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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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白百合宮に残された沈黙

 ヘレナは、まだ泣いていた。


 涙は頬を伝い、膝の上で組まれた指先へ静かに落ちていく。それでも彼女は顔を覆わなかった。今にも崩れ落ちそうなのに、背筋だけは無理にでも伸ばし続けている。その姿が、長く白百合宮へ仕えてきた女官としての矜持を、かろうじて繋ぎ止めているように見えた。


 ルシアンは、すぐには言葉をかけられなかった。


 エリアーナ・ローレン。


 色狂い王に執着された女官。


 ヘレナの口から語られた夜の記憶は、まだ応接室の空気へ重く沈んだまま残っている。白百合宮の奥で、本当に息をし、怯え、眠れぬ夜を過ごしていた女たちがいたのだと、否応なく突き付けられていた。


「……正妃の反乱は」


 ようやく口を開いた声は、自分でも驚くほど低かった。


 ヘレナの肩がわずかに震える。


「あの王の行いと、関係があるのか」


 問い掛けたあとも、ルシアンは視線を逸らさなかった。


 正史に記された反乱。


 そして、ヘレナが語った夜の白百合宮。


 その二つが無関係だとは、もう思えなかった。


 ヘレナはすぐには答えられなかった。涙に濡れた睫毛を伏せ、浅い呼吸を繰り返している。その沈黙の長さが、彼女自身も確かな答えを持っていないことを物語っていた。


「……分かりません」


 掠れた声だった。


「祖母も、その母であるエリアーナ様も、多くを語れる立場ではございませんでした。私が知っているのも、断片だけです」


 そこで小さく息が詰まる。


「ですが……」


 ヘレナは涙を拭わないまま顔を上げた。


「正妃様は、祖母たちを恨んでおられたのだと思います」


 ルシアンはわずかに眉を寄せる。


「側妃様方も、王の御前へ呼ばれた女官たちも……あの方にとっては、王へ侍る者だったのでしょう」


 掠れた声は静かだった。


 静かであるほど、長い年月胸の奥へ沈められていた感情のように聞こえる。


「だから白百合宮北側を閉ざし、離宮へ留め置いたまま、表へ出さなかったのだと……私は、そう思っておりました」


 ルシアンは言葉を返せなかった。


 ヘレナにとって正妃は、女たちを救った存在ではない。閉ざした側の人間なのだ。そう考えなければ、地下へ隠され、名を消されて生きた祖母たちの人生を受け止めきれなかったのかもしれない。


「……そうでしょうか」


 静かな声が落ちた。


 ルシアンは隣を見る。


 セレネはヘレナを見つめたまま、ゆっくり目を伏せていた。感情を大きく表へ出しているわけではない。ただ、その海色の瞳だけが、差し出された言葉の奥を探るように静かに揺れている。


「ヘレナ様のお話を否定したいわけではありません」


 セレネは穏やかな声で続けた。


「ただ、先ほどミレイユ様から、布の調査結果を伺いました」


 ルシアンはわずかに視線を上げる。


 白百合宮へ向かう途中、回廊の角から慌てた様子のミレイユが現れたのを思い出した。抱えていた紙束を落としかけながら駆け寄ってきた彼女は、息を切らしたまま、繊維と染料についてセレネへ説明していた。


「あの、エリの刺繍があった布か」


「はい」


 セレネは静かに頷く。


「あの生地は隣国製でした。この国ではほとんど流通しておらず、保存に使われていた香油も、王宮の限られた経路でしか扱えないものだそうです」


 ルシアンは無意識に息を浅くした。


 ただの女官が個人で手に入れられる品ではない。


 それくらいは、すぐに分かる。


「もし、エリがエリアーナ・ローレンを指すのなら」


 セレネは静かな声で続けた。


「誰かが彼女へ与えていたことになります。恨み、閉じ込め、存在を消すだけなら、そのようなものを残す必要はありません」


 ヘレナの呼吸がわずかに止まる。


 セレネはそこで少し目を伏せた。


「それに、ヘレナ様のお祖母様は、生き延びたあと、女官として白百合宮へ残っておられたのでしょう」


「……はい」


 ヘレナが小さく頷く。


「もし、本当に正妃が祖母様たちを憎んでおられたのなら、再び宮へ置くでしょうか」


 応接室へ沈黙が落ちる。


 ルシアンは息を詰めたまま、セレネを見つめていた。


 確かに、憎んでいるだけなら遠ざければいい。名を変えた子どもたちを再び白百合宮へ置き、女官として残す理由がない。


 だが実際には、残されている。


 存在を隠されながらも、完全には切り捨てられていない。


「もちろん、正解かどうかは分かりません」


 セレネは静かに続けた。


「調べたことと、今のヘレナ様のお話を合わせて考えたものです」


 その声音は、決して断定的ではなかった。


 だからこそ、余計に重く響く。


「ですが私は、正妃は王を止められなかったことを悔いていたのではないかと思っています」


 ルシアンの脳裏へ、ヘレナが語った夜の光景が蘇る。


 甘い香の漂う廊下を、エリアーナは王の部屋へ向かって歩いていった。その先で待っていたのは、怒声でも狂気でもなく、優しく笑っていたという王だった。だからこそ、その記憶は余計に息苦しいものとして胸へ残る。


「王と争おうとしたのは、王位が欲しかったからではなく」


 セレネはゆっくり言葉を選ぶように続けた。


「これ以上、白百合宮へ呼ばれる女を増やしたくなかったのかもしれません」


 ヘレナの瞳が揺れる。


「名を変え、記録を消し、離宮を閉ざしたことが、優しさだったとは思いません。閉ざされた側には、別の苦しみがあったはずです」


 セレネは静かに目を伏せた。


「けれど、切り捨てるためだけの隠蔽なら、生き延びさせる必要がありません」


 ルシアンは何も言えなかった。


 セレネは、美しい言葉で正妃を救おうとしているわけではない。残された布や香油、偽名へ書き換えられた記録、女官名簿の不自然な空白――そうした痕跡を一つずつ繋ぎ合わせた先に、歪な矛盾を見つけているだけだ。


「……それでも」


 ヘレナの声が震えた。


「祖母たちは、閉じ込められました」


「はい」


 セレネは静かに頷く。


「正妃が何を悔いていたとしても、閉ざされた側には届かなかったのだと思います」


 ヘレナは俯いたまま、何も言わなかった。膝の上で組まれた指先へさらに力が入り、堪えるように浅い呼吸だけが小さく揺れている。


「私は……正妃様は、憎んでおられたのだと思っておりました」


 小さく掠れた声が落ちる。


「憎みながらも、それを表へ出さず、最後まで王妃として振る舞われたのだと」


 ルシアンは、胸の奥が重く沈んでいくのを感じていた。


 正妃が憎んでいたのか、悔いていたのか。その答えは、もう誰にも分からないのかもしれない。


 だが、どちらであったとしても、白百合宮北側で生きた女たちの時間は消えない。


 閉ざされた離宮で、名を奪われ、眠るように沈められていった命が確かにあったのだ。


「……あの方は、最後まで隠そうとしておりました」


 ヘレナは暖炉の赤を見つめたまま、掠れた声で言った。


「眠る宮を」


 その名を聞いた瞬間、地下へ降りた時に見た湿った石壁や、灯りの届かないまま奥へ続いていた通路の光景が、ルシアンの記憶の奥でゆっくり蘇る。古いものに紛れきらず残っていた、あの甘い香まで思い出した途端、胸の奥へ鈍い重さが沈んだ。


「地下には……まだ残っております」


 ルシアンはゆっくり息を吐いた。


 胸の奥で燻る怒りは消えない。


 だがそれは、怒鳴り声になるにはあまりにも重かった。


 地下の奥に、まだ何かが残っている。


 それを確かめなければならないと、ルシアンは静かに思っていた。

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