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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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祈りを携えた大司教

 教会からの返答は、思っていたよりも早かった。


 公務区域の応接室には、王家側でまとめた保全記録と洗礼記録照会の控えが並べられていた。レオニスは上座に座り、フェリクスは資料筒を脇へ置いている。セレネはルシアンの隣で、控えへ目を落としていた。


 ルシアンは、彼女の黒髪に留まる銀の髪留めを一瞬だけ見た。小さな青い石が、朝の光を受けて、深い水底のように色を宿している。


 扉の外で足音が止まった。


 近衛が訪問者の到着を告げると、レオニスが短く許可を出す。扉が開き、教会側の随行者が二名入室した。その後ろから現れた男を見た瞬間、ルシアンは、教会がこの件を軽く扱っていないことを理解した。


 主神エーテリスを祀る教会の大司教、セヴラン・シュヴァリエ。


 銀の髪は淡い光を受けて静かに輝き、琥珀色の瞳は穏やかだった。白い聖職衣には金糸の細い装飾が施されているが、華美ではない。若い。だが、部屋へ入る歩幅も、礼をする角度も、長く祈りの場に立ってきた者のそれだった。


「王太子殿下。第二王子殿下。第三王子殿下。本日はお招きいただき、感謝申し上げます」


 セヴランの声は柔らかく、耳へ自然に届いた。弔いの場にあれば、この声に救われる者もいるのだろう。ルシアンはそう思った。眠る宮に残された骨へ祈りを捧げる者としては、あまりにふさわしく見えたからだ。


 レオニスが応じる。


「急な照会に応じてもらい、感謝する。白百合宮北側区域で発見された遺骨と、王家血統に関わる洗礼記録について確認したい」


「承っております」


 セヴランは頷いた。


「白百合宮に眠る方々へ、教会としても祈りを捧げたいと存じます。長く光の届かぬ場所に置かれた方々であれば、なおさら、丁重に扱われるべきでしょう」


 その言葉だけなら、何もおかしくはない。むしろ、待っていた言葉だった。


 だが、セヴランは穏やかなまま続けた。


「遺骨および関連する記録は、教会で厳重にお預かりすることも可能です。洗礼、葬送、血統に関わる記録は、教会においても慎重に保管されるべきものですから」


 ルシアンは、わずかに目を細めた。


 預かる。


 柔らかい言葉だった。だが、遺骨も記録も教会へ渡せば、眠る宮の者たちは祈りの名の下で再び閉ざされるかもしれない。


 レオニスは表情を変えなかった。


「遺骨の弔いは求める。だが、記録は王家で保全する」


 声は穏やかだったが、譲る気配はない。


「教会へ渡すのは、王家で確認した記録の写しに限る。原本と遺骨の扱いは、教会の検分を受けた後、王家が判断する」


 セヴランは、ほんの短く間を置いた。


「承知いたしました」


 すぐに微笑が戻る。


「王家のご判断を尊重いたします。教会は、祈りと記録の照合において助力いたしましょう」


 丁寧だった。非の打ちどころがないほどに。


 だからこそ、ルシアンは胸の奥に残る引っかかりを消せなかった。


 セヴランの視線が、王族たちを順に移る。そして最後に、セレネへ向いた。


 一瞬だった。


 淡い琥珀色の瞳の奥が、ほんのわずかに冷えたように見えた。黒髪を見た瞬間だけ走った、その小さな硬さを、ルシアンは見逃さなかった。


 セヴランはすぐに、丁寧に礼をする。


「ヴァルキュリア侯爵令嬢。此度の調査において、多大なご助力をいただいたと伺っております」


「恐れ入ります」


 セレネは礼を返した。表情も声も変わらない。ただ、セヴランの目が、彼女の黒髪を避けるようでいて、確かに意識しているのは分かった。


 ルシアンは、ほとんど無意識に立つ位置を半歩だけずらした。


 セレネを隠すほどではない。ただ、セヴランの視線と彼女の間へ、自分の肩が少し入る位置だった。セレネがこちらを見た気配がしたが、何も言わない。ルシアン自身も、なぜそう動いたのか説明するつもりはなかった。


 フェリクスが口を開く。


「洗礼記録について確認したい。王城側にも白百合宮側にも、該当する子どもたちの記録がない。だが、ローディア家に残された写しには、北へ移された女児三名の記述がある。王家の血を引く可能性がある子どもなら、洗礼記録がどこかに残っているはずだ」


 セヴランは頷いた。


「古い記録ですので、確認には時間が必要です」


 整いすぎた返答だった。


 古い記録なら時間がかかる。それ自体は当然だ。だがルシアンには、最初からそう答える準備があったようにも聞こえた。


「どの程度だ」


 レオニスが問う。


「記録庫の閲覧許可、該当年代の確認、洗礼台帳の照合が必要になります。正確な日数は、この場では申し上げられません」


「教会側で該当記録の存在を把握していない、という理解でいいか」


 フェリクスの問いにも、セヴランは微笑を崩さなかった。


「古い記録の中には、分類が現在と異なるものもございます。存在しないとは申し上げません。ただ、確認なしに存在すると申し上げることもできません」


「慎重だね」


「記録に関わる者として、当然の務めです」


 その答えは正しい。正しすぎるほどに。


 ルシアンは、机の上に置かれた王家側の控えへ視線を落とした。確定できるものと推測に留まるものを分ける。推測を事実として残せば、また記録が歪む。セヴランの言葉もまた、表面上は同じ慎重さだった。だが、そこにある温度は違うように思えた。


 セレネが資料から顔を上げた。


「大司教猊下。教会側で洗礼記録を確認される際、王家側の照合項目と同じ形式で記録を戻していただくことは可能でしょうか」


 セヴランの琥珀色の瞳が、再びセレネへ向かう。


「同じ形式、とは」


「発見場所、推定年代、王城側の病死記録または退職記録との対応、ローディア家資料との一致箇所、洗礼台帳上の記載名。その五項目です」


 セレネの声に感情はなかった。ただ必要な条件を述べているだけだった。


「教会側の記録だけで完結させず、王家側の保全記録と照合できる形にしていただきたいのです」


 セヴランは一拍置いた。


 今度の間は、先ほどよりわずかに長かった。


「……可能な範囲で、対応いたしましょう」


「可能な範囲、ですか」


 フェリクスがすぐに拾う。


 セヴランは穏やかな顔のまま答えた。


「教会の記録には、秘匿すべき告解や、王家以外の血統に関わる情報が含まれる場合がございます。すべてを開示することはできません」


「こちらが求めているのは、白百合宮北側区域に関わる洗礼記録だ」


「承知しております」


 丁寧な声だった。けれど、その言葉の奥には見えない線が引かれていた。教会の記録へ踏み込める範囲は、教会が決める。そう言われているようだった。


 レオニスが口を開く。


「大司教猊下。こちらも、教会の秘匿記録を無条件に開けと言っているわけではない。だが、王家の血に関わる洗礼記録が、王城にも白百合宮にも残っていない。ならば、照合は避けられない」


「承知しております」


「照合した結果は、王家の保全記録にも残す」


「もちろんです」


 セヴランは微笑んだ。


「ただ、扱いには慎重を期すべきでしょう。光の届かぬ場所に長く置かれたものは、急に晒せば傷むことがございます」


 その言葉を聞いた瞬間、ルシアンは目を細めた。


 遺骨のことを言っているのか。記録のことを言っているのか。それとも、もっと別のものを指しているのか。断定はできなかった。だが、セヴランの視線が一瞬だけセレネの黒髪の近くを掠めた気がして、胸の奥に冷たいものが落ちる。


「晒すために掘り起こしたわけではない」


 気づけば、ルシアンはそう言っていた。


 セヴランの視線がこちらへ戻る。


「ええ。存じております、第三王子殿下」


「名を戻すためだ」


 ルシアンの声は低くなった。


「遺骨も記録も、教会へ丸投げするつもりはない。弔いは求める。だが、名を奪われた者たちを、またどこかの棚へ戻すために教会を呼んだわけじゃない」


 セレネが隣で微かに顔を上げた。レオニスは止めない。フェリクスも口を挟まなかった。


 セヴランはルシアンを見た。


 怒りはない。むしろ、どこか納得したような色さえあった。


「第三王子殿下のお心は、よく分かりました」


「分かっただけで終わらせるな」


「無論です」


 セヴランは丁寧に頭を下げる。


「教会は、亡き方々の尊厳を軽んじることはいたしません。遺骨の検分と祈りのため、白百合宮北側区域へ伺う許可をいただけますでしょうか」


 レオニスが即座に答えた。


「許可する。ただし条件がある。王家側の立ち会いを必須とする。遺骨の移動は王家の許可後。記録原本の持ち出しは認めない。教会側が確認した内容は、王家側の記録にも残す」


「承知いたしました」


「検分の日程は、こちらで調整する。現場保全中のため、教会側の随行は最低限に限る」


「そのようにいたします」


 あまりにも穏やかに受け入れるので、かえって読めなかった。拒むつもりがないのか。今は拒まないだけなのか。ルシアンには判断できない。ただ、セヴランという男が、声を荒げず、常に正しい言葉を選びながら、自分の立場を少しも手放していないことだけは分かった。

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