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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第3章 選ばれなかった物語

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祝宴の影

 祝宴会場へ向かう回廊には、婚礼を終えたばかりの熱がまだ残っていた。


 白い花の香り、磨き上げられた石床に反射する夏の光、遠くから控えめに流れてくる楽の音。礼拝堂の厳かな空気から解かれた参列者たちは、祝宴の広間へ向かいながら、それぞれに言葉を交わしている。笑みは柔らかく、声は明るい。けれど、その下で家格と席次と視線の動きが読み合われていることを、ルシアンはよく知っていた。


 セレネの手は、まだルシアンの腕に添えられている。


 ただ、それだけのことだ。


 婚約者を祝宴会場までエスコートする。王族としても、社交上も、不自然なところは何もない。むしろ当然の振る舞いである。そう理解しているのに、手袋越しに伝わる軽い重みが、先ほどから妙に意識の端に残っていた。


 シオンが差し出した腕を、セレネは取らなかった。


 それだけの事実を、何度も確かめる必要などないはずだった。


「ルシアン、顔が怖いよ」


 隣ではなく、少し後ろから声がした。


 振り返るまでもない。シオンは当然のように人の流れへ紛れ込み、ルシアンとセレネのすぐ近くを歩いている。押しのけるわけでも、割り込むわけでもない。それなのに、気づけば会話に入れる距離にいた。


 昔から、そういう男だった。


「お前が近い」


「昔からだろ」


「昔から近すぎた」


「懐かしいね。君はよくそうやって怒ってた」


「怒らせてたのはお前だ」


 シオンは声を立てずに笑った。赤銅色の髪が肩先で揺れ、翠の瞳が楽しげに細められる。その笑みは貴族の青年として十分に整っているのに、どこか作り物めいて見えない。相手に、警戒している自分の方が無粋なのだと思わせる笑い方だった。


 厄介な男だと、ルシアンは思った。


 軽薄に見える。だが、軽薄なだけではない。祝宴へ向かう短い回廊の中だけでも、シオンは何人もの貴族に声を掛けられ、あるいは自分からごく自然に言葉を返していた。隣国使節にはレヴァンティス式の柔らかい仕草で応じ、中央貴族には王都の言葉で冗談を挟み、年配の夫人には失礼にならない程度に甘い笑みを向ける。


 誰の懐にも入る。


 それを無意識にしているのか、武器として使っているのか、ルシアンにはまだ判断がつかなかった。


 祝宴の広間へ入ると、夏の光はさらに濃くなった。


 高い窓は大きく開かれ、薄い白布が風を受けて揺れている。長卓には季節の果実と冷やした飲み物、香草を添えた料理が並び、銀器の縁が光を返していた。広間の奥には楽師たちが控え、穏やかな旋律を奏でている。中央には、花嫁と花婿へ祝福を述べるための空間が空けられ、フェリクスとミレイユはそこに立って来賓を迎えていた。


 フェリクスは相変わらず穏やかに笑っているが、時折ミレイユへ視線を向ける。ミレイユは少し緊張した様子で眼鏡の位置を直しながらも、祝辞には丁寧に応じていた。研究室で薬草の瓶を抱えている時よりもずっと花嫁らしく、けれど彼女らしさは失っていない。


 セレネが、ほんの少しだけその姿を目で追った。


 その横顔に、ルシアンはまた視線を引かれかける。


 だが、その前にシオンが口を開いた。


「ミレイユ嬢、綺麗だね。フェリクス殿下も、今日は本当に幸せそうだ」


「兄上は、普段からああいう顔をする時がある」


「そうなの?」


「研究がうまくいった時とかな」


 ルシアンが答えると、シオンはおかしそうに笑った。


「花嫁と研究成果を同じ棚に並べるの、君らしいよ」


「並べてない」


「でも、フェリクス殿下なら怒らなそうだ」


「否定はしない」


 セレネが静かに言った。


「ミレイユ様も、否定なさらないと思います」


 その言い方が妙に自然で、シオンが一瞬だけセレネを見た。


「君、あの2人と仲がいいんだね」


「調査でご一緒することがありましたので」


「へえ」


 シオンの声は軽かった。けれど、その短い相槌には、ただの興味とは違うものが混じっていた。7年の空白を、目の前の会話から1つずつ拾い集めているような響きだった。


 シオンがレヴァンティスへ渡ったのは、13歳の頃だ。


 その後、ルシアンとセレネが学院へ進み、共に事件へ関わり、婚約者として王城に出入りし、今では特務隊の調査にまで肩を並べるようになったことを、シオンは直接見ていない。


 見ていなかったくせに、今さら当然のように距離を戻そうとしている。


 そう思った瞬間、ルシアンは自分の胸の内にあるものが、単なる礼儀への不満だけではないことに気づきかけ、すぐに考えるのをやめた。


 ルシアンは、シオンが周囲の貴族たちへ笑みを返す様子を横目に見ながら、ふと先ほどの言葉を思い出した。


「さっき言っていた、面倒なものというのは何だ」


 シオンの笑みが、ほんのわずかに薄くなる。


「ここで聞く?」


「答えにくいなら、そう言え」


「相変わらず逃げ道を塞ぐね」


 シオンは軽く肩を竦めた。


「レヴァンティスのことだよ。向こうも、少し騒がしくてね」


「王太女殿下の周辺か」


 その言葉に、シオンの翠の瞳が一瞬だけ細くなった。


「……耳がいいな」


「お前が戻ってから3か月も姿を見せなかった理由としては、それくらいしか思いつかない」


「怖いね。昔からそうだったけど」


「茶化すな」


 祝宴の明るい音の中で、2人の間だけ空気がわずかに低く沈んだ。王太女。その周辺。シオンが3か月もの間、帰国の挨拶すら後回しにした理由と、無関係とは思えない。


「何があった」


「ここでする話じゃないよ」


 シオンは笑った。


 だが、その笑みは先ほどまでより薄い。表情は整っているのに、翠の瞳の奥だけがわずかに笑っていなかった。


「今日は結婚式だ。血生臭い話は、花嫁に失礼だろ」


 血生臭い。


 その言葉を選んだことに、ルシアンは引っかかった。


 セレネも、わずかに視線を上げる。


「……血生臭い話なのですか」


「たとえ話だよ」


 シオンはすぐに軽さを戻した。


「セレネは昔から、言葉尻を拾うのがうまいね」


「言葉は、選んで口にするものです」


「耳が痛いな」


「痛むなら、心当たりがあるのでしょう」


 淡々とした返しに、シオンは楽しげに笑った。


「本当に変わらない。昔もそうだったよね。俺が遊びのルールを作ると、君はすぐ穴を見つけた」


「穴のあるルールを作る方が悪いのでは」


「ルシアンは、そのたびに怒ってた」


「お前が勝手にルールを変えるからだ」


 思わず口を挟むと、シオンの笑みが深くなる。


「ほら、覚えてる」


「忘れるほど昔でもない」


 言ってから、ルシアンは少しだけ黙った。


 いや、十分に昔だ。


 7年という時間は短くない。背丈も、声も、立場も変わった。幼い頃に庭で遊んでいた3人のうち、シオンは隣国の空気をまとって戻り、セレネはルシアンの婚約者として隣に立っている。


 そしてルシアン自身も、あの頃とは違う。


 何がどう違うのかを、シオンの前で認めるつもりはなかった。


「覚えていらっしゃるのですね」


 セレネが静かに言った。


 ルシアンは彼女を見る。


「お前もだろ」


「はい」


 短い返事だった。


 それだけなのに、胸の奥に妙な感覚が残った。セレネが、幼い頃のことを覚えている。シオンが勝手に決めた遊びも、それに怒ったルシアンも、淡々と穴を指摘していた自分自身も。彼女の中に、その記憶がちゃんと残っている。


 それが嬉しいのか、落ち着かないのか、ルシアンには分からなかった。


「セレネは記憶力がいいからね」


 シオンが言う。


「昔からそうだ。俺が忘れたふりをしても、君だけは忘れてくれなかった」


「忘れたふりをなさっていたのですか」


「半分くらいは」


「残り半分は」


「本当に忘れてた」


「でしょうね」


 セレネの声は静かだったが、わずかに間が柔らかい。


 ルシアンは、そのやり取りを聞きながら、また小さな引っかかりを覚えた。


 シオン。


 セレネはこの男を、そう呼ぶ。


 それ自体は昔からの名残だ。幼馴染であれば不自然ではない。だが、自分はいまだに殿下で、シオンはシオンなのかと思ってしまうあたり、どうにも落ち着かなかった。


 考えるな。


 ルシアンは内心で自分に言い聞かせた。


 呼び方1つに引っかかるなど、馬鹿げている。


「ルシアン」


 不意に、フェリクスの声がした。


 振り向くと、祝辞の列が少し途切れたのか、フェリクスがこちらへ歩いてくるところだった。隣にはミレイユがいる。彼女は花嫁衣装のまま、少しだけ疲れたように見えるが、表情は柔らかい。


「シオン、戻ってきたんだね」


「ご無沙汰しております、フェリクス殿下。ご結婚、おめでとうございます」


 シオンは鮮やかに礼を取った。


 軽い男だと思わせながら、こういうところは崩さない。祝いの言葉も、仕草も、相手を立てる角度もよく分かっている。


「ありがとう。相変わらず、嵐みたいに現れるね」


「褒め言葉として受け取っても?」


「半分くらいは」


 フェリクスは笑い、ミレイユが小さく会釈した。


「お久しぶりです、シオン様」


「ミレイユ嬢……いえ、ミレイユ妃殿下ですね。本当にお綺麗です」


「ありがとうございます」


 ミレイユは少し照れたように眼鏡の位置を直した。フェリクスがそれを見て、目元を緩める。


 その穏やかな様子に、場の空気が少し和らいだ。


「でも、シオン」


 フェリクスは声を少しだけ低くした。


「レヴァンティスからの報告、あとで聞かせてもらえるかな」


 シオンの笑みが、一瞬だけ止まった。


 ほんの一瞬だ。


 だが、ルシアンは見た。


「もちろんです」


 次には、いつもの柔らかな笑みに戻っている。


「今日の主役を長く拘束するわけにはいきませんから、後ほど」


「うん。頼むよ」


 フェリクスはそれ以上踏み込まなかった。だが、ルシアンは確信した。フェリクスも何かを知っている。あるいは、少なくとも何かが起きていることを察している。


 祝いの席に、薄い影が差したようだった。


 それでも楽の音は止まらない。貴族たちは笑い、杯を掲げ、花嫁と花婿へ祝福を述べる。人々は華やかなものを見ている時ほど、その端に落ちた影に気づかない。


 シオンは、その影を足元に隠したまま笑っている。


 やがてフェリクスとミレイユが再び来賓の方へ戻ると、シオンは何事もなかったように杯を手にした。淡い金色の酒が、夏の光を受けて揺れる。


「そういえば、王家主催の舞踏会が近いんだよね」


 ルシアンは視線を向ける。


「招待状は出ているはずだ」


「もちろん。レヴァンティスの使節も招かれているから、俺も出るよ」


 シオンはそこで、当然のようにセレネを見た。


「なら、また会えるね、セレネ」


「公の場であれば」


 セレネは静かに返した。


 線を引く声だった。感情は荒立てない。ただ、必要な距離を置く。


 シオンはそれを聞いて、むしろ楽しそうに笑う。


「相変わらず線引きが上手いな」


「必要なことです」


「でも、その線を見つけると、越えてみたくなる」


「越えないでください」


「努力するよ」


「努力ではなく、遵守してください」


 そのやり取りに、ルシアンはわずかに眉を寄せた。セレネは淡々としている。だが、シオンはその淡々とした返しすら楽しんでいるように見えた。


 そしてそれが、妙に気に入らない。


 シオンは杯を置き、ほんの少しだけ身を傾けた。広間のざわめきの中で、その距離の詰め方だけが、妙に滑らかだった。


「じゃあ、舞踏会で」


 翠の瞳が細められる。


「その時は、1曲くらい俺にくれる?」


 セレネが瞬きをした。


 即答はしなかった。断るでも、受けるでもない。その短い沈黙だけで、ルシアンの中に何かが跳ねた。


「勝手に予約するな」


 気づけば、口を挟んでいた。


 シオンがこちらを見る。


「予約じゃないよ。お願い」


「同じだ」


「厳しいな」


「お前が勝手すぎるだけだ」


 シオンは笑った。


 その笑みはやはり軽い。けれど、さっきフェリクスにレヴァンティスの報告を求められた時の影が、完全に消えたわけではなかった。


「じゃあ、改めてお願いするよ」


 シオンはセレネへ視線を戻した。


「7年分の話も、その時に少しずつ」


 セレネは静かに彼を見る。


「話す内容によります」


「うん。君ならそう言うと思った」


 楽の音が少し高くなる。祝宴の広間では、誰かが笑い、杯の触れ合う澄んだ音が響いた。開け放たれた窓の向こうで、夏の風が白布を揺らしている。光は明るく、花は美しく、誰もが祝福の中にいるように見えた。


 ルシアンは、セレネの隣に立ったまま、シオンを見ていた。


 軽く、明るく、誰の懐にも入り込む男。


 その背後に、まだ見えない何かを抱えた男。


 そして、セレネを名前で呼ぶ男。


 そのどれが一番気に入らないのか、ルシアンにはまだ分からなかった。

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