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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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返された上着

「殿下、レヴァンティス使節団の退城予定です」


 クライヴが差し出した書類を、ルシアンは無言で受け取った。舞踏会の翌朝だというのに、執務室にはすでに紙束が積まれている。招待客の出入り、警備配置の報告、使節団の滞在予定、舞踏会中に起きた小さな揉め事の記録。華やかな夜の後には、必ずこういう残骸が残った。


 だが、ルシアンの意識は紙面の文字を追いながらも、別の場所に引っかかっていた。

 

 昨夜、シオンがセレネの耳元で何かを囁いた瞬間。セレネの足が、旋律の途中で止まった。ほんの一拍。だが、あのセレネが舞踏の拍を外した。その事実だけが、今も喉の奥へ小さな棘のように残っている。


 視線を上げると、セレネは机の向こうで儀典局から回された資料を整えていた。

 

 首元まできちんと覆われた濃紺の執務用ドレスを身につけている。襟元から前立て、袖口へかけて細い銀糸の刺繍が入り、腰は書類仕事の邪魔にならない細い革帯で整えられていた。長く机に向かい、必要な時にすぐ動けるよう仕立てられた服だった。


 それでも、まっすぐな背筋と無駄のない立ち姿のせいで、彼女の装いは少しも地味には見えない。


 昨夜のことを聞きたかった。


 シオンが耳元で何を囁いたのか。なぜセレネが舞踏の途中で足を止めたのか。だが、執務室にはクライヴも隊員も文官もいる。ここで問いただせば、彼女を余計な視線に晒すだけだった。


 ルシアンは問いを飲み込み、手元の報告書へ視線を戻した。


 その時、扉が叩かれる。


「入れ」


 扉が開いた瞬間、執務室の空気が止まった。


 入ってきたヴィオレッタ・アルディーノは、昼の訪問着とは思えないほど大胆な衣装をまとっていた。淡い金紗を重ねたレヴァンティス式のドレスは、胸元が大きく開き、鎖骨から胸のふくらみの上までを惜しげもなく見せている。肌そのものを露骨に晒しているわけではない。けれど、薄い裏布の上に重ねられた透ける絹と金糸の刺繍が、かえって身体の線を曖昧に浮かび上がらせていた。


 肩から背に落ちる布も薄く、動くたびに白い肌の気配が光の中で揺れる。腰には細い金鎖が幾重にも巻かれ、赤い石が歩調に合わせて小さく鳴った。アルヴェリアの執務室に現れる装いとしては、あまりにも華やかで、あまりにも近すぎる。


 若い隊員の1人が、息を呑んだ。文官は慌てて視線を机上へ落とし、クライヴだけが無表情のまま一礼する。


 セレネも、書類へ伸ばしていた指をほんの一瞬だけ止めた。


「昨日は舞踏会へのご招待、ありがとうございました」


 ヴィオレッタは優雅に礼をする。彼女の後ろに控えていた従者が、細長い箱を差し出した。黒い木箱に金の留め具。いかにも丁重に扱われた品物だった。


「それと、先日お借りしたものをお返しに参りましたの」


 ヴィオレッタ自身の白い指が、箱の蓋をゆっくり開く。


 中に収められていたのは、ルシアンの上着だった。


 その瞬間、ルシアンは言葉を失った。


 やましいことは何もない。南回廊で、彼女の装いに集まる余計な視線を遮るために貸しただけだ。騒ぎを避けるための判断だった。そう説明すればいい。


 だが、セレネがいるこの場で返されると、説明の順番を奪われたような気がした。


 セレネは何も言わなかった。ただ、書類の端を押さえていた指先が止まる。海色の瞳が上着へ落ち、それからルシアンへ向いた。


 問い詰める視線ではない。


 だからこそ、ルシアンの胸の奥が嫌なふうに軋んだ。


「殿下は、とてもお優しい方ですのね」


 ヴィオレッタが扇の陰で微笑む。


「余計な騒ぎを避けただけだ」


「そういうことにしておきますわ」


「そういうことだ」


 ルシアンの声は硬くなった。ヴィオレッタはそれすら楽しむように目を細める。


「アルヴェリアでは、婚約者のいる殿方に近づくのは、どこからが無礼になりますの?」


 室内の空気がさらに冷えた。


 クライヴの視線が、わずかに上がる。文官たちは完全に筆を止めた。若い隊員はもうどこを見ればいいのか分からない顔をしている。


「分かっているなら控えろ」


 ルシアンは低く返した。


「まあ」


 ヴィオレッタは少しも怯まない。


「まだご結婚なさっていないのでしょう?」


 セレネの指先が、書類の上でほんの少しだけ強くなった。


 ルシアンはそれを見た。見てしまった。


「婚約者だ」


「ええ。存じておりますわ」


「なら、それ以上は不要だ」


 ヴィオレッタはしばらくルシアンを見ていた。やがて、納得したのか、あるいは今日のところはここまでで十分だと思ったのか、扇を閉じる。


「お返しできて安心いたしました。殿下のお心遣いには、改めて感謝を」


「受け取った。もういい」


「では、失礼いたします」


 ヴィオレッタは優雅に一礼し、従者を従えて執務室を出ていった。扉が閉まっても、彼女の甘い香だけが、部屋の空気に薄く残る。


 沈黙が落ちた。


 ルシアンはその沈黙が嫌だった。仕事の沈黙でも、調査中の緊張でもない。もっと扱いづらいものだ。


「セレネ、あれは」


「必要な判断だったのでしょう」


 セレネは先に言った。


 責める響きはない。だが、書類を整え直す指先が、いつもよりわずかに遅い。


「そういう話じゃない」


「殿下がどなたに上着を貸されても、私が口を挟むことではありません」


 正しい。


 正しいのに、腹が立つ。


「お前な」


「申し訳ありません」


 セレネは視線を資料へ落とした。


「これから儀典局へ届ける資料がありました」


「今か」


「はい。午前中に確認が必要とのことでしたので」


 実際に、届ける資料はあるのだろう。だが、ルシアンが次の言葉を探すより早く、セレネは書類を抱え直していた。


 セレネは礼をする。


「失礼いたします」


「セレネ」


 呼び止めても、続く言葉が出てこなかった。


 彼女はそれ以上待たず、執務室を出ていく。濃紺の裾が扉の向こうへ消えた。閉まる音は小さかったのに、やけに重く響いた。


 ルシアンはしばらく扉を見ていた。


 あれを何でもない顔だと思えるほど、もうセレネを知らないわけではない。分かる。分かるのに、どう触れればいいのか分からない。


「殿下」


 クライヴが声をかけた。


「何だ」


「贈り物でもなさった方がよろしいかと」


 ルシアンはゆっくり振り返る。


「……は?」


「奥方の機嫌を取るなら、早い方が得策です」


「奥方じゃない」


「婚約者様でした」


「そこじゃない」


 クライヴは真面目な顔のまま、机上の資料を整えている。冗談を言っている様子はない。


「なぜお前がそんなことを言う」


「妻に、何度か同じ失敗をしましたので」


 ルシアンは思わず顔を上げた。


「……お前、妻がいたのか」


「はい。27にもなって独り身だと思われていたのでしたら、少々心外です」


「聞いてない」


「聞かれませんでしたので」


 相変わらず隙がない。


「黙って正しい行動を取れば伝わる、と思うのは危険です」


「経験談か」


「はい。非常に」


 ルシアンは額を押さえた。


 クライヴはさらに淡々と言う。


「ヴィオレッタ様は、見せ方をご存じです。上着を返す場所も、言葉も、すべて選んでおられました」


「分かってる」


「ならば、殿下も選んだ方がよろしいかと。黙っていることが誠実に見えるとは限りません」


 その言葉は、妙に胸へ残った。


 黙っていることが誠実に見えるとは限らない。


 セレネは何も言わなかった。だが、何も感じていないわけではない。そう思えるだけの変化を、ルシアンはもう知っている。


「……何を贈ればいい」


 低く呟くと、クライヴが一拍置いて答えた。


「それを私に聞く時点で、少し急いだ方がよろしいかと」


「うるさい」


 ルシアンは閉じた扉へ視線を戻した。


 あれを何でもない顔だと思えるほど、もうセレネを知らないわけではない。


 それを放っておけば、きっと自分は後悔する。

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