距離を知らない男
七年ぶりに目の前へ現れたその姿は、もう少年ではなかった。
赤銅色の髪は、幼い頃より少し長く伸び、後ろでゆるくまとめられている。夏の光を受けるたび、赤みを帯びた髪筋が火のように細く光った。翠の瞳は楽しげに細められ、礼拝堂の外へ続く回廊のざわめきの中でも、その男だけは、誰の視線も遠慮も気にしていないように見えた。
昔からそうだった。
誰かが作った間合いへ、当然のように入ってくる。貴族の子どもたちが、家格や立場を覚え始める頃になっても、シオンだけは笑いながらその境目を踏み越えた。注意されれば謝る。けれど、次にはまた同じように入り込む。悪びれていないのではなく、そもそも距離というものを別の形で測っているような男だった。
「やっと会えたね、セレネ」
声は昔より低くなっていた。けれど、柔らかく親しげで、相手との距離を初めから測る気がないような響きは、あの頃とよく似ている。
セレネは静かに瞬きをした。
驚きも、喜びも、大きく表には出さない。ただ、彼女の指先がほんのわずかに止まったことを、ルシアンは見ていた。遠い記憶へ触れたような、ごく小さな反応だった。
「お久しぶりです、シオン」
その呼び方に、ルシアンは微かに眉を動かした。
シオン。
自然な響きだった。
幼馴染なのだからおかしくはない。分かっている。シオンは昔から、セレネを名前で呼んでいた。セレネもそれを咎めなかった。そういう距離の三人だったはずだ。
それなのに、なぜそこが引っかかるのか、ルシアン自身にも分からなかった。
シオンは楽しげに目を細める。
「うん。久しぶり。こうして正面から見ると、本当に変わらないね。いや、少し変わったかな」
「どちらでしょうか」
「どちらも。相変わらず綺麗で、前よりずっと人を困らせる顔になった」
セレネは表情を変えなかった。
「褒め言葉として受け取るべきですか」
「もちろん」
軽い。
昔と同じようでいて、どこか違う。少年だった頃の無邪気な馴れ馴れしさに、今のシオンは別のものを混ぜていた。人の視線を受け止めることに慣れた男の余裕。笑えば相手がどう反応するかを知っている男の間合い。そのくせ、こちらの警戒をからかうように、わざと一歩近く立つ。
シオンはセレネの前で足を止めると、流れるような仕草で彼女の手を取った。
ルシアンは一瞬、息を止めた。
動きは自然だった。無作法ではない。むしろ礼儀として整っている。レヴァンティス式の挨拶なのだろう。シオンはセレネの指先を軽く持ち上げ、手の甲へ唇を落とした。
ほんの短い口づけだった。
それでも、ルシアンの胸の奥に何かが引っかかる。
セレネは取り乱さなかった。手を引くこともない。深い海色の瞳を静かに伏せ、挨拶を受ける者として、ごく自然にその場に立っている。だからこそ、ルシアンは何も言えなかった。
隣国の礼だ。
王族の婚礼後の懇親の場で、他国の作法を咎めるほど、ルシアンも愚かではない。まして、シオンはアステリオス公爵家の次男であり、レヴァンティスとの繋がりを持つ者だ。ここで余計な言葉を挟めば、こちらの方が狭量に見える。
分かっている。
分かっているのに、気に入らなかった。
「ルシアンも久しぶり」
シオンは顔を上げ、何事もなかったようにこちらを見た。
「相変わらず怖い顔してるね」
「お前が相変わらず距離を知らないだけだ」
「懐かしいな。その言い方」
シオンは笑った。
ルシアンは返事をしなかった。昔なら、この程度のやり取りで終わっていた。シオンが軽く笑い、セレネがその隣で淡々と突っ込み、ルシアンが結局巻き込まれる。そういう流れがあった。
だが、今は違う。
何が違うのかは、まだうまく言葉にできなかった。
「帰っていたんだろ」
ルシアンは低く問うた。
「三ヶ月前には、もう王都に戻っていたはずだ」
「耳が早いね」
「戻っていたなら、顔くらい出せたはずだ。帰国の挨拶もなしに、何をしていた」
少し強くなった声に、近くの貴族がこちらを見かけて、すぐに視線を逸らした。懇親の場にいる者たちは、誰もが会話をしているふりをしながら、耳だけはこちらへ向けている。王族の婚礼後、王子と公爵家次男、そして王子の婚約者。その組み合わせに無関心でいられる者などいない。
シオンはそれを分かっている顔で、肩をすくめた。
「野暮用だよ」
「野暮用で3か月も幼馴染に顔を見せなかったのか」
「そう言われると、薄情者みたいだね」
「違うのか」
シオンは笑ったままだった。
だが、その一瞬だけ、翠の瞳の奥に別の色がかすめた。疲れか、焦りか、あるいは見られたくないものを隠すための影か。ほんのわずかな変化だったが、ルシアンは見逃さなかった。
「少し、面倒なものを追っていたんだ」
「面倒なもの?」
「今ここで話すには、華やかさに欠ける話」
シオンは軽く首を傾け、視線をセレネへ戻した。
「それに、久しぶりの再会くらい、もう少し綺麗な話から始めたいじゃないか」
「あなたが綺麗な話を選ぶのは意外ですね」
セレネが淡々と返す。
シオンは楽しげに笑った。
「手厳しいな。そういうところも変わらない」
「変える必要がありませんでしたので」
「うん。いいね。そういうところ、本当に君らしい」
シオンの言葉は、どれも軽く聞こえる。だが、誰にでも同じように向けているわけではないことくらいは分かった。セレネへ向ける声だけ、ほんの少し近い。昔からそうだったのか、それとも今になってそう感じるだけなのか、ルシアンには判断がつかなかった。
セレネは大きく揺れない。
しかし、拒絶もしない。
その事実が、ルシアンの胸の奥に小さな棘のように残った。
やがて、祝宴会場へ移る案内が回廊の奥から告げられた。参列者たちがゆるやかに動き始め、礼拝堂の白い光から、広間へ続く通路へと流れていく。フェリクスとミレイユは、王族として祝福を受けながら先へ進んでいた。レオニスもリリアーナも、それぞれの立場で来賓を誘導している。
その流れの中で、シオンが当然のようにセレネへ腕を差し出した。
「祝宴までエスコートさせて、セレネ。七年ぶりの埋め合わせくらいはしたいんだ」
ルシアンの足が、そこで止まった。
手の甲への口づけは、まだ挨拶だった。
だが、これは違う。
王族の婚礼で、婚約者であるルシアンが隣にいる。にもかかわらず、シオンはごく自然に、当然のように、セレネを自分の隣へ連れていこうとしている。
セレネはまだ動いていなかった。
その一拍の間に、ルシアンは自分の声が低くなるのを感じた。
「必要ない」
シオンがこちらを見る。
「祝宴までは、俺がエスコートする」
言ってから、ほんのわずかに胸の奥がざわついた。
婚約者として当然のことを言っただけだ。社交上も、その方が自然だ。だから何もおかしくない。ルシアンはそう自分に言い聞かせた。
シオンは差し出した腕を下ろさないまま、楽しそうに目を細める。
「昔は三人で並んで歩いたのに」
「今は違う」
その言葉は、思っていたよりも早く口をついて出た。
セレネの睫毛がわずかに伏せられる。
ルシアンは彼女へ視線を向けた。
「セレネ」
名を呼んだ瞬間、自分の声がどこか硬いことに気づく。だが、引っ込めるつもりはなかった。
「行くぞ」
ルシアンは自分の腕を差し出した。
セレネは少しだけこちらを見上げた。海色の瞳に、礼拝堂の光とは違う、回廊の柔らかな影が映っている。迷ったようには見えなかった。ただ、その瞳がルシアンを静かに確かめたような気がした。
そして、セレネは何も言わず、ルシアンの腕へ手を添えた。
軽い重みだった。
手袋越しの感触でしかない。けれど、その瞬間、ルシアンの胸の奥にあったざらつきが、ほんの少しだけ形を変えた。
安堵したのだと気づくには、まだ早かった。
認めるには、もっと早い。
ただ、セレネの手が自分の腕にあるという事実だけが、妙に強く意識に残った。
シオンはようやく腕を下ろした。
怒るでも、気まずそうにするでもない。むしろ、面白いものを見つけたようにルシアンを見ている。その笑みは軽い。だが、瞳の奥には、先ほどとは別の鋭さがあった。
「そっか」
シオンは静かに笑った。
「七年の間に、ずいぶん変わったんだね」
その言葉が、祝宴へ向かう人々のざわめきの中で、妙にはっきりとルシアンの耳に残った。




