返された上着
「殿下、レヴァンティス使節団の退城予定です」
クライヴが差し出した書類を、ルシアンは無言で受け取った。舞踏会の翌朝だというのに、執務室にはすでに紙束が積まれている。招待客の出入り、警備配置の報告、使節団の滞在予定、舞踏会中に起きた小さな揉め事の記録。華やかな夜の後には、必ずこういう残骸が残った。
だが、ルシアンの意識は紙面の文字を追いながらも、別の場所に引っかかっていた。
昨夜、シオンがセレネの耳元で何かを囁いた瞬間。セレネの足が、旋律の途中で止まった。ほんの一拍。だが、あのセレネが舞踏の拍を外した。その事実だけが、今も喉の奥へ小さな棘のように残っている。
視線を上げると、セレネは机の向こうで儀典局から回された資料を整えていた。
首元まできちんと覆われた濃紺の執務用ドレスを身につけている。襟元から前立て、袖口へかけて細い銀糸の刺繍が入り、腰は書類仕事の邪魔にならない細い革帯で整えられていた。長く机に向かい、必要な時にすぐ動けるよう仕立てられた服だった。
それでも、まっすぐな背筋と無駄のない立ち姿のせいで、彼女の装いは少しも地味には見えない。
昨夜のことを聞きたかった。
シオンが耳元で何を囁いたのか。なぜセレネが舞踏の途中で足を止めたのか。だが、執務室にはクライヴも隊員も文官もいる。ここで問いただせば、彼女を余計な視線に晒すだけだった。
ルシアンは問いを飲み込み、手元の報告書へ視線を戻した。
その時、扉が叩かれる。
「入れ」
扉が開いた瞬間、執務室の空気が止まった。
入ってきたヴィオレッタ・アルディーノは、昼の訪問着とは思えないほど大胆な衣装をまとっていた。淡い金紗を重ねたレヴァンティス式のドレスは、胸元が大きく開き、鎖骨から胸のふくらみの上までを惜しげもなく見せている。肌そのものを露骨に晒しているわけではない。けれど、薄い裏布の上に重ねられた透ける絹と金糸の刺繍が、かえって身体の線を曖昧に浮かび上がらせていた。
肩から背に落ちる布も薄く、動くたびに白い肌の気配が光の中で揺れる。腰には細い金鎖が幾重にも巻かれ、赤い石が歩調に合わせて小さく鳴った。アルヴェリアの執務室に現れる装いとしては、あまりにも華やかで、あまりにも近すぎる。
若い隊員の1人が、息を呑んだ。文官は慌てて視線を机上へ落とし、クライヴだけが無表情のまま一礼する。
セレネも、書類へ伸ばしていた指をほんの一瞬だけ止めた。
「昨日は舞踏会へのご招待、ありがとうございました」
ヴィオレッタは優雅に礼をする。彼女の後ろに控えていた従者が、細長い箱を差し出した。黒い木箱に金の留め具。いかにも丁重に扱われた品物だった。
「それと、先日お借りしたものをお返しに参りましたの」
ヴィオレッタ自身の白い指が、箱の蓋をゆっくり開く。
中に収められていたのは、ルシアンの上着だった。
その瞬間、ルシアンは言葉を失った。
やましいことは何もない。南回廊で、彼女の装いに集まる余計な視線を遮るために貸しただけだ。騒ぎを避けるための判断だった。そう説明すればいい。
だが、セレネがいるこの場で返されると、説明の順番を奪われたような気がした。
セレネは何も言わなかった。ただ、書類の端を押さえていた指先が止まる。海色の瞳が上着へ落ち、それからルシアンへ向いた。
問い詰める視線ではない。
だからこそ、ルシアンの胸の奥が嫌なふうに軋んだ。
「殿下は、とてもお優しい方ですのね」
ヴィオレッタが扇の陰で微笑む。
「余計な騒ぎを避けただけだ」
「そういうことにしておきますわ」
「そういうことだ」
ルシアンの声は硬くなった。ヴィオレッタはそれすら楽しむように目を細める。
「アルヴェリアでは、婚約者のいる殿方に近づくのは、どこからが無礼になりますの?」
室内の空気がさらに冷えた。
クライヴの視線が、わずかに上がる。文官たちは完全に筆を止めた。若い隊員はもうどこを見ればいいのか分からない顔をしている。
「分かっているなら控えろ」
ルシアンは低く返した。
「まあ」
ヴィオレッタは少しも怯まない。
「まだご結婚なさっていないのでしょう?」
セレネの指先が、書類の上でほんの少しだけ強くなった。
ルシアンはそれを見た。見てしまった。
「婚約者だ」
「ええ。存じておりますわ」
「なら、それ以上は不要だ」
ヴィオレッタはしばらくルシアンを見ていた。やがて、納得したのか、あるいは今日のところはここまでで十分だと思ったのか、扇を閉じる。
「お返しできて安心いたしました。殿下のお心遣いには、改めて感謝を」
「受け取った。もういい」
「では、失礼いたします」
ヴィオレッタは優雅に一礼し、従者を従えて執務室を出ていった。扉が閉まっても、彼女の甘い香だけが、部屋の空気に薄く残る。
沈黙が落ちた。
ルシアンはその沈黙が嫌だった。仕事の沈黙でも、調査中の緊張でもない。もっと扱いづらいものだ。
「セレネ、あれは」
「必要な判断だったのでしょう」
セレネは先に言った。
責める響きはない。だが、書類を整え直す指先が、いつもよりわずかに遅い。
「そういう話じゃない」
「殿下がどなたに上着を貸されても、私が口を挟むことではありません」
正しい。
正しいのに、腹が立つ。
「お前な」
「申し訳ありません」
セレネは視線を資料へ落とした。
「これから儀典局へ届ける資料がありました」
「今か」
「はい。午前中に確認が必要とのことでしたので」
実際に、届ける資料はあるのだろう。だが、ルシアンが次の言葉を探すより早く、セレネは書類を抱え直していた。
セレネは礼をする。
「失礼いたします」
「セレネ」
呼び止めても、続く言葉が出てこなかった。
彼女はそれ以上待たず、執務室を出ていく。濃紺の裾が扉の向こうへ消えた。閉まる音は小さかったのに、やけに重く響いた。
ルシアンはしばらく扉を見ていた。
あれを何でもない顔だと思えるほど、もうセレネを知らないわけではない。分かる。分かるのに、どう触れればいいのか分からない。
「殿下」
クライヴが声をかけた。
「何だ」
「贈り物でもなさった方がよろしいかと」
ルシアンはゆっくり振り返る。
「……は?」
「奥方の機嫌を取るなら、早い方が得策です」
「奥方じゃない」
「婚約者様でした」
「そこじゃない」
クライヴは真面目な顔のまま、机上の資料を整えている。冗談を言っている様子はない。
「なぜお前がそんなことを言う」
「妻に、何度か同じ失敗をしましたので」
ルシアンは思わず顔を上げた。
「……お前、妻がいたのか」
「はい。27にもなって独り身だと思われていたのでしたら、少々心外です」
「聞いてない」
「聞かれませんでしたので」
相変わらず隙がない。
「黙って正しい行動を取れば伝わる、と思うのは危険です」
「経験談か」
「はい。非常に」
ルシアンは額を押さえた。
クライヴはさらに淡々と言う。
「ヴィオレッタ様は、見せ方をご存じです。上着を返す場所も、言葉も、すべて選んでおられました」
「分かってる」
「ならば、殿下も選んだ方がよろしいかと。黙っていることが誠実に見えるとは限りません」
その言葉は、妙に胸へ残った。
黙っていることが誠実に見えるとは限らない。
セレネは何も言わなかった。だが、何も感じていないわけではない。そう思えるだけの変化を、ルシアンはもう知っている。
「……何を贈ればいい」
低く呟くと、クライヴが一拍置いて答えた。
「それを私に聞く時点で、少し急いだ方がよろしいかと」
「うるさい」
ルシアンは閉じた扉へ視線を戻した。
あれを何でもない顔だと思えるほど、もうセレネを知らないわけではない。
それを放っておけば、きっと自分は後悔する。




