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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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警備図に落ちる影

 翌朝の王城は、昨夜の星見宮とはまるで違う空気に包まれていた。


 高窓から差し込む夏の光が、白い石壁を容赦なく照らしている。夜の回廊に満ちていた水音や灯りの揺らめきは遠く、代わりに聞こえるのは、廊下を行き交う文官たちの足音と、紙束を抱えた侍従の声だった。どこか遠くで鳴る儀典局の鐘が、朝の王城へ乾いた余韻を落としている。


 王族の婚礼が終わっても、王城の慌ただしさは消えない。次に控えているのは、各国使節と国内貴族を招いた王家主催の舞踏会だった。


 祝宴の延長に見えるが、実際は違う。誰が誰へ近づき、誰が距離を取り、どの家がどこへ立つのか。華やかな音楽と笑顔の裏で、無数の思惑が動いている。


 ルシアンの執務室には、朝から舞踏会の警備資料が広げられていた。


 大広間の見取り図、招待客名簿、控えの間の割り振り、王族席への動線、使節団の入退場経路、庭園側の封鎖区域。机上を覆う紙の上へ、窓からの光が四角く落ちている。


 整然として見える警備図を眺めながら、ルシアンはその中に潜む綻びを探していた。


「南回廊側の配置が薄い」


 低く言うと、机の向こうに立っていたクライヴがすぐ別の紙を差し出す。


「儀典局の進行表では、舞踏会開始後、南回廊は貴婦人方の休憩室への動線になります。人の流れが増えるなら、配置を増やすべきはこちらかと」


 以前なら、こういう役目はエドガーだった。


 その名前を思い出しかけ、ルシアンは視線を紙面へ落とした。離宮の事件が終わった直後、クライヴは正式に王族特務隊の隊長補佐へ任じられた。最初の頃は、執務室の一角に彼の机が置かれていることへ、ルシアン自身も微かな違和感を覚えていた。


 だが三か月も経てば、その姿にも慣れる。警備配置図と招待客名簿を照らし合わせ、必要な資料を無駄なく差し出してくる動きも、今では自然に執務室へ馴染んでいた。


「東翼は」


「王太子殿下側の護衛と重なります。連絡役を二名増やせば、こちらで直接人員を割かずに済みます」


「手配しろ」


「はい」


 クライヴが短く答え、控えていた隊員へ指示を飛ばす。まだ若い声だが、無駄な揺れはない。以前より、ずっと隊長補佐らしくなっていた。


 ルシアンは次の資料へ手を伸ばした。その時、扉が静かに叩かれる。


「入れ」


 扉が開き、セレネが姿を見せた。


 深い海色のドレスが、朝の光を受けて静かに艶めいている。黒髪は高くまとめられ、銀細工の髪留めが小さく光を返していた。手には儀典局の印が入った書類と、侍女長から預かったらしい薄い紙束がある。


「失礼いたします、殿下」


 いつも通りの声だった。


 ルシアンの指先が、ほんの一瞬だけ止まる。


 殿下。


 当然の呼び方だ。ここは執務室で、クライヴも隊員も文官もいる。昨夜のように、白い扉の前で二人きりだったわけではない。


 分かっている。それでも昨夜の声が耳の奥へ残っていた。


 ルシアン様。


 たった一度。そう呼ばれただけだ。なのに、元の呼び方へ戻った今、胸の奥が少し冷える。昨夜の熱だけが、朝の光の中へ置き去りにされたようだった。


 こんなことで気を乱されるなど、本来なら有り得ない。


 ルシアンは短く息を整え、何事もなかったように顔を上げた。


「そこへ置け。儀典局の分か」


「はい。舞踏会当日の進行表と、貴婦人方の控えの間の割り振りです。使節団の同伴者については、昨夜の時点で一部修正が入っています」


 セレネは机へ近づき、整えられた書類を静かに置いた。クライヴがすぐ警備資料と照合する。セレネはその横で、貴婦人たちの動線と休憩室の位置を指先で示した。


「こちらの控えの間は、大広間から近すぎます。人目を避けたい方々には不向きです」


「近い方が警備しやすい」


「警備しやすい場所に、人が素直に集まるとは限りません」


 淡々と返され、ルシアンは眉を寄せた。


「嫌な言い方をするな」


「事実です。特に舞踏会では、表向きの動線より、誰にも見られずに移動できる道の方が使われます」


「貴族社会らしいな」


「殿下もご存じでしょう」


「知ってるから嫌なんだよ」


 セレネは反論しない。ただ別の紙を引き寄せ、控えの間の候補へ印をつけていく。その指先はいつも通り落ち着いていた。


 昨夜、扉の取っ手を握っていた指と同じものだと思った瞬間、ルシアンは意識を引き戻す。


 仕事中だ。


 そう自分へ言い聞かせた。


 クライヴが顔を上げる。


「セレネ様の案に合わせるなら、南回廊の配置は増やした方がよさそうです。貴婦人方の動線と、レヴァンティス使節団の控えの間が一部重なります」


「重なる?」


「完全ではありません。ただ、大広間へ向かう前に、同じ回廊を通る時間帯があります」


「ずらせ」


「儀典局側では可能とのことです。ただ、使節団側の最終確認がまだ取れておりません」


 レヴァンティス。


 その名が出た瞬間、昨日の祝宴で見た赤銅色の髪が脳裏を掠めた。


 距離を測る気のない笑み。セレネを当然のように名前で呼ぶ声。軽やかな言葉の奥で、一瞬だけ覗いた影。


 ルシアンは視線を紙面へ落とした。


「シオンの名は」


「使節団側ではなく、アステリオス公爵家の来賓枠へ入っています。ただし、レヴァンティス側と行動を共にする可能性があります」


「面倒な立場だな」


「そのため、動線が読みづらいです」


 クライヴの声は淡々としていたが、わずかに硬さが混じっていた。


「それと、非公式の話ですが」


「何だ」


 クライヴは一度だけ周囲を見た。隊員たちが自然に距離を取り、文官たちは資料へ視線を落としたまま筆を止める。


「レヴァンティスで、妙な噂が流れております」


「噂?」


「王太女の伴侶になろうとした者は、首を失う、と」


 室内の空気がわずかに沈んだ。


 朝の光は変わらず明るい。白い紙の上へ落ちる光も、窓辺で揺れる薄布も、何一つ変わっていない。だが、その言葉だけが執務室の温度を下げた。


「……物騒だな」


「正式な報告ではありません。使節団付きの従者や、レヴァンティスと行き来する商人の間で囁かれている程度です」


「王家からの書簡には」


「記載はありません」


「なら、まだ噂止まりか」


 そう言いながらも、楽観する気にはなれなかった。


 怪異の噂は、いつも曖昧な形から始まる。水鏡の魔女もそうだった。眠る宮もそうだ。人は恐怖を面白がり、そのうち本当に怯え始める。そして、誰かがその恐怖を利用する。


 セレネは資料へ視線を落としたまま、ほんの少しだけ指を止めていた。他人なら見逃す程度の変化だ。だが、ルシアンには分かった。


「気になるのか」


 問いかけると、セレネはゆっくり顔を上げた。


「怪談は、広がるのが早いものです」


「それだけか」


「現時点では、それだけです」


 静かな返事だった。


 それ以上は語らない。まだ材料が足りない時のセレネだ。断定を避け、必要以上に恐れず、けれど見落としもしない。


 ルシアンは小さく息を吐いた。


「シオンが帰国してから三か月も顔を出さなかった件と、無関係とは思えないな」


「可能性はあります」


 クライヴが答える。


「ですが、現段階では確認できておりません」


「分かっている。シオン本人が話すまで、こちらから踏み込みすぎるな。ただし、使節団の動線と関係者名簿は洗い直せ」


「はい」


 クライヴが頷いた。


 その時、扉の外で控えていた侍女が静かに声を掛ける。


「セレネ様。妃教育のお時間でございます」


 セレネは書類を整え、静かに頷いた。


「分かりました」


 そしてルシアンへ向き直る。


「殿下、控えの間の修正案は午後までに侍女長へ確認を取っておきます」


 また、殿下。


 ルシアンはそれを咎めなかった。咎められるはずがない。ここでは、それが正しい呼び方だった。


「ああ。頼む」


「失礼いたします」


 セレネは深く礼をし、書類の一部を抱えて執務室を出ていく。


 扉が閉まった後も、ルシアンはしばらく警備図を見つめていた。線は読める。配置も動線も理解できる。それなのに意識の端には、昨夜の白い扉と、今しがた聞いた「殿下」という声ばかりが残っていた。


「殿下」


 クライヴの声で我に返る。


「次の資料を」


「ああ」


 差し出された紙を受け取りかけ、ルシアンはふと動きを止めた。


 昨夜、自分は言った。


 ルシアンと呼んでほしい、と。


 それを口にした時点で、もう知らなかった頃には戻れない。


「少し外す」


 ルシアンは立ち上がった。


 クライヴが一瞬だけ目を瞬かせる。


「殿下?」


「すぐ戻る。南回廊の修正案はまとめておけ」


「……承知しました」


 クライヴは何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。


 執務室を出ると、白い回廊を早足で進む。窓から差し込む夏の朝の光が、床へ明るい筋を落としていた。


 先の角を曲がろうとしていた黒髪が見える。


「セレネ」


 呼び止めると、セレネが振り返った。


 海色の瞳がこちらを見る。侍女は空気を読んだのか、少し先で足を止め、静かに視線を伏せている。


「殿下?」


 その呼び方に胸の奥が小さく疼く。だがルシアンは飲み込んだ。


「……少しだけ、時間を取らせろ」


「はい」


 静かな返事だった。けれど、抱えた資料の端を押さえる指先がほんの少し強くなる。


 ルシアンは一度、窓の外へ視線を逃がした。夏の庭は明るく、噴水の水音まで穏やかに聞こえる。こんな場所で切り出す話ではないのかもしれない。だが執務室へ戻れば、また警備図と名簿に埋もれる。


 昨日、シオンが置いていった翠の薄絹を思い出すだけで、胸の奥がまだざらついた。


「昨日の贈り物のことだ」


 セレネの瞳がわずかに揺れる。


「シオンからの、ですか」


「ああ」


 認めるだけで、声が少し硬くなった。


「お前がどう扱うかは、お前が決めればいい。だが……舞踏会の衣装については」


 一度、言葉が喉で止まる。


 ルシアンは短く息を吐いた。


「俺に、用意させてほしい」


 セレネの指先が、資料の端で止まった。


 返事はすぐには返ってこない。


 窓の外では、噴水の水音が絶え間なく響いている。白い回廊の向こうを、侍女たちの足音が静かに横切っていった。昼の王城は昨夜とは違って明るく、人の気配も絶えない。それなのに、この短い沈黙だけが、星見宮の静かな夜を思い出させた。


 ルシアンは無意識に指先へ力を込める。


 断られるとは思っていなかった。


 だが、他の誰かから贈られた衣装を身につけたセレネを想像すると、胸の奥がまだざらつく。


「シオンから贈られたものが気に入ったなら、無理にとは言わない」


 自分でも驚くほど、声が硬かった。


「だが……できるなら、俺が贈ったものを着てほしい」


 やがて、セレネが静かに口を開く。


「……シオンから贈られたものを着るつもりはありません」


 ルシアンは思わず彼女を見た。


「そうなのか」


「ええ。あれは、私の意思を確認せずに贈られたものです」


 淡々とした声だった。シオンを責める響きではない。ただ、自分の意思を無視されたものを、そのまま受け取るつもりはないという、セレネらしい線引きだった。


 その言葉に、ルシアンは胸の奥で小さく息をつく。安堵している。認めたくはなかったが、否定もできなかった。


 セレネは静かに答えた。呼び名は戻ったままだ。声もいつも通り落ち着いている。けれど、抱え直した資料の端が、指先の中でわずかにずれた。整え直す動きが、ほんの少しだけ遅い。他人なら見逃す程度の小さな乱れだった。


「ですが、殿下が贈りたいと仰るなら」


 一拍置いて、セレネが続ける。


「……受け取ります」


 その一言だけで、胸の奥に残っていた硬さがわずかに緩んだ。


 ルシアンは何か言おうとして、言葉に迷う。礼を言うのも違う。嬉しいと言うには、ここは明るすぎた。


「なら、用意する」


「お願いいたします」


 侍女が控えめに視線を上げる。時間だ。


 ルシアンは一度だけ口を開きかけ、それから飲み込んだ。


「……引き止めて悪かった」


「いいえ」


 セレネは短く答え、礼をした。


「では、失礼いたします」


「ああ」


 再び歩き出した黒髪が、朝の光を受けてわずかに青く艶めく。白い回廊の奥へその背が遠ざかっていくのを、ルシアンはしばらく見送っていた。


 やがて、小さく息を吐く。


 自分が贈ったものを着てほしい。


 それだけを伝えるだけで、胸がこれほど騒ぐとは思わなかった。


 執務室へ戻ると、クライヴは何事もなかったように資料を整えていた。だが一度だけ、紙面から視線を上げる。


「お早いお戻りで」


「何か言いたそうだな」


「いいえ。南回廊の修正案はまとめてあります」


「なら出せ」


「はい」


 クライヴは淡々と紙を差し出した。


 隙がない。


 ルシアンは椅子へ戻り、再び警備図へ視線を落とす。


 舞踏会の警備配置。レヴァンティス使節団の動線。王太女の伴侶になろうとした者は首を失うという噂。シオンの名。そして、セレネが受け取ると言ったドレス。


 祝祭の準備は着実に進んでいる。


 だが、朝の光に照らされた警備図の上へ、薄い影が落ちているように見えた。

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