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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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夕空をまとう令嬢

 舞踏会の夜、王城の大広間へ続く控えの回廊には、すでに花と香水と熱の混じった空気が流れ込んでいた。高い扉の向こうでは、楽師たちが調律を終え、低く柔らかな旋律を奏で始めている。磨かれた白石の床には燭台の光が淡く映り、壁際に飾られた白百合と夏薔薇の香りが、開かれた窓から入る夜風に揺れていた。貴族たちの衣擦れ、抑えた笑い声、侍従が名を告げる声。そのすべてが、王家主催の舞踏会という名の、華やかな戦場の始まりを告げている。


 ルシアンは入口近くの控えの回廊で、セレネを待っていた。王族として先に広間へ入ることもできた。だが今日は、婚約者を伴って入場する方が自然だった。そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥が落ち着かない理由を、ルシアンは分かっていた。セレネが、あのドレスを着てくる。自分が贈った衣装だ。仕立てにも、色にも、意匠にも、すべて目を通した。だが、布だけを見た時と、それをセレネが身にまとう時とでは、意味が違う。


 ルシアンは自分の首元へわずかに視線を落とした。今夜の正装は、白を基調に濃紺を重ねた王族の礼装だった。肩章と袖口には淡い金糸が入り、胸元のクラヴァットには、澄んだ空色の絹が使われている。その絹には、夕日の光を思わせる細い金糸が流れるように織り込まれていた。仕立て屋は、婚約者同士の装いとしては美しくまとまるでしょう、とだけ告げた。その言葉を聞いた時は、ただ頷いただけだった。今になって、少しだけ落ち着かない。


「殿下」


 背後からクライヴの声がした。


「レヴァンティス使節団は、すでに広間へ入っています。アステリオス卿も、使節団側の一角に」


「分かった」


「ヴィオレッタ・アルディーノ嬢も確認しております」


 その名に、ルシアンはわずかに眉を寄せた。南回廊で会った孔雀青の令嬢。大胆な薄絹と、試すような視線。上着を羽織らせた時の、あの一瞬の驚き。今夜も何か仕掛けてくるかもしれない。そう思ったが、今はそれより先に待つべき相手がいた。


 回廊の奥から、衣擦れの音が近づいてきた。夜会へ向かう令嬢たちの華やかな足取りとは違う、静かで乱れのない歩調だった。ルシアンは、それが誰のものか分かった。侍女たちが数歩手前で足を止める。灯りを受けた空色の裾が、回廊の角から静かに現れた。


 ルシアンは顔を上げる。


 セレネがいた。


 一瞬、広間から流れ込む楽の音も、侍従の声も、遠くなった気がした。空色の絹が、夜の灯りを受けて静かに揺れている。昼の青ではない。日が沈む直前、空がまだ明るさを残しながら、地平に夕日の金を溶かしていく、そのわずかな時間を閉じ込めたような色だった。胸元から腰へかけて、夕日色の金糸が細く流れ、裾へ向かうにつれて淡い光の筋となって広がっている。


 仕立ては派手ではない。けれど、セレネのまっすぐな背筋と、細い腰へ落ちる線を、空色の絹が静かになぞっていた。歩くたびに布が1拍遅れて揺れ、夕日色の金糸がその動きに沿って淡く光る。飾りで目を奪うのではない。彼女が1歩進むだけで、ドレスの方が彼女に合わせて美しく見えるようだった。


 黒髪は高くまとめられ、銀細工の髪留めが夜の光を返している。深い海色の瞳は、いつも通り大きな感情を映さない。けれど、ルシアンの前で足を止めた瞬間、その視線が彼の首元でほんの少し留まった。空色のクラヴァットに織り込まれた夕日色の金糸が、彼女のドレスに流れる刺繍と同じものだと気づいたのだろう。袖口の模様も、彼女の裾を飾る意匠と揃えてある。仕立て屋にそう指示したのはルシアン自身なのに、セレネに見つけられた瞬間、なぜか胸の奥が落ち着かなくなった。


「お待たせいたしました、殿下」


 人前の声だった。それでも、ルシアンの胸の奥は熱を持った。


「……遅くない」


 もっと気の利いた言葉はいくらでもあったはずだ。綺麗だ、と言えばいい。似合っている、と言えばいい。だが、いざ目の前にすると、言葉が喉の手前で止まる。セレネは静かに瞬きをした。


「同じ布なのですね」


「ああ」


 ルシアンは少しだけ視線を逸らした。


「婚約者だからな。不自然ではないだろ」


「はい」


 セレネは短く答えた。それ以上は言わない。ただ、抱えていた小さな手袋の先を整える指が、ほんのわずかに遅れた。それだけで十分だった。


 ルシアンは腕を差し出した。セレネの白い手が、迷いなくそこへ添えられる。手袋越しの軽い重みが腕へ乗った瞬間、ルシアンは昨夜でも昼でもない、今この場所で、彼女が自分の隣に立っていることを強く意識した。


 侍従が扉の前で姿勢を正す。


「第三王子ルシアン・アルヴェリア殿下。ヴァルキュリア侯爵家、セレネ・ヴァルキュリア令嬢」


 高い声が広間に響く。扉が開いた。


 大広間の光が、二人を迎えるように溢れた。銀の燭台、金の飾り布、花々、磨かれた床、幾重にも重なる貴族たちの視線。そのすべてが一瞬、こちらへ向く。ルシアンはセレネを伴い、ゆっくりと広間へ入った。


 ざわめきが、ほんのわずかに揺れる。誰も露骨には言わない。だが、視線は正直だった。セレネのドレスから、ルシアンの首元へ。彼女の裾の金糸から、彼の袖口の刺繍へ。空色の絹と、夕日色の金糸。同じ布、同じ意匠。王族とその婚約者が、明確に揃いの色をまとっている。それが何を意味するか、分からない者はいない。


 広間の奥に立っていたレオニスが、完璧な王太子の笑みのまま、ほんのわずかに目元を和らげた。リリアーナはその隣で、何かを察したように柔らかく微笑んでいる。フェリクスは楽しそうに目を細め、ミレイユは眼鏡の奥で少し驚いたように瞬きをしていた。


 ルシアンはそれらを見ないふりで受け流し、セレネとともに広間中央へ進む。最初の旋律が始まる前の、静かな余白が広間に降りていた。ルシアンはセレネの前で足を止め、改めて手を差し出す。


「セレネ・ヴァルキュリア令嬢」


 少し形式ばった呼び方に、セレネが静かに瞬きをする。


「最初の一曲を、俺と踊ってくれるか」


 人前である以上、当然の誘いだった。婚約者として断られるはずもない。それでも、言葉にした瞬間、ルシアンの胸の奥は妙に落ち着かなくなった。セレネはほんの少しだけ視線を伏せ、差し出された手に自分の指を重ねる。


「喜んで、殿下」


 大きな笑みも、華やいだ声もない。けれど、重ねられた指先は逃げなかった。


 楽師が弓を上げる。最初の旋律が流れ出した。ルシアンはセレネの手を取り、もう一方の手を彼女の腰へ添えた。指先に余計な力が入らないよう、意識する。仕立て屋が言った通り、そのドレスはセレネの線を美しく拾っていた。だからこそ、触れる位置も力も、いつも以上に慎重になる。


 セレネは何も言わない。ただ、いつものように正確な足取りでルシアンの動きに合わせた。身体の距離は舞踏として適切だ。けれど、同じ布をまとっているせいか、いつもより近く感じる。回転するたび、空色の裾が広がり、夕日色の金糸が光を弾く。黒髪の陰で、銀の髪留めが小さく揺れる。セレネの瞳は大広間の灯りを映し、深い海の中に金の欠片を沈めたように見えた。


 綺麗だ。


 今度こそ、そう思った。


 だが口に出すには、遅すぎた。今さら言えば、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。だからルシアンは、ただ彼女を支える手に意識を向けた。


「動きにくくはないか」


「問題ありません」


「締めつけすぎていないか」


「はい」


「裾は」


「踏んでいません」


「そうか」


 セレネが少しだけ瞬きをした。


「殿下」


「何だ」


「確認事項が、警備の時と似ています」


 ルシアンは一瞬詰まった。


「悪かったな」


「いいえ」


 セレネはそれ以上言わなかった。ただ、目元の硬さがほんの少しだけほどけたように見えた。それだけで、ルシアンはまた言葉を失いそうになる。


 曲が進むにつれ、最初のざわめきは柔らかな注目へ変わっていった。揃いの布をまとって入場し、最初の一曲を踊る。王族の婚約者としては自然な振る舞いだ。だが、その自然さを自分が望んだのだと思うと、ルシアンの胸の奥は妙に落ち着かなかった。


 曲が終わる頃、セレネの手がルシアンの手から離れた。拍手が広間に広がり、二人は向かい合って礼を交わす。その動作すら、今夜は妙に惜しく感じた。


 だが、いつまでも広間の中央に留まるわけにはいかない。次の曲を待つ者たちが周囲で動き始め、侍従たちは客人たちをそれぞれの位置へ誘導している。ルシアンはセレネへもう1度腕を差し出し、彼女を伴って広間の端へ向かった。


 王族と高位貴族、隣国の使節たちが自然に集まる一角には、すでにレオニスとリリアーナの姿があった。フェリクスとミレイユも少し離れた場所で来賓と言葉を交わしている。白百合と金の飾り布に囲まれたその場所は、表向きには歓談のための空間だが、実際には誰がどの相手へ近づくかを見られる場でもあった。


 そこで、軽い声が届いた。


「……そっちを選んだんだ」


 ルシアンは振り向く。


 シオン・アステリオスが、レヴァンティス使節団の一角からこちらへ歩いてくるところだった。赤銅色の髪は夜会用に整えられ、レヴァンティスの意匠を混ぜた礼装を身につけている。だが、ルシアンの視線が止まったのは、その首元だった。


 翠の薄絹。水面のように光を含むその布が、シオンの首元で柔らかく結ばれている。端には細い赤の飾り紐が落ち、小さな赤い石が燭台の光を受けて揺れていた。


 見覚えがある。


 セレネへ贈られてきた、あの舞踏会用のドレスと同じ布だ。


「シオン」


 セレネが名を呼ぶ。


 シオンは笑っていた。いつものように柔らかく、軽く、何も傷ついていないような顔で。だが、その笑みはほんの少しだけ薄かった。


「綺麗だよ、セレネ」


「ありがとうございます」


「本当に。悔しいくらいに似合ってる」


 シオンの翠の瞳が、セレネのドレスからルシアンの首元へ流れる。同じ空色の絹、同じ金糸。それを見て、彼は少しだけ口元を上げた。


「揃えたんだね」


「婚約者だからな。不自然ではないだろ」


 ルシアンが返すと、シオンは小さく笑った。


「うん。不自然じゃないよ。すごく自然だ。だから、痛い」


 その声は明るかった。明るいからこそ、妙に胸へ残った。


 セレネは大きく表情を変えなかった。ただ、シオンの首元の翠へ一度だけ視線を落とし、それから目を戻した。シオンの指先が、首元の薄絹を軽く押さえる。その仕草に残った期待の名残を、ルシアンは見ないふりができなかった。


 ほんの短い沈黙が落ちる。


 先に笑ったのは、シオンだった。


「……分かってるよ」


 軽い声だった。けれど、いつものような余裕は少しだけ薄い。


 ルシアンは何も返さなかった。譲る気はない。だが、この男がただ遊びでセレネへ近づいているわけではないことだけは、もう否定できなかった。


 その時、レヴァンティス使節団の一角から視線を感じた。ルシアンが目を向けると、深い青緑の夜会衣装をまとったヴィオレッタ・アルディーノと目が合う。昼に見た孔雀青よりも濃く、燭台の光を含むたび、夜の湖面のように艶めく薄絹だった。胸元も背もアルヴェリアの礼装よりずっと大胆に開いているが、金糸の刺繍と赤い宝石が、その装いを異国の高位貴族らしい華やかさへ整えている。


 ヴィオレッタは扇の陰で、ゆっくりと微笑んだ。


 それだけだった。だが、その笑みが、ルシアンには妙に引っかかった。


 楽の音が再び高くなる。次の曲へ移るため、貴族たちが少しずつ動き始める。笑い声、挨拶、杯の触れ合う澄んだ音。舞踏会は華やかに進んでいく。だが、ルシアンの意識は、まだその華やぎへ戻りきれなかった。


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