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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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翠と赤銅の贈り物

 フェリクスとミレイユの婚礼から、数日が過ぎていた。


 夏の陽は日に日に強くなり、王城の白い石壁を眩しいほどに照らしている。星見宮へ続く回廊にも午後の光が射し込み、磨かれた床には窓枠の影が細く伸びていた。祝宴の華やぎは表面上落ち着いていたが、王城の空気はまだ完全には静まっていない。近づく舞踏会、滞在を続ける隣国使節、各家の探り合い。どれも華やかな社交の名を借りた政治であり、王族特務隊隊長として無視できるものではなかった。


 ルシアンは星見宮の一室で、舞踏会に関する警備配置書へ目を落としていた。王族の導線、貴族の控え位置、レヴァンティス使節団の席次。紙の上に並ぶ文字はどれも必要な情報のはずなのに、ふとした拍子に意識が別の場所へ逸れる。


『お久しぶりです、シオン』


 数日前、セレネがそう呼んだ声が、まだ耳に残っていた。


 甘い響きではない。懐かしさを大げさに滲ませたわけでもない。セレネらしく静かで、礼を失わず、感情をほとんど表に出さない声だった。それなのに、妙に引っかかる。


 セレネはルシアンを「殿下」と呼ぶ。婚約者でありながら、当然のように。立場を考えれば間違っていない。むしろセレネらしい。だが、シオンには違った。彼女は何の迷いもなく、自然に名前を呼んだ。シオン。その短い呼び方が、喉の奥に小さな棘のように残っている。


「……くだらない」


 ルシアンは低く呟き、書類をめくった。


 自分でも、何がくだらないのか分かっていなかった。シオンの距離感か。セレネの呼び方か。それとも、それを数日経っても忘れられない自分自身か。


 その時、控えめなノックが響いた。


「入れ」


 扉が開き、侍女が一礼する。その顔には、いつもよりわずかな戸惑いがあった。


「ルシアン殿下。アステリオス公爵家のシオン公爵令息がお見えです」


 ルシアンの手が止まる。


「……こんなところまで来たのか、あいつ」


 低く漏らした言葉に、侍女は答えなかった。答えに困ったのだろう。だが、その沈黙の向こうから、軽やかな声がした。


「そんな嫌そうな顔しなくてもいいのに」


 扉口に現れたシオンは、数日前と変わらず、まるで初めからこの場へ招かれていたような顔をしていた。赤銅色の髪をゆるく後ろでまとめ、翠の瞳には笑みを浮かべている。その後ろでは従者が2つの箱を抱えていた。どちらも丁寧に包まれているが、片方は明らかに衣装箱の大きさだった。


 嫌な予感がした。


「何の用だ」


「舞踏会の準備」


「お前の準備なら自分の宿舎でしろ」


「俺のじゃないよ」


 シオンは悪びれずに笑った。


「セレネへの贈り物」


 その名を当然のように口にされ、ルシアンの眉間に皺が寄る。


 ちょうどその時、奥の扉が静かに開いた。


 セレネが姿を見せる。淡い海色の室内着に、長い黒髪。夏の光を受けた肌は白く、海色の瞳はいつものように静かだった。彼女はシオンを見て、ほんのわずかに瞬きをした。


「シオン」


 また、その呼び方だ。


 ルシアンは書類の端を指先で押さえた。紙が微かに歪む。


 シオンはそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、翠の瞳を細めて笑った。


「舞踏会用に、似合いそうなものを持ってきたんだ」


「舞踏会用、ですか」


 セレネの声は落ち着いていた。だがルシアンは、そこで引き返す選択肢をシオンが持っていないことを理解した。


 従者が最初の箱をテーブルへ置く。深い翠色の布で包まれた箱だった。赤銅色の細い紐が結ばれている。まるで箱そのものが、シオンの髪と瞳の色を写したようだった。


 セレネが紐を解く。


 蓋が開いた瞬間、室内の光が柔らかく揺れた。


 中に収められていたのは、翠の薄絹のドレスだった。深い森の色にも、夜の水面にも見える。光を受けるたび青緑へ変わり、幾重にも重なった布は、指先で触れれば向こう側の光を淡く透かした。完全に見せるわけではない。だが、隠しきるための布でもない。肩から背へ流れる薄布は、着る者の白い肌の輪郭を曖昧に浮かび上がらせるような仕立てだった。


 赤銅色の刺繍が細く走っている。腰には同じ色の飾り紐。小さな赤い宝石が、夏の光を受けて熱を帯びたように光った。


 そして背中は、大きく開いている。


 ルシアンは一瞬、言葉を失った。


「……背中が、随分開いていますね」


 セレネが静かに言った。


 いつもの平坦な声だった。だが、ほんの一拍だけ遅れていた。視線を向けると、彼女の白い耳がわずかに赤くなっている。


 それを見た瞬間、胸の奥がざらついた。


 シオンは楽しげに肩をすくめる。


「レヴァンティスでは、夏の夜会なら珍しくないよ。風が通るし、灯りの下で綺麗に見える」


「珍しくないかどうかは知らないが」


 ルシアンは低く言った。


「人の婚約者に贈るものとしては、随分踏み込みすぎだな」


「婚約者だからこそ、綺麗なものを贈りたくなるんじゃない?」


「お前が贈る理由にはならない」


 シオンは笑っている。


 その笑みが、ますます気に入らなかった。


 セレネはドレスの端に触れ、布の薄さを確かめるように指先を止めた。


「採寸していないはずですが、かなり正確に見えます」


「目がいいんだ、俺」


「目だけで分かるものではありません」


「女性に似合うものを選ぶのは得意でね」


 軽い言葉だった。


 だがルシアンには、それが単なる社交辞令に聞こえなかった。シオンは分かっている。セレネに何が似合うか。どんな色が黒髪に映え、どんな布が白い肌を引き立てるか。そういうことを、迷いなく選んでいる。


 しかもその色は、翠と赤銅。シオン自身の色だった。セレネに自分の色をまとわせようとしている。


 その考えが浮かんだ瞬間、胸の内側で何かが鈍く軋んだ。


「もう1つも開けてみて」


 シオンが言った。


 ルシアンは、そこで止めるべきだったのかもしれない。


 だがセレネは静かに次の箱へ視線を落とした。従者が2つ目の箱を置く。先ほどより小さい。けれど、その包みは奇妙に丁寧だった。濃い青の布に、銀糸の紐。


 蓋が開く。


 中にあったものを見た瞬間、ルシアンの思考が止まった。


 薄い。


 まず浮かんだのは、それだった。


 紺碧の布は光を透かし、銀鎖と青い宝石で辛うじて形を留めている。布地は上下に分かれ、肌を覆うというより、必要な部分へ飾りのように添えられるだけに見えた。


 人前で着る服には到底見えなかった。


 むしろ、結婚した後の夜、夫だけに見せるための夜着に近い。


「……水着?」


 セレネの声が、静かに落ちた。


 その瞬間、シオンの翠の瞳が細まった。


「やっぱり知ってるんだ、その言葉」


 ルシアンは眉を寄せる。


 意味が分からない。


 だが、その短いやり取りだけで、2人の間に自分の知らない空気が流れたことだけは分かった。


 セレネはすぐに視線を伏せる。


「……水辺で着る衣装、という意味です」


 言い直した声は落ち着いていた。


 けれど、耳が赤い。


 白い耳が、先ほどよりはっきりと赤く染まっている。布地を見つめる指先も、一瞬だけ止まっていた。


 ルシアンの中で、何かが切れた。


 彼女も分かっている。これがどう見えるものなのか。その上で、少し動揺している。


 それが、どうしようもなく腹立たしかった。


 誰に対して腹が立つのか、考えるより早く、熱が頭まで駆け上がる。薄い紺碧の布。銀鎖。宝石。月明かり。黒髪。白い肌。赤く染まった耳。海色の瞳。その衣装を身に着けたセレネの姿が、脳裏へ勝手に浮かんだ。


「っ、お前――」


 次の瞬間には、ルシアンはシオンの胸倉を掴んでいた。


 椅子が床を引っ掻き、鈍い音を立てる。侍女が小さく息を呑み、従者が一歩動きかける。だがシオンは逃げなかった。掴まれたまま、むしろ楽しそうにルシアンを見上げている。


「何を考えてる」


 ルシアンの声は低かった。


「こんなものを、誰に贈ってるつもりだ」


「セレネに」


「ふざけるな」


「ふざけてないよ。レヴァンティスでは普通だって」


「ここはアルヴェリアだ」


 掴んだ手に力が入る。


 シオンの笑みは崩れない。


「そんなに怒る?」


「当然だろうが」


「絶対似合うと思ったんだよ」


 その言葉が、さらに最悪だった。


 似合う。


 ルシアン自身も、そう思ってしまっていたから。


 顔が熱い。耳まで熱い。怒りのせいだと思いたかった。だが違う。そんな単純なものではない。想像してしまった。しかも、その姿を他人に見せたくないと、強く思ってしまった。


 感情に引かれるように、視界の奥が金色を帯びる。


 シオンはそれを見て、なお笑った。


「ルシアンも、見たいでしょ?」


 一瞬、言葉が詰まった。否定すべきだった。即座に、くだらないと吐き捨てるべきだった。


 だが喉が動かなかった。図星だったからだ。


 見たい。そう思ってしまった自分がいる。


 けれど、それ以上に、誰にも見せたくないと思っている自分がいる。


「……黙れ」


 絞り出した声は掠れていた。


 その横で、セレネが静かに近づいた。


「殿下」


 涼やかな声だった。


 だが完全にいつも通りではない。耳の赤みはまだ引いていなかった。それがまた、ルシアンの理性を妙に乱す。


「顔と耳が赤いです」


 室内が一拍、静まり返った。


 シオンが笑いを堪える気配がする。


 ルシアンは胸倉を掴んだまま、セレネを見た。彼女はいつものように真顔だった。だが海色の瞳の奥に、ほんのわずかな戸惑いが残っている。その小さな揺らぎを見た瞬間、ルシアンは自分の手に込めた力をようやく自覚した。


 これは怒りだ。無礼への怒り。婚約者へ不適切な衣装を贈られたことへの怒り。


 そう言い聞かせる。


 だが、その説明だけでは足りないことも、もう分かっていた。


 セレネがシオンを名前で呼ぶこと。


 シオンが、セレネへ自分の色をまとわせようとしたこと。


 水着という聞き慣れない言葉を、2人だけが知っていたこと。


 そして、セレネがほんの少しだけ赤くなったこと。


 そのどれもが、胸の奥を焼くように苛立たせていた。


 ルシアンはゆっくりと手を離した。


 乱れた襟を、シオンは笑いながら整える。


「怖いなあ」


「次に同じことをしたら、本当に殴る」


「今のは殴ってない扱いなんだ」


「黙れ」


 シオンは肩をすくめた。


 セレネは箱の中の衣装へ視線を落とし、静かに言った。


「これは、正式な贈答品として扱うには問題があります」


「え、返される?」


「少なくとも、王城内で不用意に広げるものではありません」


 淡々とした声だった。だが耳はまだ、ほんのり赤い。


 ルシアンはそれを見ないようにして、失敗した。結局、見てしまう。そのたびに、胸の奥が落ち着かない。


 シオンはそんなルシアンを一瞥し、楽しげに目を細めた。


「じゃあ、保留で」


「勝手に決めるな」


 ルシアンは低く言う。


 だがシオンは悪びれない。


「舞踏会までには決めてよ。セレネ」


 また名前だ。


 ルシアンの指が、無意識に拳を作る。


 セレネは少しだけ沈黙し、それから静かに答えた。


「検討します」


「着るな」


 ルシアンは反射的に言っていた。自分でも驚くほど即座だった。セレネとシオンがこちらを見る。


 室内の空気が、妙な形で止まった。


 ルシアンは一瞬だけ言葉を失い、それから強引に続けた。


「……王族主催の舞踏会に、そのような意図の読めない衣装で出る必要はない」


 理由を付けた。付けられたはずだった。だが、シオンは明らかに面白がっていた。


「ふうん」


 その声が癇に障る。ルシアンは苛立ちを隠さず睨む。


「何だ」


「いや。何でもないよ」


 シオンは笑った。


「じゃあ、また」


 去り際まで軽い。


 従者を連れて部屋を出ていく背中を見送りながら、ルシアンはしばらく動けなかった。残された2つの箱からは、翠と紺碧の布がわずかに覗いている。どちらもシオンが持ち込んだものだ。彼の色。彼の文化。彼の距離。ルシアンの知らない言葉。


 そして、ルシアンの知らないセレネを暴こうとするもの。


 セレネが静かに箱の蓋を閉じる。


 その指先はもう落ち着いていた。だが、先ほど耳が赤くなった事実だけは消えない。


 ルシアンは視線を逸らし、低く吐き捨てた。


「……気に入らない」


 何が、とセレネは聞かなかった。


 だから余計に、答えが胸の内側で形を持ち始める。


 シオンが気に入らない。


 あの衣装が気に入らない。


 セレネが名前で呼ぶことが気に入らない。


 彼女が、ほんの少しでもあいつの言葉で揺れたことが、どうしようもなく気に入らない。


 守りたいだけではない。危険から遠ざけたいだけでもない。


 もっと利己的で、もっと醜くて、もっと強い感情だった。


 見せたくない。


 触れさせたくない。


 自分以外の男の色をまとってほしくない。


 自分以外の男の言葉で、頬や耳を赤くしてほしくない。


 そこまで考えた瞬間、ルシアンは息を止めた。胸の奥で、熱が静かに形を変える。これは怒りではない。

いや、怒りだけではない。


 人がこれを何と呼ぶのか、彼はもう知っていた。


 誰かを独り占めしたいと願う、愚かで、面倒で、抗いがたい感情。


「……ああ」


 小さく、ほとんど声にならない音が漏れた。


 これが、恋か。


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