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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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眠る宮

「……ご案内させていただきたいところがあります」


 応接室へ落ちた掠れ声に、ルシアンはゆっくり顔を上げた。ヘレナはまだ涙の跡を残していたが、泣き腫らした瞳の奥には、先ほどまでとは違う静かな覚悟が戻っていた。


「祖母から、決して口外してはならないと言われていた場所です。私も幼い頃、一度だけ祖母に連れられて入ったことがあります」


「地下か」


「……はい。ただ、特務隊の皆様が調べておられた場所とは別です」


 これまで調べていた地下は、北側離宮群の崩落箇所から露出していた古い通路だった。だがヘレナの口ぶりは、それとは別に、白百合宮の内部からしか入れない場所が存在していることを示していた。


「祖母は、あの地下を眠る宮と呼んでおりました。白百合宮の中からしか辿り着けない道があります。女官以外は、ほとんど知らされていなかったのだと思います」


 ヘレナはそこで息を整えた。


「祖母は申しておりました。夜に呼ばれた方々は、表の回廊を歩かされることはなかったと」


「人目を避けていたのか」


「……おそらくは。白百合宮北側は、王族方の生活区域からも離れております。女官たちですら、許可なく近づくことはありませんでした」


 セレネは静かに目を伏せた。


「だから記録へ残りにくかったのですね。人目につかず移動できる構造なら、誰がいつ消えたのかも曖昧になります」


 ヘレナはゆっくり頭を下げた。


「今まで黙っていて申し訳ございません。ですが、特務隊の皆様がここまで調べてくださったからこそ、もう隠し続けるべきではないのだと思えるようになりました。祖母は、生きている間ずっと恐れておりました。眠る宮のことを表へ出せば、再び消されるのではないかと……それは、私も同じでした」


 ルシアンはわずかに目を細めた。


「だから、誰にも話せなかったのです。白百合宮で生きていく限り、王家へ逆らうことは許されないのだと、ずっと思っておりました」


 その時、セレネが静かにヘレナの瞳を見た。


「王家の瞳……」


 小さく落ちた声に、ルシアンの胸の奥が鈍く沈む。涙に濡れた茶色の瞳の奥で、淡い金色だけが静かに滲んでいた。


「祖母は、もっと王家の方々に近い瞳だったそうです。空色へ金が混ざる色だったと、母がよく話しておりました。ただ、祖母は晩年になるにつれ目が見えにくくなり、色も曇っておりましたので……私自身は、はっきりとは覚えておりません」


 ヘレナは小さく息を吐いた。


「母は金が強く出るようになり、私は感情が高ぶった時だけ、金が残るようになりました」


 王家の瞳は、本来、空色へ夕焼けを溶かしたような独特の色彩を持つ。父系で強く継承される王族特有の特徴だった。けれどヘレナの瞳は違う。普段は茶色に近い色合いの奥へ、感情が揺れた時だけ金が滲む。


「女系で血が続いたのでしょうね」


 セレネの声は静かだった。名を変えられ、記録から消された子どもたちの血が、それでも完全には消えずに残っている。その事実を前に、ルシアンは何も言えなかった。


「……こちらです」


 ヘレナが立ち上がり、三人は応接室を後にした。夜の白百合宮は静まり返っている。磨かれた床へ足音だけが細く響き、壁へ掛けられた灯りが長い影を揺らしていた。


 現役女官たちが使う区域を抜けるにつれ、人の気配は少しずつ薄れていった。窓は減り、冷えた空気が古い回廊へ滞っている。


「北側離宮が閉鎖されて以降、この辺りもほとんど使われなくなりました。以前は夜勤女官の控室もございましたが……今は封鎖されております」


 やがてヘレナは古い扉の前で足を止めた。一見すると物置にしか見えない小部屋だったが、鍵穴だけは比較的新しく、扉の周囲には人の手が触れたような擦れ跡が残っている。


「祖母から預かっていた鍵です」


 小さな金属音と共に扉が開いた。中には使われなくなった燭台や布箱が積まれ、長年閉ざされていた空気の匂いが薄暗い室内へ重く滞っていた。ヘレナは迷いなく奥へ進み、壁際へ置かれていた古い棚へ手を掛ける。重い音を立てて棚がわずかに動き、その奥から細い石階段が姿を現した。


 地下から流れ出してきた冷気が、ゆっくり頬を撫でる。


「幼い頃、祖母に連れられてここを通りました。夜になると、祖母は地下へ香を供えに行っていたのです」


 ルシアンはわずかに目を細めた。白百合宮では昔から、夜になると甘い香が漂うという話が残っていた。誰も姿は見ていない。ただ閉ざされた北側廊下で香だけが漂う。それを気味悪がる者も少なくなかった。


「白百合宮で、時折香の匂いがすると噂になっていたことがございましたが……おそらく、それは祖母と私だったのでしょう」


 ヘレナは石階段を見下ろしたまま、小さく息を吐く。


「祖母は、地下で眠れなかった方々へ香を焚くのだと申しておりました。忘れてはならないと……ずっと。祖母が亡くなってからは、私が続けておりました」


 地下で漂っていた甘い香は、怪異のためのものではなかった。忘れられた女たちを弔うために、ヘレナが人目を避け、この細い通路を通って供え続けていたものだったのだ。


 三人は細い石階段を降りていく。地下へ近づくにつれ、空気はさらに湿り気を増した。石壁には古い水染みが走り、灯りへ照らされた床の凹凸が不規則な影を落としている。


 やがて階段が終わった瞬間、ルシアンは思わず息を止めた。


 以前調査した地下にも、古い生活用品や香炉は残されていた。だが、ここは明らかに違う。通路の両脇へ低い棚や寝台が規則的に並べられ、擦り切れた布は何度も繕われ、食器にも長く使われた摩耗が残っていた。何より、置かれている寝台が小さい。成人用ではなく、幼い子どものための大きさだった。


 セレネが静かにしゃがみ込み、寝台の布へ触れる。


「……何度も補修されていますね。使い捨てる前提ではありません」


 ルシアンは周囲を見渡した。壁の低い位置には、子どもの背丈ほどの傷が幾つも残っている。小さな椅子の脚は割れた箇所を布で巻き直され、古い器にも長く使われていた摩耗が見えた。


 地下牢ではない。けれど、普通の生活空間でもない。陽の差さない場所で、人知れず息を潜めながら生きていた痕跡だけが、静かに残されている。


 セレネは古い香炉の前へ視線を落とした。


「以前の香と同じ系統です」


「分かるのか」


「白檀系ですが、香水としては重すぎます。鎮静用の調合ですね」


 セレネは小さな寝台を見つめたまま続けた。


「女たちは、夜になるたび、いつ王へ呼ばれるか分からなかったのでしょう。恐怖で眠れなくなる方も多かったはずです」


 ルシアンの脳裏へ、ヘレナが語った夜の白百合宮が蘇る。甘い香の漂う廊下を、王の部屋へ向かって歩いていく女たち。怯えながら、それでも逆らえなかった夜。王に呼ばれなかった者も、次は自分かもしれないという恐怖の中で眠れなかったのだろう。


「最初、この場所は隠すために使われていたのでしょう」


 セレネは静かに言った。


「女たちは閉じ込められ、名前を消され、表へ出されなかった。ですが途中で変わったのだと思います」


「変わった?」


「はい。ここには、生かそうとした痕跡が残っています」


 セレネの視線は、繕われた布や子どもの寝台、長く使われた生活用品を一つずつ確かめていた。


「正妃は、王を止められなかった。だからせめて、隠して生かそうとしたのではないでしょうか」


 ヘレナが小さく息を呑む。


「閉じ込めたことは事実です。救済だったとは言えません。ですが、死なせないようにしたかったのだと思います」


 ルシアンは何も言えなかった。王家の歴史として語られてきたものと、地下へ残されている現実があまりにも違いすぎる。正妃が守ったのか、閉じ込めたのか。そのどちらか一つに決められるほど、この場所に残った痕跡は単純ではなかった。


 ヘレナは古い香炉の前で足を止めた。灰は新しくはないが、乱雑に捨て置かれたものではない。誰かが長い間、そこを弔いの場所として扱い続けてきたことだけは分かった。


「祖母が亡くなってからは、私が来ておりました」


 掠れた声だった。


「夜になると、ここへ香を供えていたのです」


 ルシアンは静かに目を伏せた。白百合宮で語られていた香の噂も、夜の北側廊下で漂う甘い匂いも、怪異などではなかった。忘れられた者たちを弔い続けていた、一人の老女の足音だったのだ。


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