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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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眠る宮へ届く祈り

 教会との会談を終えたその日の午後、ルシアンたちは再び白百合宮北側区域へ向かっていた。


 西へ傾き始めた陽は、王城本館の高い窓を淡い金に染めていた。人の声、書類を運ぶ足音、遠くで鳴る扉の音。公務区域にはまだ一日の熱が残っている。だが、白百合宮の奥へ進むにつれ、それらは一枚ずつ薄布を剥がされるように遠ざかっていった。


 回廊の空気は冷えていた。使われなくなった燭台には新しい火が灯されているのに、そこに温もりはない。石床へ落ちる近衛たちの足音だけが、乾いた響きを立てて先へ先へと吸い込まれていく。


 ルシアンは歩きながら、自然と隣を見た。


 セレネは半歩後ろを歩いている。黒髪は今日も乱れなく結われ、銀細工の髪留めが燭火を受けて静かに光っていた。海色の瞳は揺れない。表情にも変化はない。けれど、その視線はまっすぐ北側の奥へ向けられていた。


 退くつもりはないのだと、言葉にされなくても分かった。


 ルシアンは何も言わず、わずかに歩幅を合わせた。止めたところで、セレネは静かに理由を述べ、結局は彼の隣に立つのだろう。だからルシアンは、言葉で止める代わりに、彼女の前に続く石床の濡れや段差へ視線を落とした。


 後方にはフェリクスと教会側の随行者が続いている。そして少し離れた位置を、セヴラン・シュヴァリエが歩いていた。


 銀髪の大司教は、白い聖職衣を纏っている。薄暗い回廊の中で、その白さだけが妙に浮いて見えた。歩幅は乱れず、視線も低すぎず高すぎない。封鎖された壁、古い扉、煤けた天井の装飾。そのひとつひとつへ、祈りの場を検分する者のように静かに目を向けている。穏やかで礼儀正しく、信仰深い聖職者に見えたが、ルシアンは会談の場で一瞬だけ覗いた淡い琥珀の冷たさを忘れていなかった。


 北側区域入口へ到着すると、近衛が封印紐と封鎖具を確認し、順に解いていく。封印は破られていない。扉の前に残る埃も、大きく乱れてはいなかった。ルシアンは目だけでそれを確かめ、短く頷く。


 重い音を立てて扉が開いた瞬間、扉の向こうからは湿った石の匂いと、長く閉ざされていた場所特有の淀んだ沈黙が流れ出し、その奥に、地下から微かに上がってくる香が混じっていた。


 ルシアンは無意識に目を細めた。


 最初にここへ踏み込んだ時のことを思い出す。灯りの届かない地下、壁に残る赤黒い痕、眠るように並べられた骨、どこからともなく漂う香の匂い。あの時は、怪異の巣へ足を踏み入れたように思えたが、今なら、そこに残っていたものをただ怪異の気配として片づけることはできなかった。


 ここに残っていたのは怪異などではなく、閉じ込められ、眠らされ、忘れられ、名前さえ奪われた人間たちだった。


 近衛が灯りを掲げ、一行は地下へ続く石階段を下り始めた。冷気が足首から這い上がってくる。壁に滲んだ湿気が燭火を鈍く反射し、階段の縁を曖昧にしていた。


 ルシアンは自然と歩幅を緩める。セレネが足を滑らせないよう、半歩前に出た。彼女は何も言わない。ただ、揺れる灯りの先を静かに見つめている。


 その沈黙が、妙に胸へ残った。


 セレネは恐れていない。少なくとも、表には出さない。だが、ここに残された者たちをただの証拠として見ているわけでもない。彼女が記録に目を落とす時、骨の位置を確認する時、その静けさは冷淡さではなく、取り乱すことを許さないための刃のように見えることがあった。


 地下空間へ到着すると、教会側の随行者の一人が小さく息を呑んだ。


 地下空間は思っていた以上に広く、灯りを入れてなお、沈黙だけが奥へ奥へと広がっているように見えた。


 壁際には、保全のため白布を掛けられた遺骨が並んでいる。香炉は回収位置を記した札とともに残され、寝台、古い食器、朽ちた布片、子どもの手に収まるほどの小さな木片も、記録保全のため大きく動かされてはいない。灯りが揺れるたび、石壁へ伸びる影が形を変えた。


 それらの痕跡を見ていると、ここがただ死者を隠した場所ではなく、かつて誰かが息をし、食べ、眠り、明日を待っていた場所なのだと嫌でも分かった。ここは牢と呼ばれなかっただけで、部屋に見せかけた檻だった。宮という名を与えられながら光は届かず、眠るためではなく、眠らされるために作られた場所だったのだ。


 セヴランは地下へ足を踏み入れると、しばらく何も言わなかった。ただ静かに周囲を見ていたが、その沈黙は祈る者の慎みにも、何をどこまで教会の手に収められるかを見極めようとする沈黙にも見えて、ルシアンはすぐに判断を下さなかった。


 やがてセヴランは白い手袋を外し、最も近い遺骨の前へ膝をついた。その動作に迷いはない。衣の裾が冷たい石床へ触れる。教会側の随行者たちもそれに倣うように頭を垂れ、近衛ですら物音を立てなかった。


 セヴランは胸元で静かに祈りの印を結んだ。


「光の神エーテリスよ。長く名を失い、闇の下へ置かれていた者たちへ、どうか安らぎを」


 低い祈りの声が地下へ落ちていく。


 ルシアンはその声を聞きながら、それが少なくとも今この瞬間だけは、形ばかりの祈りではないことを感じ取っていた。声に含まれる敬虔さも、死者へ向ける慎みも、偽物には聞こえなかった。


 祈りが偽物ではないと分かるからこそ、ルシアンにはかえって厄介に思えた。


 悪意や欲だけで伸びてくる手なら、まだ見抜きようも止めようもあった。だが、祈りと正しさをまとった手は厄介だった。それが本当に死者へ向けられたものなのか、それとも沈黙を美しい言葉で覆うためのものなのか、見誤ればまた誰かの名が消える。


 セヴランは続けた。


「ここで眠っていた方々の名が、再び記されますように。忘れられた祈りが、再び届きますように。奪われた眠りが、今度こそ安らかなものとなりますように」


 灯りが揺れ、香の匂いがわずかに空気へ混ざった。


 かつて、この香は声を奪うために焚かれていた。抵抗する力を削ぎ、目蓋を沈め、閉じ込められた女たちと子どもたちを静かにさせるために。


 だが、ヘレナが守ってきた香は、それだけのものではなかったのだろう。ルシアンには、それが忘れるなと訴える匂いにも、好奇の目から死者を遠ざけようとする祈りにも思えた。同じ香が、時代によってまるで別の意味を持つ。その事実が、ひどく重たく胸に残った。


「北側保全区域、第三列」


 セレネの声が静かに響いた。


 感情のない声だった。だが、地下の冷たさの中で、その声は妙にまっすぐ通った。


 近衛が位置番号を確認し、フェリクスが記録へ書き加えていく。紙を擦る羽根ペンの音が、石壁に小さく反響した。


 セヴランは祈りを終えると、ゆっくり立ち上がった。白布の掛かった遺骨へ視線を落とし、短く目を伏せる。


「この方々は、長くここへ置かれていたのですね」


「少なくとも、王城の表の記録からは消されていた」


 フェリクスが答えた。いつもの軽さはない。


「病死、退職、配置替え、行方不明。言葉だけなら、いくらでも整えられるからね」


 セヴランは黙って聞いていた。


 淡い琥珀色の瞳に、揺れる灯りが映る。


「……祈りが必要です」


 その声は穏やかだった。


 それが死者を弔うための言葉なのか、穏やかな祈りの形を借りた封印なのか、あるいは教会の管理下へこの場所を抱え込むための布石なのか、ルシアンにはまだ分からなかった。


 セレネは一枚の保全記録へ視線を落としていた。


 エリアーナ・ローレン。


 その名前の横へ、保全番号が静かに書き加えられている。


 名を失っていた骨へ、記録が戻されていく。もちろん、それだけで本人だと断じることはできない。残された布片やローディア家の裏資料、ヘレナの口伝、王城側の欠落記録を重ねて、ようやく浮かび上がった名だった。それでも、名が何も残らないまま消され続けるよりは、ずっとましだった。


 セレネはその文字を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 セレネは泣くことも、表情を変えることもなかった。それでも、彼女が誰より真剣に、この地下へ残された者たちを見ていることだけは分かった。


 その時、セヴランの視線がセレネへ向いた。


 ほんの一瞬だった。


 黒髪と海色の瞳、薄暗い地下に残る香、そして忘れられた死者へ向けられた祈り。そのすべてが、古い迷信の輪郭へ静かに重ねられていくように、ルシアンには見えた。


 セヴランの顔には、相変わらず穏やかな祈りの余韻がある。だが目の奥だけが冷えていた。責めるでも、怯えるでもない。ただ、確かめるような視線だった。


 ルシアンは無意識にセレネの立つ側へ半歩寄った。


 セレネは気づいたのか、わずかに睫毛を伏せた。それだけだった。拒むでもなく、頼るでもない。けれど、その沈黙がルシアンの胸に静かに触れた。


「大司教猊下」


 ルシアンは低く声をかけた。


 セヴランが穏やかにこちらを見る。


「何でしょう、殿下」


「祈りはありがたく受け取る。だが、遺骨と記録の管理は王家と特務隊で続ける。教会に引き渡す段階ではない」


 地下の空気が、わずかに張った。


 フェリクスが羽根ペンを止める。教会側の随行者たちも顔を上げた。


 セヴランは少しも表情を崩さなかった。


「もちろんです。教会は、死者の安寧を願うのみ。王家のご判断を尊重いたします」


 穏やかな返答だったが、その声音はあまりにも整いすぎていて、ルシアンの警戒を解くには足りなかった。


「それならいい」


 ルシアンは短く返した。


 セヴランは再び遺骨へ向き直る。その横顔は、どこまでも敬虔な聖職者のものだった。だがルシアンは、先ほどの視線を忘れなかった。


 地下の灯りが揺れる。


 長く閉ざされていた眠る宮には、まだ冷たい空気が残っている。石壁には湿気が滲み、奥へ続く暗がりは、今も誰かの声を隠しているように見えた。


 それでも今、この場所には灯りが差し入れられ、祈りが捧げられ、失われていた名前が少しずつ記録の上へ戻され始めていた。


 ルシアンは静かに息を吐いた。


 ここは、もうただ眠るだけの宮ではない。誰にも知られず消されていった者たちを、もう一度この世界へ戻すための場所になりつつあった。


 地下の奥では、香がまだ微かに残っている。


 その匂いは、最初に感じたような恐怖だけを運んでくるものではなくなっていたが、かといって安らぎと呼ぶには、まだ冷たすぎた。


 それは長い眠りが終わりに近づく気配であり、同時に、眠っていたものが目を覚ます直前のような、ひどく静かな不穏さでもあった。


 ルシアンは灯りの向こうを見据えた。


 祈りがこの地下へ届いたとしても、石の奥に染みついた沈黙まで、すぐにほどけるわけではなかった。祈りの名を借りて再び何かが覆い隠される気配が少しでも見えたなら、その時は、沈黙の奥へ伸びる手をルシアンは見逃さないだろうと思った。


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