名前を呼んで
夜の星見宮は、昼間とは別の場所のように静まり返っていた。
白い回廊には淡い灯りだけが落ち、開かれた窓からは夏の夜風がゆるく入り込んでいる。昼間の光を受けて眩しく輝いていた石壁も、今は月明かりを薄く含み、冷えた白さを帯びていた。遠くでは水盤へ落ちる水音が静かに響き、風に揺れた庭木の葉擦れが、回廊の奥へかすかに流れていく。
ルシアンは隣を歩くセレネを横目で見た。
昼間の騒動から、もう数刻は経っている。シオンはとうに星見宮を去り、贈られた翠の薄絹も紺碧の水辺衣装も、侍女たちによって片づけられていた。表面上は、いつもの静けさへ戻っている。
だが、ルシアンの胸の内側だけが落ち着かなかった。
昼間に見た色が、まだ瞼の裏に残っている。セレネの黒髪へ触れるはずだった翠。夏の水辺を思わせる紺碧。どちらもシオンの色を帯びていて、その布が彼女の肌の近くへ置かれていたと思うだけで、胸の奥がざらつく。
あの時、耳へ差したわずかな赤みまで思い出し、ルシアンは小さく息を吐いた。
もう誤魔化せなかった。
誰にも見せたくない。
他人の色をまとわせたくない。
誰かへ向ける視線ひとつでさえ、胸の奥がざわつく。
そんな感情を、自分が抱いている。
隣のセレネは静かなままだった。昼間のことを必要以上に引きずっている様子もなく、歩幅も呼吸もほとんど乱れていない。いつものように背筋を伸ばし、黒髪を夜風へ揺らしながら、白い回廊を音もなく歩いている。
けれど時折、耳へかかる髪へ触れる指先だけが、ほんの少し硬い。
動揺している時の癖だった。
誰も気づかない類の変化だ。もしかすると、本人すら意識していないのかもしれない。だがルシアンは知っている。事件の最中でも、貴族たちの視線に晒されている時でも、セレネが感情を押し殺している時、指先だけがわずかに強張ることを。
その小さな変化を、自分だけが知っている。
そう思った瞬間、胸の奥がまた熱を持った。
やがて、セレネの部屋の前へ辿り着く。
侍女たちは少し離れた場所で控えていた。王族と婚約者の会話へ不用意に近づかない程度には、空気を読んでいる。夜の回廊には、水音と灯りの燃える小さな音だけが残っていた。
セレネが扉へ手をかける。
その白い指が取っ手へ触れた瞬間、ルシアンは無意識に彼女を呼び止めていた。
「セレネ」
海色の瞳が振り返る。
灯りを受けた黒髪が肩先で静かに揺れた。感情の読みにくい顔。いつも通りの整った横顔。けれど瞳だけが、夜の色を含んで少し深く見える。
「何でしょうか、殿下」
また、それだ。
昼間から胸へ引っかかっていたものが、静かに疼いた。
ルシアンは数秒、言葉を探した。本当は別の話をするつもりだった。シオンの距離感だとか、あの贈り物の扱いだとか、舞踏会での対応だとか。婚約者としても、王族特務隊隊長としても、不自然ではない話を。
だが、口から出たのはまったく違う言葉だった。
「……お前、あいつのことは名前で呼ぶんだな」
セレネが少し瞬きをする。
「あいつ、とは」
「シオンだ」
その名を口にした瞬間、昼間の光景が脳裏を掠めた。
シオン、と。
セレネはあまりにも自然にそう呼んだ。幼い頃からそうしてきたのだと、説明する必要もないほど当たり前の響きで。
それが妙に近く感じた。
セレネは静かに答える。
「幼い頃から、そう呼んでいましたので」
「俺は?」
一瞬、空気が止まった。
セレネの睫毛が微かに揺れる。
そこでようやく、ルシアンは自分が何を口走っているのか理解した。ひどく間の悪いことを言った自覚はあった。だが、もう止まれなかった。
「俺のことは、ずっと殿下だろ」
セレネが沈黙する。
夜風が黒髪を揺らし、白い頬へ細い影を落とした。
「それは……殿下ですので」
「シオンも公爵令息だ」
「それは、そうですが」
珍しく言葉に詰まっている。
声はいつも通り静かだ。けれど言葉の間がわずかに遅い。扉の取っ手へ添えた指先にも、少しだけ力が入っていた。
その様子に、不意に胸の奥を掴まれた。
これ以上見ていれば、余計なことまで口にしてしまいそうだった。
昼間、自分は理解してしまったのだ。セレネが他人へ近づくだけで胸がざわつく理由も、危険へ踏み込むたび息が詰まる理由も、無意識に視線で追ってしまう理由も。
そのどれもが、いつの間にか目を逸らせないものになっていた。
ルシアンはゆっくり息を吐き、それから低く言った。
「……ルシアンと呼んでほしい」
言った瞬間、自分で驚く。
王子としてではなく。婚約という立場のためでもなく。ただ、自分の名前を彼女の声で呼んでほしいと思った。
そんな感情を抱いたことはなかった。
名前など、役割によって変わるだけのものだと思っていた。殿下でも、第三王子でも、隊長でも、必要に応じて呼ばれればいいだけだと。
けれど今は違う。
ほかの誰でもなく、セレネの声で聞きたかった。
セレネが目を見開く。
海色の瞳の奥で、灯りが小さく揺れた。
「殿下」
「殿下じゃなくて」
ルシアンは少しだけ視線を逸らした。
耳が熱い。
昼間、シオンへ掴みかかりそうになった時とは別の意味で、今の自分は、少しでも気を抜けば踏み越えてはいけないところまで行きそうだった。
「……ルシアン、と」
風の音だけが回廊を抜けていった。
セレネの指先が、扉の取っ手をそっと握り直す。伏せられた睫毛の影が白い頬へ落ち、唇が小さく開く。けれど、すぐには声にならない。
その間が、やけに長く感じた。
ただ待っているだけなのに、胸の奥がじりじりと締めつけられていく。
戦場でも、事件現場でも、こんなふうに誰かの沈黙ひとつで呼吸を乱されたことはなかった。
やがて、黒髪の陰から覗く耳へ、ゆっくり赤みが差す。
最初は灯りのせいかと思った。だが違う。少し遅れて、頬にもごく薄く熱が滲んだ。表情そのものは崩れていないのに、そのわずかな色だけが、彼女の内側の揺れを露わにしている。
ルシアンは息を止めた。
ただ名を呼ばせただけで、彼女の静けさがこんなにも揺れるとは思わなかった。
やがて、セレネの唇が小さく動く。
「……ルシアン、様」
その瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
呼吸が止まりかける。
たったそれだけだった。ただ名前を呼ばれただけだ。なのに、彼女の声で自分の名が形になった瞬間、水音も風の気配も、一瞬だけ意識から抜け落ちた。
ルシアンの瞳の奥で、金色が濃く滲む。
青の中へ、抑えきれない金色が広がっていく。
セレネが小さく息を呑んだ。
海色の瞳が、珍しく大きく揺れている。自分が名前を呼んだだけで、ルシアンがここまで感情を露わにした。その事実を、真正面から受け止めてしまったのだろう。
耳の赤みがさらに濃くなる。
頬にも先ほどよりはっきり熱が差していた。けれど彼女は大きく取り乱さない。ただ、静かな瞳の奥だけが逃げ場を探すように揺れ、扉へ添えた指先へわずかに力が入る。
扉へ置かれた手が、小さく迷うように動いた。
近い。
触れようと思えば、触れられる距離だった。
けれど、触れてはいけない気がした。
今ここで手を伸ばせば、自分はきっと、婚約者としての礼儀も王族としての節度も忘れる。
ルシアンは拳を握った。
「……おやすみなさい」
セレネの声は小さく、最後だけわずかに乱れていた。
次の瞬間、セレネはほとんど滑り込むように部屋へ入り、ぱたん、と扉が閉まる。
ルシアンはしばらく動けなかった。
閉じた扉の前を、夜風だけが静かに通り過ぎていく。灯りの火が小さく揺れ、白い壁へ落ちた影がかすかに震えた。
閉じた扉を見つめたまま、ルシアンは呼吸を忘れていた。
あんなセレネを、見たことがない。
耳だけではない。頬にも熱が差していた。声も少し乱れていた。しかも、自分の名前を呼んだだけで。
少し遅れて、自分の鼓動がやけに速いことに気づいた。顔も耳も熱を持ち、冷たい石壁に背を預けても、その熱だけはなかなか引かなかった。
今更だった。
黒髪も、海色の瞳も、静かな声も、冷静な言葉の奥に隠れたわずかな揺れも、すべてとっくに特別だった。
どうして今まで平然としていられたのか、自分でも分からない。
苦しいのに、離れたくない。
胸の奥が熱を持ったまま、静かに焼かれていく。
しばらくそのまま額を押さえていたが、やがてルシアンは深く息を吐き、ゆっくり立ち上がった。
閉じられた扉を見る。
向こう側には、今もセレネがいる。
たった一枚の扉を隔てただけで、さっきまで隣にいたはずの距離が、ひどく遠く感じた。
ルシアンは数歩だけ近づき、白い扉へそっと指先を触れさせる。
冷たいはずなのに、熱を持っているように感じた。
これまでも、彼女はずっと近くにいた。
事件現場でも、王城の廊下でも、馬車の中でも、古い記録の前でも。いつも静かに隣へ立ち、誰より冷静に真実を見つめていた。
その姿を頼もしいと思ってきた。
必要だと思ってきた。
隣にいるのが当然だと思っていた。
けれど、もう違う。
誰にも渡したくない。
自分のそばへいてほしい。
王族の命令でも、婚約という形式でもなく、彼女自身の意思で。
そう願ってしまう。
その感情は、思っていたより深いところで、もう抜け出せないほど根を張っていた。
ルシアンは小さく息を漏らす。
「……おやすみ、セレネ」
返事はない。
だが扉の向こうで、小さく何かがぶつかる音がした。
思わず身を引いたようにも聞こえて、ルシアンは再び目元を覆う。
もう、知らないふりはできなかった。
夜の静けさの中、その事実だけが胸の奥へ甘く重く沈んでいく。




