祝宴の影
祝宴会場へ向かう回廊には、婚礼を終えたばかりの熱がまだ残っていた。
白い花の香り、磨き上げられた石床に反射する夏の光、遠くから控えめに流れてくる楽の音。礼拝堂の厳かな空気から解かれた参列者たちは、祝宴の広間へ向かいながら、それぞれに言葉を交わしている。笑みは柔らかく、声は明るい。けれど、その下で家格と席次と視線の動きが読み合われていることを、ルシアンはよく知っていた。
セレネの手は、まだルシアンの腕に添えられている。
ただ、それだけのことだ。
婚約者を祝宴会場までエスコートする。王族としても、社交上も、不自然なところは何もない。むしろ当然の振る舞いである。そう理解しているのに、手袋越しに伝わる軽い重みが、先ほどから妙に意識の端に残っていた。
シオンが差し出した腕を、セレネは取らなかった。
それだけの事実を、何度も確かめる必要などないはずだった。
「ルシアン、顔が怖いよ」
隣ではなく、少し後ろから声がした。
振り返るまでもない。シオンは当然のように人の流れへ紛れ込み、ルシアンとセレネのすぐ近くを歩いている。押しのけるわけでも、割り込むわけでもない。それなのに、気づけば会話に入れる距離にいた。
昔から、そういう男だった。
「お前が近い」
「昔からだろ」
「昔から近すぎた」
「懐かしいね。君はよくそうやって怒ってた」
「怒らせてたのはお前だ」
シオンは声を立てずに笑った。赤銅色の髪が肩先で揺れ、翠の瞳が楽しげに細められる。その笑みは貴族の青年として十分に整っているのに、どこか作り物めいて見えない。相手に、警戒している自分の方が無粋なのだと思わせる笑い方だった。
厄介な男だと、ルシアンは思った。
軽薄に見える。だが、軽薄なだけではない。祝宴へ向かう短い回廊の中だけでも、シオンは何人もの貴族に声を掛けられ、あるいは自分からごく自然に言葉を返していた。隣国使節にはレヴァンティス式の柔らかい仕草で応じ、中央貴族には王都の言葉で冗談を挟み、年配の夫人には失礼にならない程度に甘い笑みを向ける。
誰の懐にも入る。
それを無意識にしているのか、武器として使っているのか、ルシアンにはまだ判断がつかなかった。
祝宴の広間へ入ると、夏の光はさらに濃くなった。
高い窓は大きく開かれ、薄い白布が風を受けて揺れている。長卓には季節の果実と冷やした飲み物、香草を添えた料理が並び、銀器の縁が光を返していた。広間の奥には楽師たちが控え、穏やかな旋律を奏でている。中央には、花嫁と花婿へ祝福を述べるための空間が空けられ、フェリクスとミレイユはそこに立って来賓を迎えていた。
フェリクスは相変わらず穏やかに笑っているが、時折ミレイユへ視線を向ける。ミレイユは少し緊張した様子で眼鏡の位置を直しながらも、祝辞には丁寧に応じていた。研究室で薬草の瓶を抱えている時よりもずっと花嫁らしく、けれど彼女らしさは失っていない。
セレネが、ほんの少しだけその姿を目で追った。
その横顔に、ルシアンはまた視線を引かれかける。
だが、その前にシオンが口を開いた。
「ミレイユ嬢、綺麗だね。フェリクス殿下も、今日は本当に幸せそうだ」
「兄上は、普段からああいう顔をする時がある」
「そうなの?」
「研究がうまくいった時とかな」
ルシアンが答えると、シオンはおかしそうに笑った。
「花嫁と研究成果を同じ棚に並べるの、君らしいよ」
「並べてない」
「でも、フェリクス殿下なら怒らなそうだ」
「否定はしない」
セレネが静かに言った。
「ミレイユ様も、否定なさらないと思います」
その言い方が妙に自然で、シオンが一瞬だけセレネを見た。
「君、あの2人と仲がいいんだね」
「調査でご一緒することがありましたので」
「へえ」
シオンの声は軽かった。けれど、その短い相槌には、ただの興味とは違うものが混じっていた。7年の空白を、目の前の会話から1つずつ拾い集めているような響きだった。
シオンがレヴァンティスへ渡ったのは、13歳の頃だ。
その後、ルシアンとセレネが学院へ進み、共に事件へ関わり、婚約者として王城に出入りし、今では特務隊の調査にまで肩を並べるようになったことを、シオンは直接見ていない。
見ていなかったくせに、今さら当然のように距離を戻そうとしている。
そう思った瞬間、ルシアンは自分の胸の内にあるものが、単なる礼儀への不満だけではないことに気づきかけ、すぐに考えるのをやめた。
ルシアンは、シオンが周囲の貴族たちへ笑みを返す様子を横目に見ながら、ふと先ほどの言葉を思い出した。
「さっき言っていた、面倒なものというのは何だ」
シオンの笑みが、ほんのわずかに薄くなる。
「ここで聞く?」
「答えにくいなら、そう言え」
「相変わらず逃げ道を塞ぐね」
シオンは軽く肩を竦めた。
「レヴァンティスのことだよ。向こうも、少し騒がしくてね」
「王太女殿下の周辺か」
その言葉に、シオンの翠の瞳が一瞬だけ細くなった。
「……耳がいいな」
「お前が戻ってから3か月も姿を見せなかった理由としては、それくらいしか思いつかない」
「怖いね。昔からそうだったけど」
「茶化すな」
祝宴の明るい音の中で、2人の間だけ空気がわずかに低く沈んだ。王太女。その周辺。シオンが3か月もの間、帰国の挨拶すら後回しにした理由と、無関係とは思えない。
「何があった」
「ここでする話じゃないよ」
シオンは笑った。
だが、その笑みは先ほどまでより薄い。表情は整っているのに、翠の瞳の奥だけがわずかに笑っていなかった。
「今日は結婚式だ。血生臭い話は、花嫁に失礼だろ」
血生臭い。
その言葉を選んだことに、ルシアンは引っかかった。
セレネも、わずかに視線を上げる。
「……血生臭い話なのですか」
「たとえ話だよ」
シオンはすぐに軽さを戻した。
「セレネは昔から、言葉尻を拾うのがうまいね」
「言葉は、選んで口にするものです」
「耳が痛いな」
「痛むなら、心当たりがあるのでしょう」
淡々とした返しに、シオンは楽しげに笑った。
「本当に変わらない。昔もそうだったよね。俺が遊びのルールを作ると、君はすぐ穴を見つけた」
「穴のあるルールを作る方が悪いのでは」
「ルシアンは、そのたびに怒ってた」
「お前が勝手にルールを変えるからだ」
思わず口を挟むと、シオンの笑みが深くなる。
「ほら、覚えてる」
「忘れるほど昔でもない」
言ってから、ルシアンは少しだけ黙った。
いや、十分に昔だ。
7年という時間は短くない。背丈も、声も、立場も変わった。幼い頃に庭で遊んでいた3人のうち、シオンは隣国の空気をまとって戻り、セレネはルシアンの婚約者として隣に立っている。
そしてルシアン自身も、あの頃とは違う。
何がどう違うのかを、シオンの前で認めるつもりはなかった。
「覚えていらっしゃるのですね」
セレネが静かに言った。
ルシアンは彼女を見る。
「お前もだろ」
「はい」
短い返事だった。
それだけなのに、胸の奥に妙な感覚が残った。セレネが、幼い頃のことを覚えている。シオンが勝手に決めた遊びも、それに怒ったルシアンも、淡々と穴を指摘していた自分自身も。彼女の中に、その記憶がちゃんと残っている。
それが嬉しいのか、落ち着かないのか、ルシアンには分からなかった。
「セレネは記憶力がいいからね」
シオンが言う。
「昔からそうだ。俺が忘れたふりをしても、君だけは忘れてくれなかった」
「忘れたふりをなさっていたのですか」
「半分くらいは」
「残り半分は」
「本当に忘れてた」
「でしょうね」
セレネの声は静かだったが、わずかに間が柔らかい。
ルシアンは、そのやり取りを聞きながら、また小さな引っかかりを覚えた。
シオン。
セレネはこの男を、そう呼ぶ。
それ自体は昔からの名残だ。幼馴染であれば不自然ではない。だが、自分はいまだに殿下で、シオンはシオンなのかと思ってしまうあたり、どうにも落ち着かなかった。
考えるな。
ルシアンは内心で自分に言い聞かせた。
呼び方1つに引っかかるなど、馬鹿げている。
「ルシアン」
不意に、フェリクスの声がした。
振り向くと、祝辞の列が少し途切れたのか、フェリクスがこちらへ歩いてくるところだった。隣にはミレイユがいる。彼女は花嫁衣装のまま、少しだけ疲れたように見えるが、表情は柔らかい。
「シオン、戻ってきたんだね」
「ご無沙汰しております、フェリクス殿下。ご結婚、おめでとうございます」
シオンは鮮やかに礼を取った。
軽い男だと思わせながら、こういうところは崩さない。祝いの言葉も、仕草も、相手を立てる角度もよく分かっている。
「ありがとう。相変わらず、嵐みたいに現れるね」
「褒め言葉として受け取っても?」
「半分くらいは」
フェリクスは笑い、ミレイユが小さく会釈した。
「お久しぶりです、シオン様」
「ミレイユ嬢……いえ、ミレイユ妃殿下ですね。本当にお綺麗です」
「ありがとうございます」
ミレイユは少し照れたように眼鏡の位置を直した。フェリクスがそれを見て、目元を緩める。
その穏やかな様子に、場の空気が少し和らいだ。
「でも、シオン」
フェリクスは声を少しだけ低くした。
「レヴァンティスからの報告、あとで聞かせてもらえるかな」
シオンの笑みが、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だ。
だが、ルシアンは見た。
「もちろんです」
次には、いつもの柔らかな笑みに戻っている。
「今日の主役を長く拘束するわけにはいきませんから、後ほど」
「うん。頼むよ」
フェリクスはそれ以上踏み込まなかった。だが、ルシアンは確信した。フェリクスも何かを知っている。あるいは、少なくとも何かが起きていることを察している。
祝いの席に、薄い影が差したようだった。
それでも楽の音は止まらない。貴族たちは笑い、杯を掲げ、花嫁と花婿へ祝福を述べる。人々は華やかなものを見ている時ほど、その端に落ちた影に気づかない。
シオンは、その影を足元に隠したまま笑っている。
やがてフェリクスとミレイユが再び来賓の方へ戻ると、シオンは何事もなかったように杯を手にした。淡い金色の酒が、夏の光を受けて揺れる。
「そういえば、王家主催の舞踏会が近いんだよね」
ルシアンは視線を向ける。
「招待状は出ているはずだ」
「もちろん。レヴァンティスの使節も招かれているから、俺も出るよ」
シオンはそこで、当然のようにセレネを見た。
「なら、また会えるね、セレネ」
「公の場であれば」
セレネは静かに返した。
線を引く声だった。感情は荒立てない。ただ、必要な距離を置く。
シオンはそれを聞いて、むしろ楽しそうに笑う。
「相変わらず線引きが上手いな」
「必要なことです」
「でも、その線を見つけると、越えてみたくなる」
「越えないでください」
「努力するよ」
「努力ではなく、遵守してください」
そのやり取りに、ルシアンはわずかに眉を寄せた。セレネは淡々としている。だが、シオンはその淡々とした返しすら楽しんでいるように見えた。
そしてそれが、妙に気に入らない。
シオンは杯を置き、ほんの少しだけ身を傾けた。広間のざわめきの中で、その距離の詰め方だけが、妙に滑らかだった。
「じゃあ、舞踏会で」
翠の瞳が細められる。
「その時は、1曲くらい俺にくれる?」
セレネが瞬きをした。
即答はしなかった。断るでも、受けるでもない。その短い沈黙だけで、ルシアンの中に何かが跳ねた。
「勝手に予約するな」
気づけば、口を挟んでいた。
シオンがこちらを見る。
「予約じゃないよ。お願い」
「同じだ」
「厳しいな」
「お前が勝手すぎるだけだ」
シオンは笑った。
その笑みはやはり軽い。けれど、さっきフェリクスにレヴァンティスの報告を求められた時の影が、完全に消えたわけではなかった。
「じゃあ、改めてお願いするよ」
シオンはセレネへ視線を戻した。
「7年分の話も、その時に少しずつ」
セレネは静かに彼を見る。
「話す内容によります」
「うん。君ならそう言うと思った」
楽の音が少し高くなる。祝宴の広間では、誰かが笑い、杯の触れ合う澄んだ音が響いた。開け放たれた窓の向こうで、夏の風が白布を揺らしている。光は明るく、花は美しく、誰もが祝福の中にいるように見えた。
ルシアンは、セレネの隣に立ったまま、シオンを見ていた。
軽く、明るく、誰の懐にも入り込む男。
その背後に、まだ見えない何かを抱えた男。
そして、セレネを名前で呼ぶ男。
そのどれが一番気に入らないのか、ルシアンにはまだ分からなかった。




