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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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王家の記録

 公務区域へ向かう回廊は、王城の中で最も早く目を覚ます場所だった。


 星見宮や研究棟にはまだ夜明けの冷えが残っていたが、公務区域へ近づくにつれ、書記官の足音や紙束を運ぶ従僕の気配が増えていった。ルシアンは封緘した報告書を抱え、隣のフェリクスは王統記録の控えと照合表を収めた書類筒を持っている。セレネは少し後ろを静かに歩いていた。クライヴは、ローディア家資料の出典と原本の所在を整理するために残してきた。レオニスへ差し出す以上、必要なのは真実だけではなく、記録として通るだけの筋道だった。


 王太子執務室の前で近衛が頭を下げた。すでに先触れは届いていたのだろう。扉が開かれると、室内には淡い朝の光と、整えられた政務の気配があった。


 レオニスは執務机の向こうにいた。いつものように背筋は伸び、表情は冷静だったが、ルシアンは部屋へ入った瞬間、兄が白百合宮から戻って間もないことに気づいた。

 袖口に、リリアーナが好んで使う淡い花の香がかすかに残っている。

 机の端には、幼い王子のために使われる柔らかな布の端切れが一枚置かれていた。公務の机に置くにはあまりに私的で、けれどレオニスはそれを片づけていない。フェリクスも気づいたらしく、ほんの少しだけ口元を動かしたが、からかう言葉は出さなかった。


「朝から急ぎの報告だと聞いた」


 レオニスの声は落ち着いていた。


「はい」


 ルシアンは机の前まで進み、封緘を解いた報告書を置いた。紙の束が机に触れた音は小さかったが、その重さは手を離しても残るようだった。


「白百合宮北側区域、および内部から通じる地下空間についての報告です」


 ルシアンは、眠る宮で見たものとヘレナの証言を要点だけに絞って報告した。フェリクスはそこへ、王城側の記録とローディア家資料の照合結果を重ねる。

 子どもの存在、弔いの香、イザーク王が広げた病、北へ移された三人の女児、洗礼記録の欠落、後宮制度廃止の時期。すでに紙の上で繋がった事実を、今度は王太子の前へ差し出していく。


 レオニスは最後まで表情を崩さなかった。だが、ルシアンには分かった。兄の指先が、机上の端切れから離れている。白百合宮で祝福されている今の母子と、同じ宮の奥で隠され、名を奪われた母子。その二つが同じ机の上に並んだことを、レオニスも理解している。


「遺骨は」


「北側区域の地下で最初に見つかったものを含め、眠る宮で亡くなった者たちと関係する可能性が高いと見ています。現時点で個別の名までは断定できません」


 ルシアンは、報告書の中から遺骨保全記録を前へ出した。


「ただし、身元不明の遺骨として教会へ渡すべきではありません。王家側の記録として固定する必要があります。そのための控えは、すでに作り始めています。ローディア家資料の写し、王城側の記録、眠る宮の保全記録、遺骨の保全記録を照合し、確定できるものと推測に留まるものを分けています」


 レオニスは視線を資料へ落とした。


「誰の判断だ」


「私です」


 ルシアンは一拍も置かずに答えた。


「ただし、セレネの指摘を受けています。名を奪われたまま弔れば、記録の上ではまた無名の死者になる。だから、教会へ渡す前に、王家が彼女たちを人として記録しなければならない、と」


 レオニスの視線がセレネへ向いた。セレネは一歩だけ前に出て、静かに頭を下げる。


「すべての本名を取り戻せるとは限りません。ですが、どこで見つかり、なぜ名が残らず、どの記録から外された可能性があるのかは残せます。身元不明という言葉だけで閉じるべきではありません」


 短い言葉だった。余計なものがない分だけ、まっすぐだった。


 レオニスはしばらく沈黙した。窓の外で、朝の鐘が遠く鳴る。公務区域の廊下では、誰かが紙束を運ぶ足音が過ぎていった。その日常の中で、机の上に置かれた報告書だけが、別の時代から掘り出された骨のように冷たく見えた。


「白百合宮で、か」


 レオニスは低く言った。独り言ではなかった。ただ、その一言に含まれたものは多かった。彼が今朝も会ってきたリリアーナと子ども。祝福されるべき新しい命。そのすぐ傍らに、かつて祝福されず、記録にも残されなかった母子がいた。


 ルシアンは何も言わなかった。言葉を重ねれば、かえって軽くなる気がした。


 やがてレオニスは顔を上げた。そこにいたのは、夫でも父でもなく、王太子だった。


「現場保全は」


「私の名で、眠る宮と遺骨発見区画の立ち入り制限を出します。遺骨の移動、記録類の持ち出し、現場配置の変更は禁止。北側区域全体の再開発は止めません。ただし、該当区画は作業区域から分離します」


「労働者への支払いは」


「判断を仰ぐため、ここに上げました」


 レオニスは頷いた。


「予定通り支払う。調査と保全の都合で作業を止めた者に、不利益を負わせるな。口外禁止の誓約は取る。ただし脅しではない。見たものを外へ流せば、眠る宮に関わる者だけでなく、労働者自身も噂に巻き込まれる。保護のためだと明記しろ」


「承知しました」


「再開発の責任者にも、理由を伏せたまま一時分離の命令を出す。必要以上に人を近づけるな」


 レオニスの判断は早かった。感情を挟まない冷たさではない。挟めば壊れるものがあると知っている者の速さだった。


 フェリクスが資料筒を開き、照合表の一部を差し出した。


「兄上、教会記録の照会が必要になります。洗礼記録が王城にも白百合宮にもない以上、向こうに別管理された可能性がある。ただし、教会が完全な第三者だったとは見ない方がいい」


「分かっている」


 レオニスは照合表に目を通した。


「教会へ知らせる。だが、遺骨を渡すためではない。王家側で作成した保全記録と照合させるためだ」


 その言葉に、ルシアンは胸の奥で細く息を吐いた。


 委ねるのではない。


 王家が抱えたまま、教会を呼ぶ。


「控えは正式保全に回せ」


 レオニスは言った。


「教会へ渡すのは、王家で確認した記録の写しに限る。原本と遺骨の扱いは、教会の検分を受けた後、こちらで決める。弔いは求めるが、記録を預けるつもりはない」


「はい」


「それから、ローレン家は守れ。ヘレナ・ローレンを証言者として扱うなら、同時に保護対象でもある。王家の血に関わる可能性がある以上、好奇で触れさせるな」


「そのつもりです」


 ルシアンが答えると、レオニスは初めて少しだけ目を伏せた。


「お前がそう言うなら、任せる」


 短い言葉だった。けれど、そこには弟への信頼があった。ルシアンは胸の奥がわずかに痛むのを感じた。信頼されるほど、この報告が重くなる。王家を守るためではなく、王家が消してきたものを戻すために動かなければならないのだから。


 その時、セレネが静かに口を開いた。


「王太子殿下。教会へ連絡する際、遺骨の弔いだけを前面に出すと、記録の確認が後回しになる可能性があります」


「では、どう出す」


「白百合宮北側区域で発見された遺骨と、王家血統に関わる洗礼記録の照合、と」


 レオニスの目が少しだけ鋭くなった。


「教会が断りにくい言い方だな」


「必要な確認です」


 セレネは淡々と答えた。


 フェリクスが小さく肩をすくめる。


「セレネ嬢は、相変わらず逃げ道を狭めるのが上手いね」


「逃げ道を作る必要がありますか」


「いや、今回はないね」


 ほんのわずかに空気が緩んだ。だが、誰も笑わなかった。その程度の緩みで十分だった。


 レオニスは侍従を呼んだ。控えていた年嵩の侍従が入ってくると、王太子は短く命じる。


「白百合宮北側区域の一部保全命令を起草しろ。対象は、眠る宮と遺骨発見区画。関係する記録類の持ち出しを禁じる。再開発事業については、該当区画を除き継続。労働者への賃金は予定通り支払う。口外禁止誓約は保護措置として扱え」


 侍従の表情は変わらなかった。ただ、命令の重さを理解したように、筆記する手つきが慎重になる。


「それから、教会へ使者を出す。用件は、白百合宮北側区域で発見された遺骨と、王家血統に関わる洗礼記録の照合。弔いの依頼はその後だ。先に記録の確認を求める」


「承知いたしました」


 侍従が退室すると、執務室に再び静けさが戻った。


 レオニスは机上の端切れへ視線を落とした。それはほんの一瞬だった。次に顔を上げた時には、表情は戻っていた。だがルシアンには、その一瞬で十分だった。白百合宮にいるリリアーナと子ども。その温もりを知っているからこそ、眠る宮で名を奪われた母子の冷たさが、レオニスにも届いている。


「ルシアン」


「はい」


「これは公表の仕方を誤れば、王家への攻撃材料になる」


「分かっています」


「だが、隠せば同じことを繰り返す」


 レオニスの声は低かった。


「王家の罪として、王家の記録に残す。ただし、生きている者を守る形でだ。ヘレナ・ローレン、ローレン家、白百合宮の女官たち、そして今の白百合宮にいる者たちを、過去の罪の盾にしてはならない」


「はい」


 ルシアンは深く頷いた。


 その言葉で、眠る宮から戻って以来、胸の奥に沈んでいたものが、少しだけ形を得た気がした。裁くためだけではない。暴くためだけでもない。隠すことなく、けれど人を壊さない形で、記録へ戻す。その難しさを、レオニスは一瞬で見抜いていた。


 その後も、レオニスは必要なことだけを問い続けた。

 証言者、原本の所在、遺骨の数、教会が照会を拒んだ場合の手順。

 フェリクスが記録を補い、ルシアンが現場の状況を答え、セレネが確定事項と推測の境を短く正す。そのやり取りの中で、ルシアンは、この件がもう怪異事件ではなく王家の政務へ移ったのだと感じていた。人を消したのが記録なら、人を戻すのもまた記録でなければならない。


 やがて、外から控えめな足音が近づいた。扉の前で声を発したのは、先ほどの侍従ではなく若い書記官だった。


「王太子殿下。教会への先触れについて、確認がございます」


 レオニスが許可を出すと、書記官は一枚の控えを差し出しながら、少しだけ緊張した声で告げた。


「主神エーテリスを祀る教会へ照会を出す場合、血統と洗礼記録に関わる件は大司教猊下へ直接回される可能性が高いとのことです」


 大司教。


 その言葉に、フェリクスの目がわずかに動いた。


 レオニスは表情を変えない。


「名は」


「セヴラン・シュヴァリエ猊下です」


 部屋の空気が、ほんの少し変わった。


 ルシアンは、その名を知っていた。シュヴァリエ公爵家の一族。若くして教会の高位に上がった聖職者。穏やかで礼儀正しく、信仰心の厚い人物として評判が高い。王家に対しても深い敬意を示す男だと聞いている。


 だが、今朝の資料を見た後では、その肩書きの一つ一つが別の意味を持って聞こえた。


 王家の血に関わる洗礼記録。主神エーテリスを祀る教会。記録の欠落。名を奪われた母子。


 それらの先に現れる大司教の名が、救いだけを運んでくるとは、ルシアンにはどうしても思えなかった。


 レオニスは短く命じた。


「構わない。正式に照会を出せ。ただし、こちらの記録を渡すのではない。照合を求めるのだと明記しろ」


「承知いたしました」


 書記官が退出すると、執務室には再び朝の光だけが残った。


 レオニスが報告書を閉じる。


「今日中に、保全命令を出す。教会への照会も進める。ルシアン、フェリクス、引き続き記録整理を急げ。セレネ嬢、必要なら補佐を頼む」


「承知しました」


 セレネが静かに礼をする。


 ルシアンは報告書の控えを手に取った。公務区域の外では、もう王城の一日が始まっている。白百合宮では、リリアーナが新しい命のそばで朝を迎えているだろう。その同じ宮の奥に、名を奪われた母子の記録が眠っている。


 その二つを、同じ王家の歴史として並べなければならない。


 ルシアンは扉へ向かいながら、セヴラン・シュヴァリエの名を胸の内で反芻した。


 祈りを携えて来るはずの名だった。


 けれどルシアンには、その名が救いの始まりではなく、教会の奥に閉じられた記録へ踏み込む合図のように聞こえた。

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