名のない骨
セレネの声は、朝の光の中でも冷えていた。フェリクスの執務室には、夜を越えた紙とインクの匂いが滞っている。机の上には、王城側の控え、クライヴがローディア家で写してきた調査ノート、フェリクスが引いた照合線の入った紙片が幾重にも重なっていた。窓の外は白み始めていたが、夜が完全に明けたわけではない。空の青はまだ薄く、石造りの窓枠には冷えた影が残っている。
ルシアンは、セレネの指先が止まった箇所を見た。洗礼記録の欠落。綴じ糸の不自然な跡。ローディア家の調査ノートには、欠落、とだけ几帳面に写されている。王城側の記録には何もない。白百合宮の名簿にも、子どもたちの名はない。だが、眠る宮には小さな寝台があった。子どもの背丈ほどの傷があり、補修された小さな器があり、幼い者がそこで生きた時間が残っていた。
紙の上に名はない。けれど、地下には生きた痕跡があった。
「抜く場所を決めていた、というのは」
「全てを消したのなら、もっと雑でよかったはずです。名簿を焼く。頁を破る。病死記録だけを残して、他は捨てる。それでも、後世の者は十分に困ります」
「実際、困らされたがな」
「ええ。ですが、これは困らせるためだけの処理ではありません」
セレネは王城側の病死記録と、ローディア家の調査ノートを並べた。白い指先が、日付の近い箇所を静かに辿る。彼女の動きに迷いはなかった。ただし、結論を急いでいるわけでもない。手元の痕跡がどこへ繋がるのかを、ひとつずつ確かめている。
「王城には病死と退職が残っています。白百合宮には女官配置の空白が残っています。ローディア家には、眠る宮へ移された女児三名と、王の御幸の後に熱が広がった記述が残っていました。では、洗礼記録だけが完全に見えないのはなぜか」
「教会が持っているからか」
フェリクスが腕を組んだまま、窓際の書架にもたれるように立っていた。徹夜の疲労は顔に出ているが、その目だけは冴えている。
「可能性は高いと思います。子どもを存在しなかったことにしたいだけなら、洗礼そのものを行わなかったことにすればいい。けれど、王家の血を引く可能性がある子どもです。完全に無記録にするには、危険が大きすぎます」
「後から血筋を確認する必要が出るかもしれない」
「はい。表からは消す。けれど、必要な者だけが辿れる場所には残す。そういう管理だったのではないかと」
管理。その言葉が、ひどく冷たく聞こえた。人間の名も、母子の関係も、泣いた夜も、震えた手も、王の病も、全てが紙の置き場所ひとつで扱われている。表に残すもの。裏に回すもの。王家の名誉を傷つけるもの。必要な時だけ取り出されるもの。眠る宮にいた者たちは、そんなもののために生きていたわけではない。
「……教会は知らなかったとは言えないな」
「弔いにも、洗礼にも、記録にも、教会は関わります。ですが、今ここで教会全体を断じることはできません。ただ、少なくとも、当時の誰かが記録の行き先を変えた可能性はあります」
クライヴが静かに口を開いた。
「教会の記録を確認するには、正式な許可が必要になります。特に王家の血に関わる可能性があるものは、通常の閲覧では開かれません」
「王家の血に関わる記録は、王城と同じくらい教会にとっても重い」
フェリクスの声は軽いが、その中にある警戒は消えていなかった。
ルシアンは机の上の資料を見下ろした。白百合宮で見つかった骨。眠る宮に残された生活の痕。王が広げた病。病死として処理された女官たち。北へ移された三人の女児。洗礼記録の欠落。すべてが、ひとつの場所へ向かっている。
弔わなければならない。そう思った瞬間、胸の奥がさらに重くなった。骨を棺へ納め、主神エーテリスを祀る教会の聖職者が祈りを捧げ、香を焚けば終わるのか。白い布で覆い、教会へ渡し、静かな墓地へ移せば、それで彼女たちは救われるのか。違う。名のない骨として葬れば、彼女たちはもう一度、名を奪われる。
「遺骨は、教会へ知らせる必要がある」
それは避けられない。王城内で見つかった遺骨を正式に弔うなら、教会を外すことはできない。王族の血に関わる可能性がある死者なら、なおさらだ。弔いの形式、墓所、祈祷、記録。すべてに教会の名が入る。だが、どの順で、何を渡すかを誤れば、眠る宮の者たちはまた遠ざけられる。
セレネの指が、机の端に置かれた小さな紙片へ移った。白百合宮北側区域の地下で最初に見つかった遺骨に関する保全記録だった。まだ身元は不明。発見場所、骨の状態、布の残滓、周辺の香炉と輪飾りの有無だけが記されている。その時は、ただ異様な骨だった。今は違う。あれは、眠る宮で眠ったまま起き上がらなかった者たちの一部かもしれない。王の病に巻き込まれた女たちかもしれない。王から隠された子どもたちのそばにいた母親かもしれない。あるいは、まだ名を知られていない幼い骨が混じっている可能性すらある。
「このまま教会へ渡せば、身元不明の遺骨として弔われます」
セレネの声は静かだった。
ルシアンは、その意味をすぐに理解した。身元不明という言葉は、便利すぎる。誰の母だったのか、誰の子だったのか、何を奪われ、どこで息絶えたのかを問わずに済む。白い布をかけ、祈りを捧げ、丁重に葬ったという形だけを整えれば、王家はまた、彼女たちを空白の中へ戻してしまう。
「……それでは、また消すのと同じだな」
「はい」
その一言は、いつもの彼女よりも少しだけ硬かった。感情を荒げたわけではない。けれど、その硬さの奥に、譲らないものがあった。
「遺骨は、身元不明として弔ってはいけません」
セレネは静かに言い切った。
「白百合宮北側区域と眠る宮で名を奪われた方々の遺骨として、王家の記録に残すべきです。名が戻らない方も、無名ではなく、名を奪われた者として」
その言葉で、ルシアンの中にあった迷いは消えた。
「ああ。教会へ渡す前に、王家の記録に残す」
フェリクスが低く尋ねる。
「では、どう戻す」
セレネは机の上の資料を少しずつ並べ替えた。王城側の女官名簿、病死記録、退職記録、クライヴの調査ノート、眠る宮の保全記録、白百合宮北側区域の遺骨記録、洗礼記録の欠落を示す紙片。それらを一つの山にせず、確定できるものと、可能性に留まるものとに分けていく。
「感情で一つにまとめると、また誰かの名を取り違えます」
ルシアンは、その横顔を見た。死者を前にしても、セレネは声を荒らさない。けれど、それは冷たいからではないのだと、今なら分かる。感情に任せて一つの名を取り違えれば、取り戻すはずの記録をまた歪めることになる。だから彼女は、誰より静かに、誰より慎重に紙の上の空白を見ていた。
「確定できるものは、王家の追記記録へ入れます。エリアーナ・ローレンの名。彼女が王に執着された女官であること。ヘレナ様の家に伝わる証言と、エリの刺繍が一致する可能性が高いこと。ただし、遺骨との直接の一致はまだ断定しない」
「可能性は可能性のまま書くわけか」
「はい。推測を事実として残せば、また記録が歪みます」
フェリクスが小さく頷いた。
「正しいね。都合のいい物語にしないためには、分からないものを分からないと書く必要がある」
セレネは次に、遺骨の保全記録へ指を置いた。
「弔いの前に、王家側で遺骨と記録を照合する必要があります。誰のものか分からないから一括で、ではなく、なぜ名がないのか、どこで見つかったのか、どう記録から外されたのかを残すべきです」
「王家の記録として残した上で、教会に弔いを求める」
「はい」
教会へ委ねるのではない。王家が抱えたまま、祈りの手を借りる。その違いは大きい。すべてを教会へ預ければ、王家は責任を遠ざけられる。遺骨も記録も、主神エーテリスの祈りの名の下に別の場所へ移され、人々は安堵するだろう。弔われたのならよかった、と。しかし、その時、王家が何を隠し、誰を消したのかまで一緒に遠ざけられてしまう。
「……楽な方へ逃げるな、ということか」
「王家の罪として扱うなら、そうなると思います」
その言葉は、容赦がなかった。けれど、必要な容赦のなさだった。
イザーク・アルヴェリア。第十九代国王。正史には、後宮を拡大し、王家の血を繁栄させた王と残る。けれど、その繁栄の裏には、名を奪われた女たちと子どもたちがいた。王が広げた病があった。眠る宮で起き上がれなくなった者たちがいた。そして、二十代目の王は後宮制度を廃した。それは改革だったのかもしれない。だが同時に、後始末でもあった。母である正妃の反乱の後、旧王を隠居に近い形で表から下げ、王家を守るために、多くの名を戻さなかった。
ルシアンは、喉の奥に苦いものを感じた。
「兄上へ報告する」
言葉にすると、室内の空気が変わった。フェリクスが視線を上げ、クライヴが背筋を正す。セレネだけは、静かにルシアンを見ていた。
「王太子殿下へは、どこまで」
クライヴが問う。
「全部だ。ただし、公表の前に記録を整理する。ヘレナやローレン家を好奇の目に晒すことはしない。眠る宮にいた者たちを、また噂の餌にするつもりもない」
「では、まず王家内部で正式な保全命令を出す必要があるね」
フェリクスが言った。
「北側区域全体を止める必要はない。けれど、眠る宮と遺骨の出た区画だけは別だ。教会の検分が入るまで、誰にも触らせない。遺骨の移動禁止。記録類の持ち出し禁止。現場の配置もそのまま保全する。再開発に入った者たちへの支払いと誓約については、兄上に判断を仰ぐべきだ」
「ああ。現場保全は俺の名で出す。だが、事業の扱いと人払いは兄上に上げる」
「それがいい」
レオニスは王太子だ。王家を守る者であり、未来の王だ。その彼に、王家が消してきた名を突きつけることになる。白百合宮では今、新しい命が祝福されている。リリアーナと生まれた子のいる場所。その華やかな祝福の裏に、眠る宮で隠された母子の記録がある。それを同じ王家の歴史として差し出す。逃げたいと思わないわけではなかった。だが、逃げれば、あの骨はまた名のないままだ。
「殿下」
セレネが静かに口を開いた。
「報告書には、罪を裁くための言葉だけではなく、弔うための言葉も必要です」
「どういう意味だ」
「事実だけを並べれば、あの方々は事件の一部になります」
セレネは遺骨の保全記録へ視線を落とした。
「弔うなら、人として記録するべきです。眠る宮で生きていた方々として」
ルシアンは頷いた。
「ああ。報告書に、そう書く」
彼は机の上の紙を一枚引き寄せた。報告書のための白紙だった。まだ何も書かれていない。その白さが、空白の名簿に似ている気がして、しばらく筆を置けなかった。やがて羽根ペンを取り、最初の一文をゆっくりと書く。
白百合宮北側区域および眠る宮にて発見された遺骨について。
そこまで書いて、手が止まった。遺骨。それだけでは足りない。ルシアンはインクが乾く前に、言葉を足した。
名を奪われた女たちと子どもたちの記録について。
書き終えた瞬間、胸の奥に沈んでいた重さが、わずかに形を変えた。軽くなったわけではない。ただ、どこへ向けるべきかが少しだけ分かった。
フェリクスが、机の向こうで小さく息を吐いた。
「……レオニス兄上には、朝から随分重いものを渡すことになるね」
「俺たちは夜から受けてる」
「それもそうだ」
かすかなやり取りだったが、誰も笑わなかった。
セレネはもう一度、洗礼記録の欠落を見た。
「教会には、いずれ連絡が必要です。ですが、先に王家の記録を整えるべきです。教会が弔う前に、王家が名を戻す姿勢を示さなければ、また別の場所で記録が閉じられます」
ルシアンは頷いた。教会は弔いに来るだろう。祈りの言葉を持って。救いの顔をして。白百合宮の穢れを清めるという名目で、骨と記録を引き取ろうとするかもしれない。その時、王家が何も持っていなければ、すべてはまた誰かの手の中へ消える。
「クライヴ」
「はい」
「ローディア家資料の写しを、出典ごとにもう一度整理しろ。原本が動かせないなら、どの棚のどの綴りかまで残す。兄上へ報告する時、曖昧な資料では通らない」
「承知しました」
「兄上には、俺とフェリクス兄上で報告する。現場と記録、両方が必要だ」
フェリクスは軽く肩をすくめた。
「異論はないよ。ここまで見て、僕だけ書庫に残るわけにもいかない」
クライヴが深く頭を下げた。フェリクスは何も言わず、王統記録を閉じる。その動作は丁寧だった。まるで、紙の中で歪められてきた者たちへ、せめてこれ以上の乱暴をしないように。
セレネは机の端に置かれた遺骨の保全記録を見下ろしていた。白い朝用ドレス。青灰のショール。低くまとめられた黒髪に留まる銀の髪留め。彼女は美しい。だが今のルシアンには、その美しさよりも、彼女が名のない骨を名のないままにしないと言ったことの方が、強く胸に残っていた。
「セレネ」
「はい」
「戻せる名を探すぞ」
セレネは、ほんのわずかに目を伏せた。
「はい」
静かな返事だった。
朝の光が、机の上の白紙と古い記録を同じ色に照らしている。そこには、まだ多くの空白があった。戻らない名もあるだろう。辿れない母子もいるだろう。けれど、空白のまま閉じることだけは、もう許されなかった。
ルシアンは書きかけの報告書を手に取った。その重さは紙の重さではなかった。王家がようやく、眠る宮の扉の向こうにいた者たちを、歴史の中へ戻そうとする重さだった。




