヴィオレッタが上着を返しに来てからのセレネは、表向きには普段と変わらなかった。だが、書類を揃える指先が一度だけ止まったことや、視線を落とす間が妙に頭へ残っている。


 その時、新しい書類が机へ置かれた。


「警邏隊からです」


 ルシアンは視線を落とし、眉を寄せる。


「……首なし死体?」


「本日未明、南区の裏路地で発見されたそうです」


 窓から吹き込んだ風が、報告書の端をわずかに揺らした。


 男性。身元確認中。首部欠損。争った痕跡は少ない。切断面は異様に滑らか。


 淡々と並ぶ記述を追っていたルシアンの指先が止まる。


「……首を落とされた遺体、か」


 クライヴが低く言った。


「レヴァンティスの噂を思い出しますね」


 以前、使節団付きの従者達や商人の間で流れていた話だ。


 王太女の伴侶になろうとした者は、首を失う。


 そんな怪談じみた噂だった。


 ルシアンは報告書から顔を上げる。


「関係ないだろ」


「向こうは王太女絡みですしね」


「ああ。今回のは、おそらくただの市民だ」


 南区の裏路地で見つかった身元不明の死体と、隣国王家にまつわる不穏な噂。繋げるには無理がある。


 ルシアンは報告書を閉じた。


「警邏隊に追わせろ。現時点では猟奇殺人だ」


「承知しました」


 クライヴが書類を引き取る。だが、閉じたあとも切断面の記述だけが妙に頭へ残った。


 ルシアンは小さく息を吐き、無意識に執務机の向こう側へ視線を向ける。閉じたインク瓶、積み上げられた資料、整えられた羽根ペン。その場所へ黒髪の姿がないだけで、室内が妙に静かに見えた。


「殿下」


 クライヴが静かに声をかける。


「贈り物はどうなさいますか」


 ルシアンは眉間を押さえた。


「……まだ言うのか」


「放置はおすすめしません」


 抑揚の薄い声だった。


「黙って正しい行動を取れば伝わる、と思うのは危険です」


 少し前にも聞いた台詞だった。ルシアンは机へ肘をつき、小さく息を吐く。


「だから、何を贈ればいい」


「それを私に聞いている時点で、少々急がれた方がよろしいかと」


 午後になると、城下からいくつか品が運び込まれた。


 最初に開かれた箱には、青石を嵌めた首飾りが収まっていた。陽を受けて強く光るそれを見た瞬間、ルシアンは眉を寄せる。華やかすぎた。今朝、薄絹越しに白い肌を見せながら笑っていたヴィオレッタの姿が頭を掠め、すぐに箱を閉じる。


 次に運ばれてきた金細工の腕輪も、細工が重い。セレネの白い手首へ置いた姿を想像してみても、妙に馴染まなかった。


 香炉は論外だった。あれでは贈り物というより、調査道具に近い。


 机の端へ閉じられた箱が増えていく中、最後に運ばれてきたのは、小さな硝子瓶だった。


 薄青の硝子は、光を透かすと淡く青を溶かしたような色をしている。中にはごく薄い香油が入っていた。


 蓋を開けた瞬間、柔らかな香りが広がった。


 白い花に、夏の雨を吸った若葉のような青さがかすかに混じる。甘すぎず、近づいた時だけ静かに残る香りだった。


 ルシアンはしばらく黙ったまま瓶を見ていたが、やがて静かに蓋を閉じる。


「……これにする」


 クライヴが視線だけを向けた。


「ようやく決まりましたか」


「余計なことを言うな」


 陽が傾き始めても、セレネは戻らなかった。リリアーナ付きの侍女へ確認を取らせると、茶会はとっくに終わっているという。


 ルシアンは閉じた報告書へ視線を落としたまま、小さく息を吐く。


 昼間、書類の上で止まった白い指先だけが妙に頭から離れない。


 空が群青へ変わり始めた頃、執務室の扉が静かに叩かれる。


 入ってきたのは、セレネ付きの侍女だった。若い侍女は一礼したあと、少し言いづらそうに口を開く。


「ルシアン殿下。セレネ様のことで……」


「何かあったのか」


 返した声が思ったより早かった。


 侍女は小さく首を振る。


「お加減を崩されたわけではありません。ただ、お茶会のあと、少し果実酒を召し上がられたようで……」


 ルシアンは目を瞬かせた。


 セレネが自分から酒を口にする姿など、ほとんど記憶にない。


「果実酒を?」


「はい。酔ってお倒れになったわけではありません。ただ、少しだけ……気が緩まれているようでした」


 窓から夜風が入り、机上の紙を揺らす。


 ルシアンはしばらく黙ったまま侍女を見た。


「それで?」


「殿下をお呼びしたいと。星見宮のお部屋でお待ちです」


 侍女が退室したあとも、執務室にはしばらく静けさが残った。夜の熱を含んだ風が白い薄布を揺らし、昼間の暑さを残した石壁が微かに熱を返している。


 ルシアンは机上へ置かれた硝子瓶を見下ろしたまま動かなかった。


 セレネが酒を飲み、自分を呼ぶ。どちらも普段なら考えにくいことだったが、昼間のまま何もなかった顔で終わるとも思えなかった。


「殿下」


 クライヴが静かに書類を閉じる。


「本日の業務は、この辺りで切り上げましょう。急を要する案件は片付いております」


「まだ南区の件がある」


「明朝でも支障ありません。それに、これ以上遅くなると私も妻に怒られます」


 さらりと言いながら、クライヴは自然な手つきで机上の資料をまとめ始めた。それを見た隊員達も、追加の書類を開こうとはしない。


 ルシアンは眉を寄せる。


「……お前達、完全に帰す気だな」


「気のせいではありませんか」


 変わらない顔で返され、ルシアンは小さく息を吐いた。


 視線が机上の硝子瓶へ落ちる。薄青の硝子は、夜の灯りの下だと昼間より静かな色に見えた。


 ルシアンはそれを手に取り、外套の内側へしまい込む。


「……行ってくる」


 執務室を出ると、星見宮へ続く回廊には夜風が流れていた。磨かれた石床へ月光が薄く落ち、開け放たれた窓の向こうでは、夏の庭木が静かに揺れている。


 歩きながら、ルシアンは無意識に眉間を押さえた。


 昼間、書類の上で止まった白い指先が、まだ頭から離れなかった。

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