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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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夜香の記憶

※この作品には、一部性的な表現や暴力的な描写が含まれています。

作品はそれらの行為を肯定するものではありませんが、

そういった表現に対して不快感や不安を感じる方は、ご自身と相談のうえ、お読みください。

 暖炉の火が静かに揺れていた。


 乾いた薪の爆ぜる音だけが、応接間へ小さく落ちる。


 赤い灯りは室内を柔らかく照らしているはずなのに、空気はどこか重かった。閉ざされた部屋の中へ、長い年月沈められていたものが、ゆっくり浮かび上がってきている。


 そんな息苦しさがあった。


 ヘレナは俯いたまま涙を流している。


 頬を伝う雫はもう止まっていなかった。


 それでも彼女は顔を覆わない。


 長く白百合宮へ仕えてきた女官らしく、背筋だけは今も崩れていなかった。乱れまいとしているのが分かるからこそ、膝の上で強く組まれた指先の震えが余計に痛々しい。


 ルシアンは何も言わなかった。


 急かしてはいけない気がした。


 ヘレナは今、問い詰められて口を割っているわけではない。


 長い時間をかけて抱え込み、守り続けてきたものを、自分の意思でようやく差し出そうとしている。


 その沈黙の重さを、軽々しく壊したくなかった。


「……逃げ延びた子どもたちは、皆、別の名を与えられました」


 掠れた声が静かな応接間へ落ちる。


「女官として育てられた者もおります。地方へ下がった者もいたと聞いております」


 暖炉の火が小さく爆ぜた。


 ヘレナはその音へ一瞬だけ目を伏せる。


「名前を消されれば、生き延びられると……そう言われていたのでしょう」


 恨みを吐き出すような声音ではなかった。


 ただ、あまりにも長い時間を抱え続けてきた疲労だけが、静かに滲んでいる。


 セレネも口を挟まない。


 海色の瞳だけが、ヘレナの浅い呼吸や、わずかに強張る指先を静かに見つめていた。


「……私の祖母は、そのうちの一人でした」


 ルシアンはわずかに眉を寄せる。


 ヘレナは暖炉の火を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「エリアーナ・ローレンの子どもです」


 応接間の空気が静かに沈む。


 だがヘレナは、もう隠そうとはしなかった。


 涙を流したまま、ゆっくり続ける。


「祖母は、幼い頃のことを多くは語らなかったそうです。ですが夜になると、時々、香の匂いで目を覚ましていたと申しておりました」


 暖炉の火が揺れる。


「甘い香りだったそうです。白檀に似ていて……けれどもっと重く、息へ絡みつくような匂いだったと」


 その言葉を聞いた瞬間、地下通路の空気がルシアンの脳裏へ蘇った。


 湿った石壁の冷たさ。


 灯りの届かない奥へ続く薄暗い通路。


 そして、あの甘い香。


 地下へ降りた時は、古い石壁へ染みついた残り香だと思っていた。


 だが違う。


 あれは、ただの匂いではない。


 あの地下に閉じ込められていた女たちの記憶そのものだった。


「その夜、王の御前へ上がる方が決まったと聞いております」


 ヘレナはそう言って、ゆっくり目を伏せた。


「エリアーナ様が呼ばれたそうです」


 暖炉の火が静かに揺れる。


「侍女たちは誰も顔を上げず、ただ黙々と支度をしていたと……祖母は申しておりました」


 その声音には、遠い記憶をなぞるような静けさがあった。


「祖母は幼かったのでしょう。母親が寝台を離れる気配で、目を覚ましてしまったそうです」


 ヘレナの指先がわずかに震える。


「エリアーナ様は、祖母を起こさないよう静かに部屋を出ていかれたそうですが……祖母は、不安だったのでしょう」


 涙がまた頬を伝った。


「後を追ってしまったと聞いております」


 ルシアンは無意識に息を詰めていた。


「夜の白百合宮は、とても静かだったそうです」


 掠れた声が、暖炉の火の音へ重なる。


「甘く、ねっとりとした香が廊下へ漂う中を、エリアーナ様は一度も振り返らず歩いていかれたと……祖母は申しておりました」


 やがてヘレナの声が、わずかに低くなった。


「祖母は……その隙間から中を見てしまったそうです」


 応接間の空気が、音を失ったように冷えていく。

 ヘレナは俯いたまま、息を整えるように一度目を閉じた。


「扉は、完全に閉まっていなく…」


 そして、ゆっくりと語り始めた。

 暖炉の火が不気味に爆ぜた。


「優しく、微笑んだ王がおられたと聞きました。……でも、それは本当に優しい笑みではなかった」


 ヘレナの声は震えていたが、はっきりと続けた。


「王は、まるで壊れやすい宝物を愛でるような目でエリアーナ様を見下ろしていたそうです。けれどその目は、底の知れない狂気を湛えていて、祖母はただでさえ幼い心が凍りついたと言っていました」


 ヘレナはそこで言葉を切り、指を強く握りしめた。


「エリアーナ様は……すでに体中が傷だらけで、首筋から胸、腰、太腿まで、指の跡や歯形、紫色の痣が無数に重なり、ところどころ皮が裂けて血が滲んでおられたそうです。それでも王は、エリアーナ様を手放さなかった」


 ルシアンの背筋に冷たいものが走った。


「その時の祖母は何が起きているのか、よく分からなかったと言っていました。ただ、母親が痛がっていることだけは、はっきりと感じ取ったと」


 ヘレナの頬に涙がまた伝った。


「祖母ははっきりと目に焼きついていると言っていました。エリアーナ様が王に組み敷かれ、激しく犯されるたび、喉を裂くような叫び声を上げていたそうです」


 ヘレナの瞳に、遠い恐怖がよぎる。


「何度も、何度も。最初は必死に声を殺そうとしていたのに、すぐに耐えきれなくなって、部屋中に響くほど大きく叫んでいたと」


 ルシアンは涙を流す、ヘレナから目を背けることができなかった。

 嗚咽を漏らしながら、自分に起きたことのように話すヘレナは今にも崩れ落ちそうだった。


「ことが終わって日が上り始めた頃にエリアーナ様は部屋から出てきて、祖母を見つけ何も言わずに手を繋いだそうです。……あの時、エリアーナ様の手だけが、震えながら自分手に握ったことを祖母は死ぬまで忘れられないと言っていました」


 暖炉の火が小さく爆ぜた。


「エリアーナ・ローレンは、何度子を産んでも終わらなかったのです」


 ヘレナが掠れた声で続ける。


「呼ばれるたびに香が焚かれ、色狂い王の執着はますます激しくなりました。生まれた子はすぐに殺されたそうです。それでもエリアーナ様は、傷だらけの体を引きずって、何度も王の寝所へ呼ばれました。拒むことなど、許されなかった」


 ヘレナはゆっくりと顔を上げた。涙の奥で、銀色に光った瞳が揺れている。


「王は、あの方に異常なほど執着していました。

他にもたくさんの蝶がおり、手当たり次第新しい人を入れ替えていたのに。壊れかるまで、犯し続けたのです」

 

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