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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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隠された記録

 眠る宮から戻った時、王城の夜は深く沈んでいた。


 白百合宮の奥で嗅いだ白檀に似た香の輪郭が、まだ衣服の奥に残っている気がした。冷えた地下の空気、低く並んだ小さな寝台、何度も繕われた布、子どもの手がつけたような細い傷。どれも地上へ戻ったからといって消えるものではなかった。石造りの廊下を歩いていても、ルシアンの足裏には、あの地下の湿った床の感触が薄く貼りついているようだった。


 セレネは隣を歩いていた。表情はいつも通り静かで、取り乱した様子など一切ない。だが、長い黒髪の端が肩に沿ってわずかに揺れるたび、彼女の歩調が普段より少しだけ遅いことにルシアンは気づいていた。本人に言えば、気のせいです、と返されるだろう。だから口には出さなかった。


 星見宮へ入ると、夜番の侍女が静かに頭を下げた。廊下の灯りは控えめに落とされ、窓の外には雲の切れ間から細い月が見えていた。こんな時間に戻った王族と婚約者を見ても、侍女たちは余計なことを尋ねない。ただ、地下の埃を含んだ裾に一瞬だけ目を落とし、それから何も見なかったように控える。


 セレネの部屋の前で、ルシアンは足を止めた。


「今夜はもう休め」


 セレネがこちらを見上げた。海色の瞳はいつも通り静かだったが、地下から戻るまでの歩調は、普段よりわずかに遅かった。


「資料は」


「明日でいい」


 ルシアンは短く言った。明日まで待てるものばかりではない。だが、少なくとも今この場で、セレネまで眠らせずに連れ回す理由にはならなかった。


「殿下も、お休みください」


「ああ」


 答えた直後、ルシアンはほとんど考えるより先に手を伸ばしていた。


 黒髪に触れる。力を入れたわけではない。乱さないように、ただ軽く、幼い子を寝かしつける時のように二度ほど頭を撫でる。


「もう、眠れ」


 言ってから、自分が何をしたのかに気づいた。


 セレネの海色の瞳が、わずかに見開かれる。背筋は伸びたままで、表情も大きくは変わらない。けれど、ほんの一瞬だけ呼吸が遅れたように見えて、ルシアンの指先に触れていた黒髪の感触が、急にひどく鮮明になった。


 彼は手を引いた。


「……分かりました」


 返事はいつもの静かな声だった。ただ、扉へ向き直るまでの間が、普段よりほんの少しだけ長かった。


「おやすみなさいませ、殿下」


「ああ。おやすみ、セレネ」


 セレネは静かに部屋へ入っていった。扉が閉じるまで、ルシアンはその場を動かなかった。中から鍵のかかる小さな音が聞こえて、ようやく息を吐く。


 眠るつもりなど、最初からなかった。


 フェリクスの執務室へ向かう廊下は、星見宮よりも灯りが少なかった。王族の私的区域を抜け、研究棟に近い一角へ入ると、空気が紙と薬草と古い革の匂いに変わる。深夜にもかかわらず、フェリクスの執務室の下からは細い明かりが漏れていた。


 扉を叩く前に、中から声がした。


「開いてるよ」


 相変わらず耳がいい。ルシアンが扉を開けると、執務室の中には積み上げられた書類と、巻物と、数冊の古い帳面が広がっていた。フェリクスは上着を脱ぎ、袖を肘までまくっている。いつもの気の抜けた笑みはあるが、目元には疲労が薄く溜まっていた。


 その向かいに、クライヴが座っていた。


 ローディア家から戻ったばかりなのだろう。外套には旅の埃が残り、机の上には革表紙の分厚い調査ノートが置かれていた。原本ではない。紙の端には細かな文字がびっしりと並び、写した資料の場所、年代、破損箇所、照合すべき王城側の記録番号まで記されている。


「戻っていたのか」


「はい。遅くなり申し訳ありません」


「いや、十分早い」


 ルシアンは椅子へ腰を下ろす前に、白百合宮の奥で見たものを二人へ伝えた。旧女官区域の物置に隠された階段、地下へ続く通路、低い棚と小さな寝台、何度も繕われた布、子どもの背丈に合わせたような傷、そして、ヘレナが祖母から受け継いで夜ごと香を供えていたこと。声に出して並べるほど、それらは地下に残された痕跡ではなく、そこで生きていた者たちの時間そのものに思えた。フェリクスは途中で一度だけ目を伏せ、クライヴは調査ノートの端に指を置いたまま、最後まで口を挟まなかった。


 やがて、クライヴが調査ノートを開いた。


 紙は新しいが、そこに写された文字の内容は古かった。ローディア家の禁書庫や資料室に残された、正史には載らない覚書の断片。医師の走り書き、古い家令の日誌、後宮廃止前後に交わされた私的な書簡。その多くは破損し、虫食いで欠け、日付も完全ではない。だが、王城側の整いすぎた記録と並べた時、欠けた部分がかえって奇妙な形で浮かび上がった。


「王城の記録にないものばかりか」


「正確には、王城の記録から抜けている部分と噛み合うものです」


 クライヴの声は低かった。


「ローディア家に残っていた原本は、持ち出せる状態ではありませんでした。崩れかけているものも多く、無理に動かせば失われます。ですので、必要箇所を写しました」


 フェリクスが王城側の控えを一枚、机の中央へ滑らせた。


「白百合宮側の病死処理、退職記録、配置替えの不自然さはもう見てきた。そこを繰り返しても仕方ない。問題は、ローディア家側の断片が何を補うかだ」


 ルシアンは調査ノートへ目を落とした。


 そこには、幼き三名、北へ移す、とあった。


 古い筆跡を写したものだろう。クライヴの字の横に、原文は乱れあり、女児と推定、と注が添えられている。


 眠る宮に並んでいた小さな寝台が、脳裏に浮かんだ。子どもの背丈ほどの傷。小さな椅子。補修された器。あれは想像ではなかった。誰かが実際にそこで過ごしていた。


「その三人のうち一人が、ヘレナの祖母だった可能性がある、ということか」


「可能性は高いです」


 クライヴは断定しなかった。だが、声の重さがそれを否定しきれないことを示していた。


「記録では、その三名の名は残されていません。ただ、同じ時期に白百合宮の女官名簿から三つの空白が生じています。空白そのものは既に確認済みですが、ローディア家側の覚書と日付が近い」


「王の目から隠した」


 ルシアンが呟くと、フェリクスが静かに頷いた。


「成長した女児が、母親たちと同じ扱いを受ける可能性があったなら、北へ移す理由はある。閉じ込めた、とも言えるし、守ろうとした、とも言える。どちらにしても歪んでいるけど」


 ルシアンは奥歯を噛んだ。


 正妃を聖女にするつもりはなかった。閉ざされた側にとって、扉が閉まった事実は変わらない。だが、あの小さな寝台を見た後では、ただ憎んで閉じ込めた、と言い切ることもできなくなっていた。


 そこから先は、言葉よりも紙の音の方が多かった。


 クライヴはローディア家で写した調査ノートを年代順に並べ替え、欠けた頁や読めなかった箇所には細い紙片を挟んでいった。フェリクスは王城側の控えから対応する年号を探し出し、女官名簿、病死記録、退職記録、王統記録を机の上で何度も入れ替える。ルシアンは二人が示した箇所へ印をつけ、同じ年に重なる出来事を別紙へ書き出していった。


 最初に浮かび上がったのは、幼き三名、北へ移す、という短い記述だった。その周辺の年だけ、白百合宮の女官配置が妙に整いすぎている。次に、眠ったまま、起き上がらず、という医師の覚書が複数の頁に現れた。同じ時期、王城側では病死と退職が増えている。さらに旧王、第十九代国王イザーク・アルヴェリアの長患いに関する王統記録を引き出した時、ローディア家の覚書に残る症状と、王の病状の言葉が不気味なほど近く並んだ。


 熱が引かない。長く眠る。呼びかけへの応答が鈍る。


 美しい言葉で整えられた王城の記録と、乱れた文字で残されたローディア家の覚書では、書かれ方がまるで違っていた。それでも、紙の上で並べてしまえば、同じものを別の場所から見ているようにしか思えなかった。


 クライヴが、調査ノートのさらに後ろを開いた。


「こちらは、医師ではなく、白百合宮に出入りしていた管理役の控えと思われます。原本は水濡れでかなり崩れていましたが、この一文だけは読めました」


 彼の指が、写しの一行を押さえる。


 王の御幸の後、北奥に同じ熱広がる。


 ルシアンは、しばらくその文字を見つめた。


 王が白百合宮へ通った。王が女たちを呼んだ。王が、眠る宮に隠された者たちのいる場所へ近づいた。そして、その後に同じ熱が広がった。


 それはもう、偶然の並びではなかった。


「王が広めたのか」


 声が低く沈んだ。


 フェリクスはすぐには答えなかった。だが、否定もしなかった。王統記録の綴じ目を指で押さえ、そこに残る飾られた言葉をしばらく見下ろしてから、静かに言う。


「この記述を信じるなら、そうなる。少なくとも、白百合宮の奥で広がった病は、王の出入りの後に増えている。そして旧王自身も、似た症状で倒れている」


「自分で広めた病で、自分も倒れた」


「記録上は、長患いのため政務を退いた、とだけある。けれど、ローディア家の控えと照らせば、白百合宮で広がった病と無関係とは言えない。むしろ、関係があったからこそ、正史から切り離されたと見るべきだと思う」


 フェリクスの声は柔らかいのに、内容は少しも柔らかくなかった。


 ルシアンは息を吐こうとして、うまく吐けなかった。王が病を持ち込み、女たちと子どもたちの間へ広げた。眠る宮で、眠ったまま起き上がらなくなる者が増えた。その一部が、あの白い布の下にいたのだとしたら。


 怪異ではない。呪いでもない。


 それでも、あれほど救いのないものを、人は何と呼べばいいのだろう。


 クライヴが次の紙片を示す。


「その後の記録では、第十九代王は公の場へ出る回数を減らしています。表向きは養生です。しかし、二十代目の王が実権を握る時期と、後宮制度の廃止に関する初期の動きが重なります」


「二十代目は、正妃の子だな」


「はい」


 フェリクスが応じた。


「旧王を弑したわけではない。正史でもそうなっている。ただ、隠居に近い形で表から下げた。その上で、後宮制度を廃した。改革として語られてきたけど、実際には白百合宮で起きていたことの後始末でもあったんだろうね」


「後始末」


 口にした瞬間、嫌な響きになった。


 人を隠し、名を消し、病死や退職として処理し、子どもたちを別の場所へ移す。それを後始末と呼べるのなら、王宮の記録はどこまでも冷たい。


 フェリクスが、洗礼関係の控えを机の中央へ寄せた。


「正妃一人では無理だよ。女官の配置、医師の記録、子どもの名、洗礼、地方への移送。これだけの処理を長く続けるなら、白百合宮の中だけでは完結しない」


「教会か」


「関わっていない方が不自然だ」


 今度はフェリクスも濁さなかった。


「子どもが生まれたなら、通常は出生の届けと洗礼の記録が残る。王家の血を引く可能性がある子どもなら、なおさらだ。でも、王城側にはない。白百合宮側にもない。ローディア家の控えでは、洗礼に関する頁だけが抜かれている。綴じ糸の跡も不自然だ」


 クライヴの調査ノートには、欠落、綴じ糸不自然、と几帳面な字で添えられていた。


 ルシアンはその文字を見た。


 消されたのではない。


 消す前提で、置く場所を分けられていた。


 そう考えると、これまで見てきた不自然さが嫌な形で揃っていく。女官名簿の空白も、退職記録も、病死処理も、洗礼記録の欠落も、それぞれがばらばらの隠蔽ではない。最初から、表に残すものと残さないものが決められていたのだ。


「……気持ち悪いな」


 ルシアンは吐き捨てるように言った。


「人を消すための仕組みが、最初から整ってる」


 フェリクスは何も返さなかった。クライヴも沈黙した。三人の間に広がっているのは、答えではなく、答えを紙の上に見つけてしまった時の重さだった。


 フェリクスが一度、王統記録の綴じ目を確認しに書架へ立った。クライヴはその間に、洗礼関係の控えを書き写した頁を広げ、欠落した綴じ糸の位置をルシアンへ示した。ルシアンは何度も年号を見直した。眠る宮に子どもの痕跡があった年、病死処理が増えた年、旧王が表に出なくなった年、二十代目の王が後宮制度を廃した年。それらは一直線には並ばない。だが、離れた点のように見えていたものが、時間をかけるほど、嫌な形で繋がり始めていた。


 途中、侍従が一度だけ茶を運んできた。誰もほとんど口をつけなかった。冷めた茶の表面に薄い膜が張る頃には、机の上の紙片はさらに増え、フェリクスの照合線は何本も交差していた。窓の外はまだ暗かったが、夜の底にわずかな青みが混じり始めている。眠気はあった。だが、それ以上に、ここで手を止めれば大事なものをまた見失うような気がして、ルシアンは羽根ペンを置けなかった。


 やがて、フェリクスが低く呟いた。


「……これは、正妃だけじゃないね」


 その言葉を、誰も否定しなかった。


 白百合宮の奥で女たちを隠した者がいた。子どもたちを表から消した者がいた。王が広げた病を、ただの病死として処理した者がいた。退職を退職として整え、洗礼の記録だけを別の場所へ逃がした者がいた。そこに善意が混じっていたとしても、仕組みとして運用された時点で、それはもう一人の判断では済まない。


 何度目かの照合を終えた頃、窓の外が白み始めていた。


 机の上には、王城側の控えとクライヴの調査ノート、フェリクスが引いた細い照合線が幾重にも重なっていた。乾いたインクの匂いが鼻の奥に残り、目の奥が鈍く痛む。誰も眠ろうとは言わなかった。言えば、その瞬間に緊張が切れると分かっていた。


 扉が静かに叩かれた。


 返事をする前に、ルシアンは嫌な予感がした。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、セレネだった。


 昨夜とは違う装いだった。月光を薄く重ねたような白い朝用ドレスに、青灰のショールを合わせている。布地は柔らかく、朝の光を受けると冷たく澄んで見えた。詰まった襟元と細い袖口が、彼女の白い肌をいっそう静かに際立たせている。長い黒髪は低い位置でまとめられ、銀の髪留めがひとつ留まっていた。小さな青い石は派手ではない。それなのに、黒髪の中で深い海の欠片のように光り、ルシアンの目には妙にはっきり映った。


 調査の邪魔になるから渡しただけだ。


 そう思ったはずだった。


 だが、彼女が当然のようにそれを使っているのを見ると、胸の奥が落ち着かなくなる。昨夜の地下の冷えがまだ残っているはずなのに、そこだけ妙に熱を持った。


 セレネは室内へ入ると、机の上の資料ではなく、まず三人の顔を順に見た。


 そして、ほんの少しだけ眉を寄せた。


「……寝ましたか」


 フェリクスがにこりと笑った。


「おはよう、セレネ嬢」


「質問に答えてください」


「朝の挨拶は大事だよ」


「寝ましたか」


 同じ声だった。抑揚はほとんどない。だが、なぜか逃げ道だけが綺麗に塞がれている。


 ルシアンは視線を逸らした。クライヴは真面目な顔のまま黙っている。フェリクスだけが、困ったように肩をすくめた。


「少しは目を閉じたよ」


「寝台を使いましたか」


 フェリクスの笑みが止まった。


 セレネは三人をもう一度見た。大げさに呆れるわけではない。ため息をつくわけでもない。ただ、目元がうっすら冷えている。その静かな圧に、ルシアンはなぜか叱られた子どものような気分になった。


「お前こそ、休んだのか」


「私は寝台を使いました」


「時間は」


「殿下よりは確実に」


「答えになってない」


「殿下もです」


 即座に返され、ルシアンは黙った。フェリクスが横で小さく笑い、クライヴが咳払いで誤魔化す。


 セレネは机に近づき、広げられた資料へ視線を落とした。その瞬間、彼女の空気が変わる。疲れた三人を見ていた時の静かな呆れは引き、いつもの冷静な観察者の顔になる。


 白い指先が、クライヴの調査ノートの端に触れた。


「ローディア家の資料ですか」


「ああ。クライヴが写してきた」


「原本は」


「傷みがひどくて持ち出せなかったそうだ」


「正しい判断です」


 セレネは短く言い、王城側の記録と調査ノートを見比べた。頁をめくる音が、朝の白い光の中でやけに鮮明に聞こえた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて王の御幸の後、北奥に同じ熱広がる、と記された一行で指を止めた。


 そこから洗礼記録の欠落へ視線を移す。


 ルシアンは、その指先を見た。


 昨夜から何度も見た箇所だ。欠けている。抜けている。不自然に整えられている。そう思った。だが、セレネの目は、そこを少し違う角度から見ているようだった。


「セレネ?」


 彼女はすぐには答えなかった。


 海色の瞳が、王城側の記録、ローディア家の調査ノート、欠けた頁の注記、そして女官配置の控えを順に辿る。


「ここだけが抜けているのではありません」


 静かな声だった。


「抜く場所を、最初から決めていたのだと思います」


 朝の光が、机の上の紙を白く照らしていた。


 その白さの中で、消された名の跡だけが、ようやく輪郭を持ち始めていた。


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