警備図に落ちる影
翌朝の王城は、昨夜の星見宮とはまるで違う空気に包まれていた。
高窓から差し込む夏の光が、白い石壁を容赦なく照らしている。夜の回廊に満ちていた水音や灯りの揺らめきは遠く、代わりに聞こえるのは、廊下を行き交う文官たちの足音と、紙束を抱えた侍従の声だった。どこか遠くで鳴る儀典局の鐘が、朝の王城へ乾いた余韻を落としている。
王族の婚礼が終わっても、王城の慌ただしさは消えない。次に控えているのは、各国使節と国内貴族を招いた王家主催の舞踏会だった。
祝宴の延長に見えるが、実際は違う。誰が誰へ近づき、誰が距離を取り、どの家がどこへ立つのか。華やかな音楽と笑顔の裏で、無数の思惑が動いている。
ルシアンの執務室には、朝から舞踏会の警備資料が広げられていた。
大広間の見取り図、招待客名簿、控えの間の割り振り、王族席への動線、使節団の入退場経路、庭園側の封鎖区域。机上を覆う紙の上へ、窓からの光が四角く落ちている。
整然として見える警備図を眺めながら、ルシアンはその中に潜む綻びを探していた。
「南回廊側の配置が薄い」
低く言うと、机の向こうに立っていたクライヴがすぐ別の紙を差し出す。
「儀典局の進行表では、舞踏会開始後、南回廊は貴婦人方の休憩室への動線になります。人の流れが増えるなら、配置を増やすべきはこちらかと」
以前なら、こういう役目はエドガーだった。
その名前を思い出しかけ、ルシアンは視線を紙面へ落とした。離宮の事件が終わった直後、クライヴは正式に王族特務隊の隊長補佐へ任じられた。最初の頃は、執務室の一角に彼の机が置かれていることへ、ルシアン自身も微かな違和感を覚えていた。
だが三か月も経てば、その姿にも慣れる。警備配置図と招待客名簿を照らし合わせ、必要な資料を無駄なく差し出してくる動きも、今では自然に執務室へ馴染んでいた。
「東翼は」
「王太子殿下側の護衛と重なります。連絡役を二名増やせば、こちらで直接人員を割かずに済みます」
「手配しろ」
「はい」
クライヴが短く答え、控えていた隊員へ指示を飛ばす。まだ若い声だが、無駄な揺れはない。以前より、ずっと隊長補佐らしくなっていた。
ルシアンは次の資料へ手を伸ばした。その時、扉が静かに叩かれる。
「入れ」
扉が開き、セレネが姿を見せた。
深い海色のドレスが、朝の光を受けて静かに艶めいている。黒髪は高くまとめられ、銀細工の髪留めが小さく光を返していた。手には儀典局の印が入った書類と、侍女長から預かったらしい薄い紙束がある。
「失礼いたします、殿下」
いつも通りの声だった。
ルシアンの指先が、ほんの一瞬だけ止まる。
殿下。
当然の呼び方だ。ここは執務室で、クライヴも隊員も文官もいる。昨夜のように、白い扉の前で二人きりだったわけではない。
分かっている。それでも昨夜の声が耳の奥へ残っていた。
ルシアン様。
たった一度。そう呼ばれただけだ。なのに、元の呼び方へ戻った今、胸の奥が少し冷える。昨夜の熱だけが、朝の光の中へ置き去りにされたようだった。
こんなことで気を乱されるなど、本来なら有り得ない。
ルシアンは短く息を整え、何事もなかったように顔を上げた。
「そこへ置け。儀典局の分か」
「はい。舞踏会当日の進行表と、貴婦人方の控えの間の割り振りです。使節団の同伴者については、昨夜の時点で一部修正が入っています」
セレネは机へ近づき、整えられた書類を静かに置いた。クライヴがすぐ警備資料と照合する。セレネはその横で、貴婦人たちの動線と休憩室の位置を指先で示した。
「こちらの控えの間は、大広間から近すぎます。人目を避けたい方々には不向きです」
「近い方が警備しやすい」
「警備しやすい場所に、人が素直に集まるとは限りません」
淡々と返され、ルシアンは眉を寄せた。
「嫌な言い方をするな」
「事実です。特に舞踏会では、表向きの動線より、誰にも見られずに移動できる道の方が使われます」
「貴族社会らしいな」
「殿下もご存じでしょう」
「知ってるから嫌なんだよ」
セレネは反論しない。ただ別の紙を引き寄せ、控えの間の候補へ印をつけていく。その指先はいつも通り落ち着いていた。
昨夜、扉の取っ手を握っていた指と同じものだと思った瞬間、ルシアンは意識を引き戻す。
仕事中だ。
そう自分へ言い聞かせた。
クライヴが顔を上げる。
「セレネ様の案に合わせるなら、南回廊の配置は増やした方がよさそうです。貴婦人方の動線と、レヴァンティス使節団の控えの間が一部重なります」
「重なる?」
「完全ではありません。ただ、大広間へ向かう前に、同じ回廊を通る時間帯があります」
「ずらせ」
「儀典局側では可能とのことです。ただ、使節団側の最終確認がまだ取れておりません」
レヴァンティス。
その名が出た瞬間、昨日の祝宴で見た赤銅色の髪が脳裏を掠めた。
距離を測る気のない笑み。セレネを当然のように名前で呼ぶ声。軽やかな言葉の奥で、一瞬だけ覗いた影。
ルシアンは視線を紙面へ落とした。
「シオンの名は」
「使節団側ではなく、アステリオス公爵家の来賓枠へ入っています。ただし、レヴァンティス側と行動を共にする可能性があります」
「面倒な立場だな」
「そのため、動線が読みづらいです」
クライヴの声は淡々としていたが、わずかに硬さが混じっていた。
「それと、非公式の話ですが」
「何だ」
クライヴは一度だけ周囲を見た。隊員たちが自然に距離を取り、文官たちは資料へ視線を落としたまま筆を止める。
「レヴァンティスで、妙な噂が流れております」
「噂?」
「王太女の伴侶になろうとした者は、首を失う、と」
室内の空気がわずかに沈んだ。
朝の光は変わらず明るい。白い紙の上へ落ちる光も、窓辺で揺れる薄布も、何一つ変わっていない。だが、その言葉だけが執務室の温度を下げた。
「……物騒だな」
「正式な報告ではありません。使節団付きの従者や、レヴァンティスと行き来する商人の間で囁かれている程度です」
「王家からの書簡には」
「記載はありません」
「なら、まだ噂止まりか」
そう言いながらも、楽観する気にはなれなかった。
怪異の噂は、いつも曖昧な形から始まる。水鏡の魔女もそうだった。眠る宮もそうだ。人は恐怖を面白がり、そのうち本当に怯え始める。そして、誰かがその恐怖を利用する。
セレネは資料へ視線を落としたまま、ほんの少しだけ指を止めていた。他人なら見逃す程度の変化だ。だが、ルシアンには分かった。
「気になるのか」
問いかけると、セレネはゆっくり顔を上げた。
「怪談は、広がるのが早いものです」
「それだけか」
「現時点では、それだけです」
静かな返事だった。
それ以上は語らない。まだ材料が足りない時のセレネだ。断定を避け、必要以上に恐れず、けれど見落としもしない。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「シオンが帰国してから三か月も顔を出さなかった件と、無関係とは思えないな」
「可能性はあります」
クライヴが答える。
「ですが、現段階では確認できておりません」
「分かっている。シオン本人が話すまで、こちらから踏み込みすぎるな。ただし、使節団の動線と関係者名簿は洗い直せ」
「はい」
クライヴが頷いた。
その時、扉の外で控えていた侍女が静かに声を掛ける。
「セレネ様。妃教育のお時間でございます」
セレネは書類を整え、静かに頷いた。
「分かりました」
そしてルシアンへ向き直る。
「殿下、控えの間の修正案は午後までに侍女長へ確認を取っておきます」
また、殿下。
ルシアンはそれを咎めなかった。咎められるはずがない。ここでは、それが正しい呼び方だった。
「ああ。頼む」
「失礼いたします」
セレネは深く礼をし、書類の一部を抱えて執務室を出ていく。
扉が閉まった後も、ルシアンはしばらく警備図を見つめていた。線は読める。配置も動線も理解できる。それなのに意識の端には、昨夜の白い扉と、今しがた聞いた「殿下」という声ばかりが残っていた。
「殿下」
クライヴの声で我に返る。
「次の資料を」
「ああ」
差し出された紙を受け取りかけ、ルシアンはふと動きを止めた。
昨夜、自分は言った。
ルシアンと呼んでほしい、と。
それを口にした時点で、もう知らなかった頃には戻れない。
「少し外す」
ルシアンは立ち上がった。
クライヴが一瞬だけ目を瞬かせる。
「殿下?」
「すぐ戻る。南回廊の修正案はまとめておけ」
「……承知しました」
クライヴは何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。
執務室を出ると、白い回廊を早足で進む。窓から差し込む夏の朝の光が、床へ明るい筋を落としていた。
先の角を曲がろうとしていた黒髪が見える。
「セレネ」
呼び止めると、セレネが振り返った。
海色の瞳がこちらを見る。侍女は空気を読んだのか、少し先で足を止め、静かに視線を伏せている。
「殿下?」
その呼び方に胸の奥が小さく疼く。だがルシアンは飲み込んだ。
「……少しだけ、時間を取らせろ」
「はい」
静かな返事だった。けれど、抱えた資料の端を押さえる指先がほんの少し強くなる。
ルシアンは一度、窓の外へ視線を逃がした。夏の庭は明るく、噴水の水音まで穏やかに聞こえる。こんな場所で切り出す話ではないのかもしれない。だが執務室へ戻れば、また警備図と名簿に埋もれる。
昨日、シオンが置いていった翠の薄絹を思い出すだけで、胸の奥がまだざらついた。
「昨日の贈り物のことだ」
セレネの瞳がわずかに揺れる。
「シオンからの、ですか」
「ああ」
認めるだけで、声が少し硬くなった。
「お前がどう扱うかは、お前が決めればいい。だが……舞踏会の衣装については」
一度、言葉が喉で止まる。
ルシアンは短く息を吐いた。
「俺に、用意させてほしい」
セレネの指先が、資料の端で止まった。
返事はすぐには返ってこない。
窓の外では、噴水の水音が絶え間なく響いている。白い回廊の向こうを、侍女たちの足音が静かに横切っていった。昼の王城は昨夜とは違って明るく、人の気配も絶えない。それなのに、この短い沈黙だけが、星見宮の静かな夜を思い出させた。
ルシアンは無意識に指先へ力を込める。
断られるとは思っていなかった。
だが、他の誰かから贈られた衣装を身につけたセレネを想像すると、胸の奥がまだざらつく。
「シオンから贈られたものが気に入ったなら、無理にとは言わない」
自分でも驚くほど、声が硬かった。
「だが……できるなら、俺が贈ったものを着てほしい」
やがて、セレネが静かに口を開く。
「……シオンから贈られたものを着るつもりはありません」
ルシアンは思わず彼女を見た。
「そうなのか」
「ええ。あれは、私の意思を確認せずに贈られたものです」
淡々とした声だった。シオンを責める響きではない。ただ、自分の意思を無視されたものを、そのまま受け取るつもりはないという、セレネらしい線引きだった。
その言葉に、ルシアンは胸の奥で小さく息をつく。安堵している。認めたくはなかったが、否定もできなかった。
セレネは静かに答えた。呼び名は戻ったままだ。声もいつも通り落ち着いている。けれど、抱え直した資料の端が、指先の中でわずかにずれた。整え直す動きが、ほんの少しだけ遅い。他人なら見逃す程度の小さな乱れだった。
「ですが、殿下が贈りたいと仰るなら」
一拍置いて、セレネが続ける。
「……受け取ります」
その一言だけで、胸の奥に残っていた硬さがわずかに緩んだ。
ルシアンは何か言おうとして、言葉に迷う。礼を言うのも違う。嬉しいと言うには、ここは明るすぎた。
「なら、用意する」
「お願いいたします」
侍女が控えめに視線を上げる。時間だ。
ルシアンは一度だけ口を開きかけ、それから飲み込んだ。
「……引き止めて悪かった」
「いいえ」
セレネは短く答え、礼をした。
「では、失礼いたします」
「ああ」
再び歩き出した黒髪が、朝の光を受けてわずかに青く艶めく。白い回廊の奥へその背が遠ざかっていくのを、ルシアンはしばらく見送っていた。
やがて、小さく息を吐く。
自分が贈ったものを着てほしい。
それだけを伝えるだけで、胸がこれほど騒ぐとは思わなかった。
執務室へ戻ると、クライヴは何事もなかったように資料を整えていた。だが一度だけ、紙面から視線を上げる。
「お早いお戻りで」
「何か言いたそうだな」
「いいえ。南回廊の修正案はまとめてあります」
「なら出せ」
「はい」
クライヴは淡々と紙を差し出した。
隙がない。
ルシアンは椅子へ戻り、再び警備図へ視線を落とす。
舞踏会の警備配置。レヴァンティス使節団の動線。王太女の伴侶になろうとした者は首を失うという噂。シオンの名。そして、セレネが受け取ると言ったドレス。
祝祭の準備は着実に進んでいる。
だが、朝の光に照らされた警備図の上へ、薄い影が落ちているように見えた。




