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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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止まった一拍

「セレネ」


 シオンが名を呼んだ。


 舞踏会の熱に浮かされたような広間の中で、その声だけが妙に近く聞こえた。ルシアンは、シオンの首元に結ばれた翠の薄絹から視線を外す。次の曲を待つ貴族たちがゆるやかに動き始める中、シオンは何事もない顔で一歩前へ出ていた。


 軽やかな仕草だった。広間の空気に慣れている。誰の視線がどこにあり、どの角度で礼を取れば美しく見えるかを、最初から知っているような動きだった。シオンはセレネの前で、優雅に手を差し出す。


「次の一曲を、俺にくれる?」


 ルシアンの胸の奥が、低く軋んだ。


 断れ。


 そう思った。


 だが、言えない。ここは王家主催の舞踏会で、相手はアステリオス公爵家の令息。幼馴染であり、レヴァンティスとのつながりを持つ男でもある。婚約者が最初の一曲を終えた後、知己の高位貴族と踊ること自体は不自然ではなかった。


 セレネはすぐには返事をしなかった。深い海色の瞳が、ほんの一瞬だけルシアンへ向く。許可を求めているのではない。ただ、ルシアンがどう受け止めるかを見ている。それが分かってしまったから、余計に厄介だった。


 ルシアンは一度だけ息を整えた。


「……行ってこい」


 短く言うと、セレネはわずかに礼をした。


「はい、殿下」


 シオンの手に、セレネの指が重なる。手袋越しの触れ方は作法通りだった。何も咎めるところはない。ないはずなのに、ルシアンの視線はその指先から離れなかった。


 楽の音が始まる。シオンはセレネを連れて、舞踏の輪へ入っていった。


 シオンの踊り方は、王都の貴族たちより少し軽い。足運びは正確で、所作も崩れていない。けれど距離の取り方が、アルヴェリアの男たちよりわずかに甘かった。レヴァンティスで身につけたものなのか、それともシオン自身の性質なのか、ルシアンには分からない。


 ただ、気に入らないことだけは確かだった。


 シオンの手は、作法通りセレネの腰へ添えられている。それだけなら、ただの舞踏だった。だがルシアンには見えた。指先が、ほんのわずかに沈んでいる。抱き寄せるには弱く、離すには未練がありすぎる力だった。


 セレネは大きく表情を変えない。ただ、回転に合わせて半歩ぶん重心を戻す。拒絶というほど露骨ではない。けれど、踏み込ませないための線引きだった。


 シオンが小さく笑ったように見えた。


 その瞬間、横から甘い香が近づいた。


「殿下」


 ヴィオレッタ・アルディーノが、いつの間にかすぐ近くにいた。深い青緑の夜会衣装は、昼間よりもさらに光を含んでいる。燭台の下では、薄絹が夜の湖面のように艶めき、金鎖と赤い宝石が歩くたびに小さく鳴った。胸元も背もアルヴェリアの礼装より大胆に開いているが、彼女は見られることを恐れない。むしろ、視線の方を従わせるように立っている。


「今宵は、私とは踊ってくださいませんの?」


 ヴィオレッタの白い指が、当然のようにルシアンの腕へ絡んだ。青緑の薄絹が袖口へ触れ、甘い香が近づく。アルヴェリアの礼儀では、近すぎる距離だった。


「近い」


 ルシアンは声を低くした。


「まあ。レヴァンティスでは、この程度で驚く殿方はおりませんわ」


「ここはアルヴェリアだ」


「ええ、存じております。ですから、こうして殿下に教えていただいているのです」


「教えを乞う態度じゃないな」


「では、どのような態度に見えます?」


 ヴィオレッタは悪びれない。扇の陰で笑うその目は、ルシアンを男として、王子として、値踏みしている。婚約者がいることなど、彼女にとっては決定的な壁ではないのだろう。結婚していないなら、まだ盤上に駒は残っている。その程度の感覚なのかもしれない。


 ルシアンは彼女の手を外そうとした。


 その時、視界の端で空色の裾が不自然に止まる。


 セレネの足が、旋律の途中で止まっていた。


 ほんの一拍。


 だが、彼女が舞踏の拍を外すなど、ルシアンは見たことがなかった。


 シオンの顔が、セレネの耳元に近い。唇が何かを囁くように動いている。ルシアンには聞こえない。だが、セレネの肩がわずかに強張ったのは見えた。


「殿下?」


 ヴィオレッタの声がした。


 ルシアンは、絡んでいた彼女の手をはっきりと外した。礼を失しないぎりぎりの力だったが、そこに迷いはなかった。


「失礼する」


 返事を待たずに、ルシアンは歩き出した。


 今すぐ割って入りたかった。だが、舞踏の輪を王族が乱せば、それだけで広間中の視線を集める。セレネを余計に晒すことになる。ルシアンは奥歯を噛み、曲が終わるまでの数拍を待った。


 シオンはすぐに笑みを戻し、何事もなかったかのように回転で間を繋いだ。セレネも足取りを立て直している。周囲の貴族たちは、ほとんど気づいていない。だが、ルシアンには分かる。一度止まったあの一拍だけが、楽の音の中で異物のように残っていた。


 何を言った。


 嫉妬より先に、その問いが胸を刺した。


 最後の音が落ちる。拍手が広がるより早く、ルシアンは2人の元へ向かった。


 シオンが礼を終え、何か言おうと口を開く。その前に、ルシアンはセレネの肩へ手を回し、自分の方へ引き寄せた。


 人前でここまで密着することは、これまでほとんどなかった。けれど今は、体裁より先に、セレネをシオンの腕の中から離すことしか考えられなかった。空色の絹がルシアンの礼装に触れる。セレネは抵抗しない。ただ、いつもよりほんの少しだけ呼吸が浅かった。


「セレネは体調が悪いようだ。今日は下がらせてもらう」


 ルシアンはシオンを見た。


 シオンの翠の瞳が、ほんの一瞬だけ細くなる。笑みは消えない。だが、そこに先ほどまでの軽さはなかった。


「……そう。大事にしてあげて」


 ルシアンは返さなかった。返せば、余計な言葉が出る。


 広間の端では、ヴィオレッタが扇の陰でこちらを見ていた。彼女の表情からは何も読めない。だが今は、それに構っている余裕はなかった。


 ルシアンはセレネの腰を支えるように抱き、広間の出口へ向かった。密着して歩くには、あまりに人目が多い。だが、体調が悪い婚約者を支えるという理由があれば、誰も表立って咎めはしない。貴族たちは小さく道を空け、侍従が慌てて扉を開く。


 大広間の熱が、背後へ遠ざかる。


 廊下へ出ると、音が一段薄くなった。白い回廊には燭台の明かりが落ち、開かれた窓から夜風が入り込んでいる。遠くの噴水の音が、楽の音に混じってかすかに聞こえた。


 ルシアンはセレネを支えたまま、人目の少ない柱陰まで進んだ。


「セレネ」


 呼ぶと、彼女は顔を上げる。海色の瞳は、もう大きく揺れてはいない。だが、普段よりも少しだけ焦点が遠い。


「何があった」


 セレネはすぐには答えなかった。ルシアンの袖に添えた指が、ほんのわずかに強くなる。空色のドレスの金糸が、燭台の光を受けて淡く揺れた。


「シオンは、お前に何を言った」


 問い詰める声にならないよう抑えたつもりだった。だが、自分でも分かるほど低い声だった。


 セレネは一度だけ瞬きをする。


「……何でもありません」


「何でもないわけがあるか」


「殿下」


 セレネはそこで言葉を止めた。


 いつものように、必要な情報だけを選び取る顔だった。けれど、その選び取った先で、何かを閉じ込めている。ルシアンにはそう見えた。


「今は、まだ」


 そう続ける代わりに、セレネは小さく息を整えた。


「何でもありません」


 同じ言葉だった。


 ルシアンはそれ以上、問えなかった。彼女が隠している。そう分かる。だが、この場で無理にこじ開ければ、壊れるものがある気がした。シオンが何を言ったのか。なぜセレネが、たった一拍とはいえ舞踏の足を止めたのか。答えはまだ遠い。


 けれど、今もセレネはルシアンの腕の中にいる。


 それなのに、彼女の瞳だけが、どこか遠い場所を見ていた。


 ルシアンは彼女の肩を抱く手に、ほんの少しだけ力を込めた。


「……分かった」


 納得したわけではない。


 ただ、今はそれ以上聞かないと決めただけだった。

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