祝福の鐘が鳴る日
離宮の事件から3ケ月が過ぎ、季節は太陽が高く昇る暑い頃になっていた。
王都アルヴェリアの空は深く澄み、昼近くになると、王城の白い石壁は眩しいほどに光を返す。春先にはまだ冷たさを残していた回廊にも、今は開け放たれた窓から明るい風が入り、庭園の噴水の音と、初夏の花々の匂いを運んでいた。王城に仕える者たちの衣も軽くなり、侍女たちが腕に抱える花籠には、白百合や淡い青の小花が溢れている。
その日、王城は朝から華やいでいた。
第二王子フェリクス・アルヴェリアと、クローディア伯爵令嬢ミレイユの婚礼が執り行われる。
王族の婚礼である以上、祝福だけで済む場ではない。礼拝堂へ続く広い回廊には、早くから五大公爵家の当主や正統な代理、中央貴族、軍務や財務、法務を担う高官たちが姿を見せていた。さらに隣国レヴァンティスをはじめ、王家と縁を持つ国々の王侯族や使節も招かれている。誰もが晴れやかな笑みを浮かべていたが、その裏で、どの家がどの席につき、誰と誰が言葉を交わすかを見ていない者などいない。
ルシアンは礼拝堂の入口近くで、その顔ぶれをざっと見渡した。よく見た顔もあれば、久しく王城で見なかった顔もある。祝福の言葉と香水の匂い、絹の衣擦れ、抑えた笑い声が混ざり合い、白い花で飾られた礼拝堂の中へゆるやかに流れ込んでいた。
五大公爵家の席にも、それぞれ当主や代理がすでに揃っている。アステリオス公爵家の席には当主夫妻の姿もある。国内の名門が王族の婚礼に遅れるなど、あってはならないことだった。
王族の婚礼とは、こういうものだ。
幸福を祝うための場であり、王国の力の配置を静かに見せる場でもある。
ルシアンはそう思いながら、祭壇の方へ目を向けた。白百合と淡い金の飾り布で整えられた礼拝堂は、いつもより柔らかく見えた。高い窓から差し込む光が白石の床へ落ち、銀の燭台や花瓶の縁を細く輝かせている。
「ルシアン」
声を掛けられ、ルシアンは振り返った。
フェリクスがそこにいた。
今日の兄は、いつもの研究用の上着ではなく、王族の婚礼衣装を身につけている。白を基調に金糸を重ねた正装は、普段の気の抜けた笑みを少しだけ王子らしく見せていた。もっとも、本人は襟元が気になるのか、指先で何度も飾り紐の位置を確かめている。
「兄上、触りすぎだ。そこはもう整ってる」
「分かってるよ。でも、動きづらいんだよね、これ」
「今日くらい我慢しろ」
「君、こういう時だけ妙に冷たいね」
「普段の行いだろ」
フェリクスは肩を竦めた。軽口はいつも通りだったが、よく見れば少し落ち着かない。古文書を前にして夜を明かす時でさえ平然としている兄が、今日ばかりは視線をあちこちへ逃がしている。
ルシアンはその様子に、少しだけ口元を緩めかけた。
「笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑ったよね」
「兄上の気のせいだ」
そう返した時、礼拝堂の奥がふっと静まった。
参列者たちの視線が入口へ向かう。ルシアンもそちらを見た。
ミレイユ・クローディアが、父に手を取られて歩いてくる。
彼女は白銀の光をまとっているようだった。夏の婚礼に合わせたドレスは、重い長袖ではなく、肩先から腕へ薄いレースが柔らかく落ちる軽やかな仕立てだった。白い絹地には、胸元から腰にかけて細やかな銀糸の刺繍が施され、歩くたびに小さな星屑のように淡く瞬く。裾は幾重にも重ねられているのに暑苦しさはなく、透明感のある薄布が白石の床へ涼やかな影を落としていた。
長いヴェールは淡く透け、彼女の柔らかな茶髪を夏の光の中へ溶かしている。花嫁にしては控えめな装いだが、そこがいかにもミレイユらしかった。豪奢さで人目を奪うのではなく、静かな知性と穏やかさが、白い布の奥からにじみ出ている。薄い金縁の丸眼鏡の向こうで、緑の瞳が少しだけ緊張に揺れていた。
フェリクスが黙った。
いつもなら、こういう時こそ照れ隠しの冗談を言いそうなものだ。だが、祭壇の前に立つ兄は、ただミレイユを見ていた。その横顔を見た瞬間、ルシアンはからかう気を失った。
ミレイユが祭壇の前へ辿り着く。フェリクスは差し出された彼女の手を受け取り、いつになく丁寧な仕草で指先を支えた。
礼拝堂の空気が、静かに張り詰める。
司祭の声が高い天井へ昇り、誓いの言葉が白い石壁に柔らかく反響した。フェリクスの声はいつもより低く落ち着いていた。ミレイユの声は小さかったが、途中で震えることはなかった。二人とも研究室で肩を並べて古い薬草や毒草の話をしている時とはまるで違う顔をしているのに、不思議と、その距離はいつもと変わらないようにも見えた。
ルシアンはふと、隣に立つセレネへ視線を向けた。
セレネは静かに祭壇を見つめていた。今日の彼女は、黒髪をいつもより少し高い位置でまとめ、銀細工の髪留めで留めている。深い海色のドレスは礼拝堂の白い光の中で青を含み、派手ではないのに、かえって目を引いた。
その横顔に、いつもの冷静さはある。感嘆の声を漏らすことも、表情を大きく変えることもない。だが、ミレイユのヴェールが上げられた瞬間、深い海色の瞳に礼拝堂の光が細かく揺れた。
ルシアンは思わず、その瞳を見ていた。
礼拝堂の光を映した海色の瞳は、いつもよりほんの少しだけ澄んで見えた。ミレイユの花嫁姿を見つめるセレネの横顔には、普段の冷静さだけではない、静かな憧れのようなものが滲んでいる。
そのわずかな変化が、ひどく綺麗だった。
白い花に囲まれた花嫁よりも、というわけではない。ただ、誰にも気づかれないほど小さな感情を瞳の奥にだけ灯しているセレネから、ルシアンはなぜか目を離せなかった。
祭壇では、フェリクスがミレイユのヴェールをそっと上げていた。
ミレイユがわずかに目を伏せる。フェリクスは彼女へ身を寄せ、二人の唇が静かに触れた。
その瞬間、礼拝堂に祝福の鐘が鳴り響いた。
高く澄んだ音が、白い花の香りとともに広がっていく。参列者たちが息をつき、誰かが小さく拍手を始める。やがてそれは礼拝堂全体へ波のように広がり、祝福の声が重なった。
隣のセレネは、まだ祭壇を見ていた。
ルシアンはその横顔から目を離し、再び兄たちを見る。フェリクスはミレイユの手を握ったまま、何かを囁いたらしい。ミレイユが困ったように、けれど嬉しそうに微笑む。研究室で何度も見た、あの自然な空気だった。
王族の婚礼でありながら、そこには確かに、二人だけの静けさがあった。
「綺麗ですね」
セレネがぽつりと言った。
声は小さかった。だが、ルシアンには聞こえた。
「ああ」
短く答えてから、ルシアンは少しだけ言葉に迷った。
「……お前も、ああいうのが好きなのか」
セレネは瞬きをして、こちらを見る。
「嫌いではありません」
「そうか」
「意外そうですね」
淡々と問われ、ルシアンは詰まった。
意外だった、というより、その静かな感情の揺れをもっと見ていたいと思ってしまったのだ。セレネは感情を声高に示さない。けれど、瞳の奥や、わずかに止まる指先や、言葉になる前の沈黙に、確かに何かを宿すことがある。ルシアンはもう、その小さな変化から目を逸らせなくなっていた。
「……別に」
「そうですか」
セレネはそれ以上追及しなかった。ただ、祭壇へ視線を戻す。その髪に留められた銀細工が、夏の光を受けて小さく光った。
ルシアンはその光を見て、なぜか胸の奥が落ち着かなくなった。
式が終わると、礼拝堂の空気は一気に華やいだ。祝福を述べる貴族たちが順に動き始め、王族への挨拶を待つ列ができる。レオニスは王太子として完璧な笑みを浮かべ、リリアーナはその隣で柔らかく客人たちへ応じていた。フェリクスはミレイユの手を取ったまま、どこか誇らしげで、ミレイユは時々眼鏡の位置を直しながら、少し困ったように笑っている。
祝宴へ移るまでのわずかな時間、礼拝堂の外に続く回廊や控えの広間は、自然と懇親の場になっていた。五大公爵家の当主たちも、中央貴族も、隣国からの使節も、それぞれに祝福の言葉を交わしている。表向きは和やかだが、王族の婚礼に集まった者たちが、ただ花嫁と花婿だけを見ているはずもない。
ルシアンは人の流れを見ながら、軽く息を吐いた。
こういう場は嫌いではない。だが、気を抜ける場でもない。祝福の言葉も笑顔も、貴族社会では時に刃より薄く鋭い。誰が誰を見て、誰が誰を避けたのか。後になって意味を持つことはいくらでもある。
その中で、隣国レヴァンティスの使節たちが集まる一角に、赤銅色の髪が見えた。
アステリオス公爵家の次男で、13歳の頃からレヴァンティスへ留学していた男。帰国するという話は以前から聞いていたし、離宮の事件が片づく頃には、すでに王都へ戻っていたはずだった。
幼い頃、ルシアンとセレネと三人で遊んだこともあった。よく笑い、よく喋り、誰の懐へも当然のように入り込む。昔からそういう奴だった。思い返せば、ルシアンに話しかけていたようでいて、実際にはセレネへ向ける言葉の方が多かった気もする。
だが、帰国の挨拶もなければ、幼馴染として顔を見せることさえなかった。
それが、妙に引っかかっていた。
隣で、セレネの指先がほんのわずかに止まった。それは驚きというより、遠い記憶へ触れた時のような、ごく小さな反応だった。
「……気づいていたのか」
「先ほど、レヴァンティスの方々の中に姿は見えました」
セレネは静かに答えた。
「ですが、直接お話しするのは久しぶりです」
久しぶり、という響きに、ルシアンは昔の中庭を思い出した。シオンが勝手に遊びを決め、セレネが淡々とその穴を指摘し、結局ルシアンが巻き込まれていた頃の記憶だ。
その時だった。人の流れを分けるように、こちらへ向かって一人の男が歩いてきた。
赤銅色の髪が、夏の光を受けて柔らかく光っている。翠の瞳は楽しげに細められ、礼拝堂の外へ続く回廊のざわめきの中でも、その男だけは不思議と遠慮というものを知らないように見えた。
近づいてくるにつれ、ルシアンはその顔に、記憶の中の少年の面影を見つけた。
「やっと会えたね、セレネ」
声は昔より低くなっていた。だが、柔らかく親しげで、相手との距離を初めから測る気がないような響きは、ルシアンの記憶にある少年のものとよく似ていた。
シオン・アステリオス。
昔から、距離の取り方を知らないような顔で、人の間へ入り込んでくる男だった。
3章は恋愛パートがかなり多めです!!
もちろん、事件もおきます。




