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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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幕間 星見宮の夜

 白百合宮北側区域の検分と教会対応が一段落してから、三日ほどが過ぎていた。


 王城は、何事もなかったかのように日々を動かしている。公務区域には、人の声や書類を運ぶ足音、遠くで鳴る扉の音がまだ残り、一日の熱が薄く漂っていた。貴族たちは次の夜会や季節の挨拶について語り、侍女たちは廊下に飾る花を初夏のものへと入れ替えている。白百合宮地下で見つかった遺骨のことも、表向きには正式な手続きを経て静かに処理されつつあった。


 だが、それで終わったと思えるほど、ルシアンは器用ではなかった。


 湯浴みを終えたルシアンは、薄い黒の夜着の上に軽く羽織を掛けただけの姿で、私室に続くベランダへ出ていた。昼間の熱を失った石床はわずかに冷えている。けれど、春先のように肌を刺す冷たさはもうなく、開け放した窓から漏れる部屋の薄灯りが、足元の石へ淡く落ちていた。


 ルシアンの私室は、星見宮の中でも東棟の高層に置かれている。夜になると、王城の灯りは遠く下に沈み、中央庭園の噴水も、公務区域の回廊も、見回りの兵が掲げる灯も、どこか別の世界のもののように見えた。遠くで夜鐘が鳴り、初夏へ近づき始めた風が、庭園の植え込みを静かに揺らしている。


 ルシアンはベランダの椅子へ腰掛けたまま、しばらく夜空を見上げていた。


 白百合宮地下の冷気が、まだ身体の奥に残っている気がする。目を閉じれば、湿った石の匂いも、白檀に似た香も、白布の下に横たえられた骨も、名を失った女たちの記録も、祈りを捧げていた大司教の淡い琥珀色の瞳も、ひとつひとつが暗がりの底から浮かび上がってくる。


 ルシアンは小さく息を吐いた。


 人間が長い時間をかけ、祈りや格式や沈黙の下に隠し続けたものの方が、よほど気味が悪かった。闇の中に突然現れるものよりも、明るい廊下の壁の中や、整った記録の余白や、誰かの穏やかな声の裏に潜んでいるものの方が、ずっと見つけにくい。


 考え続けても、答えが出るわけではなかった。


 ルシアンは夜風を吸い込み、冷えた石の手すりへ視線を落とした。遠くで鳴った夜鐘の余韻が、星見宮の高い空気の中へ細く溶けていく。


 その静けさの中で、隣室側の窓がそっと開く音がした。


 ルシアンがそちらを見ると、セレネがベランダへ出てくるところだった。


 淡い白の夜着に、薄い羽織を肩へ掛けている。夜着は肩紐の細い簡素な形で、胸元から裾へ柔らかな布が静かに落ちていた。飾りは控えめで、胸元と裾にだけ細いレースが揺れている。黒髪は結われておらず、夜風を受けて肩から背へ流れていた。片手には、本を持っている。


 その姿を見た瞬間、ルシアンは妙に落ち着かなくなった。


 普段の外出着でも、夜会用のドレスでもない。完全に私室側の姿だった。飾り気がない分だけ、いつもの冷たいほど整った美しさとは違う、触れれば体温があるのだと思わせる柔らかさがあった。本人がまるで気にしていないらしいことが、余計に困る。


 セレネはベランダへ出てから、そこで初めてルシアンに気づいたように目を瞬いた。


「……起きていたんですね」


「お前こそ」


 思ったより声が掠れて、ルシアンは軽く咳払いをした。


「眠れないのか」


「いえ。少し風に当たりたくて」


 そう言いながら、セレネは手にしていた本を軽く持ち上げた。


「あと、続きを読むつもりでした」


「お前、本当にどこでも本を読むな……」


「静かな場所の方が集中できます」


 いつも通りの声だった。けれど、夜の静けさのせいか、昼間より少し柔らかく聞こえる。


 セレネは自室側のベランダに置かれた椅子へ腰掛け、本を開いた。二人の間には、低い石の仕切りがあるだけだった。飛び越えようと思えば簡単に越えられる距離で、ルシアンは無意識にその高さを見てから、自分が何を考えたのかに気づいて顔をしかめた。


 何を確認している。


 自分で自分に呆れる。


 セレネはそんなことを気にする様子もなく、風に揺れるページを白い指先で押さえていた。


「夜風が、少し柔らかくなりましたね」


 不意に、セレネが言った。


 ルシアンは夜空を見上げる。


「ああ。もう春も終わりに近いんだろ」


「白百合宮へ入った頃より、窓を開けていられます」


 その言葉で、二人の間へ短い沈黙が落ちた。


 地下の冷気を、同時に思い出したのだと分かった。柔らかな夜風の中にいても、あの湿った石の奥に残っていた空気は、ふとした言葉の隙間から戻ってくる。


 ルシアンは肘を膝へ乗せ、低く息を吐いた。


「……終わった、とはまだ言えねぇな」


「はい。記録整理も続きますし、教会側の照合もあります」


「祈りで全部片づいたような顔をされるのは、気に入らねぇ」


 セレネは本を閉じた。


「教会を警戒しているんですね」


「してないように見えるか?」


「かなり」


「隠す気ないからな」


 セレネはわずかに視線を伏せる。夜風が黒髪を揺らし、その影が白い頬へ薄く落ちた。


「黒髪だからでしょうか」


「黒髪そのものが珍しいわけじゃないだろ」


「はい。王都にも貴族社会にも黒髪の者はいます。普段は、それだけで何かを言われることはありません」


 セレネは静かに答えた。


「ですが、古い信仰へ深く傾倒している方ほど、黒髪や水辺の伝承を結びつけて見ることがあります」


「それでも気に入らねぇ」


 思ったより強い声が出た。


 セレネが目を瞬く。


 ルシアンは、自分でも分かるくらい苛立っていた。地下でセヴランが向けた視線を思い出す。探るようで、測るようで、セレネ自身ではなく、彼女の黒髪や沈黙だけを古い伝承の中へ押し込めようとしているような目だった。


「お前は……」


 そこまで言って、ルシアンは言葉を止めた。


 お前は違う。


 そう言いたかった。だが、何がどう違うのか、うまく言葉にできなかった。セレネが人ならざるものだなどと思ったことはない。だが、人より冷静で、誰よりも怪異の名を恐れず、時折この世界の外側を知っているような顔をする彼女を、ただ普通の令嬢だと言い切ることも、ルシアンにはできなかった。


 それでも、危ういものとして見られることだけは許せなかった。


 セレネは静かにこちらを見ていた。海色の瞳と目が合った瞬間、ルシアンはまた妙に落ち着かなくなる。


 夜着姿のせいだ。


 絶対にそうだ。


 昼間より距離が近く感じる。しかも今、自分たちの間には低い仕切りしかない。飛び越えれば、すぐ向こう側だ。そんな考えが頭を過ぎった瞬間、ルシアンはさらに顔をしかめた。


 その感情は、ただ守りたいという言葉だけでは足りず、かといって遠ざけたいというものでもなかった。ただ、誰の視線にも晒したくないと思った。教会にも、貴族にも、古い迷信にも、自分以外の誰かの勝手な意味にも、セレネを渡したくない。そう思った瞬間、胸の奥に生まれた感情の輪郭があまりに不慣れで、ルシアンはそれ以上考えるのをやめた。


「……冷える前に戻れ」


 結局、出てきたのはぶっきらぼうな言葉だった。


 セレネは数秒こちらを見つめた後、静かに瞬きをした。やがて、ほんの小さく息を漏らす。笑ったのだと気づくまでに、ルシアンは一拍遅れた。


「……なんだ」


「少し、可愛らしいですね」


「は?」


「誤魔化し方が」


 ルシアンは思わず言葉に詰まった。


 夜風の中で見るその表情は昼間よりずっと柔らかく、ルシアンの胸を妙にざわつかせた。その瞬間、可愛いと思ってしまった自分に気づき、ルシアンはひどく動揺した。


 これまでにも、セレネを美しいと思ったことはある。冷たい月のようだと思ったことも、人形じみていると思ったこともある。だが、今のように、胸の奥が不意に緩むような感覚を覚えたことはなかった。


「……本を読むんじゃなかったのか」


 ようやくそれだけ言うと、セレネは何事もなかったように視線を落とし、膝の上で本を開いた。


「読みます」


「……なら、読め」


「はい」


 素直に返されると、それはそれで腹が立つ。だが、セレネの横顔は穏やかで、夜風に揺れる黒髪の先が、薄い羽織の上を静かに滑っていた。


 王城の灯りは遠く、星見宮の高層ベランダには、穏やかな静けさだけが残っている。地下の冷たい空気も、香の匂いも、教会への警戒も、完全には消えていない。記録整理も照合も終わっておらず、あの眠る宮に積もった沈黙が、祈りひとつでほどけるはずもなかった。


 それでも今は、星見宮の高いベランダに静かな風が流れていた。


 開いた窓があり、夜空があり、低い仕切りを隔てた向こう側では、セレネが当たり前のように本を読んでいる。ページを押さえる指先、風に揺れる髪、時折まばたきをする気配。そのどれもがひどく静かで、ルシアンはいつの間にか、地下から持ち帰った冷たさが少しだけ遠のいていることに気づいた。


 こんな夜がもう少し続けばいいと、そう思ってしまったことは、きっと誰にも知られたくなかった。

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