孔雀青の令嬢
南回廊には、午後の光が長く差し込んでいた。王城の白い石床は磨き上げられ、窓から入る夏の風が、柱と柱の間に掛けられた薄布を静かに揺らしている。舞踏会を前に、回廊の壁際には新しい花台が運び込まれ、侍従たちが淡い金の燭台を等間隔に並べていた。昼の王城は明るい。だが、明るい場所ほど、人の動きの綻びはよく見える。
ルシアンは南回廊の中央で足を止め、クライヴから受け取った配置図へ目を落とした。午前の執務室で修正させた警備案だ。貴婦人方の控えの間へ続く動線と、レヴァンティス使節団の控え室へ向かう道が一部重なっている。儀典局は時間をずらせると言っていたが、舞踏会当日に予定通り人が動くとは限らない。貴族は予定に従っているふりをしながら、必要があればいくらでも道を逸れる。
「この角だな」
ルシアンが言うと、クライヴが頷いた。
「はい。大広間側から来た場合、ここで貴婦人方の控えの間と、使節団控えの間への道が分かれます」
「人を置くなら、柱の陰じゃなく窓側だ。ここは視線が抜けすぎる」
「では、窓側に2名。柱側は巡回へ回します」
「そうしろ」
クライヴが手早く紙へ印を入れる。余計な確認をせず、必要なところだけ聞き返す。ルシアンが1度目を向ければ、次に必要な資料を差し出してくる。それ自体は助かる。助かるのだが、あまりに無駄がないと、かえって腹立たしい時もある。
「何か」
視線に気づいたのか、クライヴが顔を上げる。
「別に」
「では、こちらの控え室も確認を」
淡々と返され、ルシアンは小さく鼻を鳴らした。
その時、回廊の奥がわずかにざわめいた。
儀典局の役人が数名、先導するように歩いてくる。その後ろに続くのは、レヴァンティスの使節団だった。アルヴェリアの礼装よりも色が濃く、布の重なりも軽い。男たちは細い刺繍の入った長衣をまとい、女たちは鮮やかな薄絹を風に揺らしている。香辛料と花を混ぜたような、異国の香りが回廊の白い空気へ流れ込んだ。
ルシアンは配置図を閉じた。使節団がここを通る予定は聞いている。控えの間の確認だろう。儀典局の者が慌てた顔をしていない以上、手続き上の問題はない。だが、その中に1人、明らかに周囲の空気を変える女がいた。
孔雀の羽を思わせる青緑の薄絹が、歩くたびに光を含んで艶めかしく揺れている。
肩は惜しげもなく露わにされ、胸元もアルヴェリアの宮廷礼装では考えられないほど深く開いていた。布は身体の線を隠すのではなく、むしろそのしなやかな輪郭を際立たせるために仕立てられているようだった。背中側も大胆だった。細い首筋から肩甲骨、腰へ落ちるなめらかな線までが薄絹の間に覗き、腰には金色の鎖が幾重にも垂れている。中央に嵌め込まれた赤い宝石は、小さな灯のように揺れ、見る者の視線を自然と引き寄せた。薄い袖布は肌を隠すためではない。動きのたびに光をまとい、視線を逃がさないためのものだった。
周囲の若い文官が、息を呑む気配がした。
だが、不思議と下品ではなかった。
隠すことを美徳とするアルヴェリアとは違う。見られることも、視線を集めることも、すべて礼装の一部なのだと告げるような堂々とした装いだった。女は自分が美しいことを知っている。どの角度で立てば人が見惚れるか、どこまで近づけば相手が息を忘れるか、そのすべてを理解している顔だった。
ルシアンは一瞬だけ、視線の置き場に迷った。だが、次に胸へ湧いたのは見惚れるような感情ではなく、不快感だった。彼女の装いではなく、それへ向けられる周囲の視線が気に入らない。女はその迷いも不快感も見逃さなかったらしい。細い扇の陰で、赤い唇がゆっくり弧を描いた。
「第三王子殿下、でいらっしゃいますわね」
レヴァンティス訛りの少ない、滑らかなアルヴェリア語だった。儀典局の役人が慌てて口を開く。
「殿下、こちらはレヴァンティス王国よりお越しの、ヴィオレッタ・アルディーノ様でございます。アルディーノ家は、王太女殿下にも近しい高位の御家柄で……」
「説明は聞いている」
ルシアンは短く返した。
ヴィオレッタ・アルディーノ。
名簿で見た名だ。王太女の側近筋にあたる、レヴァンティスの高位貴族。シオンがいた国の、もっとも王家に近い社交圏の1人。午前に聞いた噂を思い出すには、それだけで十分だった。
ヴィオレッタは優雅に膝を折った。金鎖が微かな音を立てる。
「お目にかかれて光栄ですわ、ルシアン殿下」
「こちらこそ。控えの間の確認か」
「ええ。レヴァンティスの者は、アルヴェリアの王城に不慣れですもの。迷って舞踏会に遅れてしまっては、失礼でしょう?」
そう言いながら、ヴィオレッタの視線は控えの間ではなく、回廊全体を滑っていた。大広間側の扉。柱の陰。窓側の警備位置。クライヴの手元にある配置図。儀典局の役人の立ち位置。彼女は笑っている。けれど、その目はただの客人のものではなかった。
ルシアンは目を細める。
「王城の案内なら、儀典局がする」
「もちろんですわ。けれど、道というものは、案内された通りに歩くだけでは覚えられませんもの」
「歩き回るつもりなら、許可を取れ」
「あら、厳しい」
ヴィオレッタは扇の陰で笑った。その目は、ルシアンの顔ではなく、ほんの一瞬だけ揺れた視線の名残を見ているようだった。
「でも、殿下も目を逸らされるのですね」
クライヴの視線がわずかに上がる。ルシアンは表情を変えなかった。
「何の話だ」
「レヴァンティスの女の装いは、アルヴェリアの殿方には少し刺激が強いと聞いておりましたから」
「使節として来たなら、相手国の礼儀も学んでおくべきだったな」
「あら。学んでおりますわ。だからこそ、どこまでが礼儀で、どこからが本音なのかを見ているのです」
「人を試すな」
「試されて困ることがおありで?」
ヴィオレッタの扇が、唇の前で小さく止まる。笑っているのに、その目は冷静だった。
「殿下は、私を見るのを避けた。けれど、私を見ている者たちを見る目の方が、ずっと険しかった」
ルシアンは目を細めた。
「よく見ているな」
「見られることには慣れておりますもの。ですから、見る側の目も分かります」
「なら、分かっていてその格好をしているのか」
「ええ」
ヴィオレッタは、少しも悪びれずに微笑んだ。
「レヴァンティスでは、見られることも礼装の一部ですわ」
「ここはアルヴェリアだ」
「存じております」
「なら、少しは合わせろ」
「合わせたつもりですの」
「どこがだ」
「本国では、もう少し軽やかですわ」
近くにいた若い侍従が、小さく咳き込んだ。クライヴが無表情のまま視線を落とす。ルシアンは短く息を吐いた。
「……この国では、その装いは目立つ」
「目立つための装いですわ」
「そういう意味じゃない」
ルシアンは自分の上着の留め具を外した。クライヴが一瞬だけこちらを見る。何か言いたそうだったが、口にはしない。賢明だ。ルシアンは上着を脱ぎ、ヴィオレッタの肩へ掛けた。
「見世物にされたいわけじゃないなら、羽織っておけ」
回廊の空気が、ほんの一瞬止まった。
ヴィオレッタもまた、初めて少しだけ目を丸くした。
男が自分を見ることには慣れている。目を逸らすことにも、慌てて褒めることにも、下卑た視線を隠せないことにも。けれど、周囲の視線を遮るために上着を掛けられるとは思っていなかったのだろう。彼女はすぐに目元を和らげ、肩に掛けられた上着の襟元へ白い指先を添えた。
「まあ。第三王子殿下は、噂よりずっとお優しいのですね」
「勘違いするな。王城内で余計な騒ぎを起こされたくないだけだ」
「そういうことにしておきますわ」
「そういうことだ」
「では、この上着、婚約者さまがご覧になったら妬いてしまいません?」
婚約者。そのひと言に、ルシアンは返事を一瞬だけ遅らせた。本当に一瞬だ。けれどヴィオレッタの目が、そこで細くなる。獲物が息を乱した瞬間を見た狩人のような目だった。
「くだらないことを言うな」
「あら、よろしいんですの?」
「何がだ」
「では、少し長くお借りしますね」
ルシアンは眉を寄せた。だが、今さら返せとも言えない。周囲の視線を遮るために掛けたのは自分だ。ここで取り上げれば、余計に目立つだけだった。
「……好きにしろ」
「ありがとうございます、殿下」
ヴィオレッタは楽しげに礼をした。上着は彼女には少し大きい。肩にかかった黒い布が、青緑の薄絹と奇妙に重なっていた。ルシアンの衣服で露出は和らいだはずなのに、かえって異国の令嬢が王子の上着をまとっているという事実の方が、回廊の視線を集めている。面倒なことをした。ルシアンは内心で舌打ちする。
だが、ヴィオレッタは満足そうだった。
「アルヴェリアの殿方は、皆さまこのように堅くていらっしゃるの?」
「堅い?」
「ええ。目を逸らすのも、上着を掛けるのも、まるで礼儀と戦っているみたいですわ」
「戦ってない」
「あら。では、何と戦っていらっしゃるのかしら」
声は軽い。だが、目は笑っていなかった。ルシアンはその視線を受け止めた。ヴィオレッタは近い。言葉も、距離も、香りも、アルヴェリアの貴族令嬢とは違う。だが、シオンの距離の近さとは種類が違った。シオンは相手の懐へ当然のように入り込む。ヴィオレッタは、相手の反応を見ながら、踏み込む場所を選んでいる。
こちらを測っている。男として。王子として。自分に釣り合う相手か、あるいは利用する価値のある相手かを見極めるように。だが、それだけではない。
「レヴァンティスでは、初対面の相手をそうやって試すのが礼儀なのか」
「試しているように見えました?」
「違うのか」
ヴィオレッタは扇の陰で微笑む。
「殿下は、思っていたよりずっと鋭い方ですのね」
「思っていた?」
「ええ。こちらへ来る前に、いくつかお噂を聞いておりましたから」
「また噂か」
「噂は便利ですもの。真実より先に、人の心へ入り込む」
その言い方に、ルシアンはわずかに目を細めた。噂は、いつも軽い囁きとして始まる。水面の魔女も、眠る宮もそうだった。誰かが笑いながら口にしたものが、やがて人を縛る恐怖になる。レヴァンティスから流れてきた噂にも、同じ匂いがあった。
「レヴァンティスでは、今も何か流れているのか」
ヴィオレッタの笑みが、ほんのわずかに薄くなった。消えたわけではない。むしろ、より美しく整えられた笑みになった。だがルシアンは見た。その瞳の奥で、ほんの一瞬だけ、冷たいものが沈んだことを。
「さあ」
「知らないとは言わないんだな」
「知らないものを、知らないと口にするのは簡単ですわ」
「答えになってない」
「では、こう申し上げます」
ヴィオレッタは声を落とした。
「レヴァンティスの噂は、あまり近くでお聞きにならない方がよろしいですわ」
周囲の音が、少し遠くなった。明るい南回廊に、夏の風が吹き込んでいる。花台を運ぶ侍従の足音、儀典局の役人の小声、薄布の揺れる音。何も変わっていないはずなのに、彼女の声だけが、白い石壁へ薄い影を落とした。
「忠告か」
ヴィオレッタは答えなかった。ただ、扇の陰で微笑む。答えを避けたのか、それとも答える必要がないと思ったのか、その表情からは読めなかった。
「では、控えの間を確認してまいります。殿下の上着は、必ずお返しいたしますわ」
ヴィオレッタは優雅に一礼した。問い返す隙を与えない所作だった。青緑の薄絹の上に黒い上着を羽織ったまま、彼女は儀典局の案内へ戻る。
ルシアンは彼女の背を見送った。自分でも、面倒なことをした自覚はある。だが、あのまま周囲の視線に晒しておくのも気に入らなかった。ヴィオレッタがそれを承知で装っているとしても、見る側の下卑た好奇まで許す理由にはならない。
「アルディーノ家について、追加で調べろ」
「はい」
「王太女殿下との距離。レヴァンティス使節団内での立場。あと、午前に聞いた噂と関わりがあるかどうかも、分かる範囲でいい」
「承知しました」
クライヴはすぐに紙へ記す。ルシアンは、ヴィオレッタが去った回廊の先を見た。彼女はちょうど角を曲がるところだった。その直前、扇を持つ手がわずかに動く。誰かを呼び止めたのか、レヴァンティスの従者らしき男が1歩近づいた。
ヴィオレッタは扇の陰で、従者へ何かを囁いた。声は届かない。従者は1度だけ目を伏せ、深く頭を下げる。礼として見れば不自然ではない。だが、そこには主人に従う者の柔らかさではなく、命を受けた者の硬さがあった。
ルシアンは目を細める。ただの従者ではない。そう思った時には、ヴィオレッタの孔雀青の薄絹も、従者の姿も、人の流れの向こうに紛れていた。
「南回廊の配置をもう1度見直す」
ルシアンは低く言った。
「今すぐですか」
「ああ」
ヴィオレッタが見ていた場所を、頭の中で辿る。大広間側の扉。柱の陰。窓側の警備位置。控え室へ続く曲がり角。そして、クライヴの手元の配置図。あの女は、ただ大胆な衣装で男を惑わせに来たわけではない。自分がどれほど見られるかを知っている。相手がどこで目を逸らし、どこで警戒するかを見ている。その上で、必要なものを拾っていく。
ルシアンは奥歯を噛んだ。
「ただの令嬢じゃないな」
「そのようです」
クライヴが静かに答える。南回廊には、まだ午後の明るい光が満ちていた。花台の白い花は涼やかに揺れ、薄布は風を受けて柔らかく波打っている。舞踏会を待つ王城は、どこまでも華やかに整えられていく。その華やぎの中を、孔雀青の薄絹をまとった令嬢が通り過ぎた。ルシアンの上着を羽織ったまま。
そして彼女の落とした影だけが、南回廊の白い床に、しばらく消えずに残っているように見えた。




