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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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金色の沈黙

 夜の白百合宮は静かだった。


 王城の南回廊を抜け、ルシアンとセレネはそのまま白百合宮へ向かう。高い窓の外では、月光を受けた白百合が風に揺れていた。


 地下調査が始まって以降、この宮の空気は少し変わった。


 侍女たちもそれを感じているのだろう。すれ違う人数は少なく、足音もどこか控えめだった。誰も事情を尋ねてこない代わりに、宮全体が静かに息を潜めているような気配がある。


 セレネも無言のまま歩いていた。


 時折、閉ざされた回廊の奥へ静かに視線を向けている。その横顔を見ながら、ルシアンは小さく息を吐いた。


 この女は昔からこうだった。


 何か引っかかるものがある時ほど静かになる。騒がず、感情も見せない。ただ、目だけが普段より鋭くなる。


 地下でもそうだった。


 香炉を見つけた時、最初に「最近まで使われていた可能性」を疑ったのもセレネだ。怪異そのものではなく、人間の痕跡を見ようとする。


 だから今も、白百合宮の沈黙をただ不気味がっているわけではないのだろう。


 誰が、何を隠してきたのか。


 その気配を見ている。


 やがて二人は応接間へ通された。


 暖炉の火が静かな赤を揺らしている。


 その灯りのそばで、リリアーナがゆっくり立ち上がった。


 淡い桃色の髪が火の色を受け、柔らかな光を帯びている。夜更けの訪問を受けるには少し薄い肩掛けを羽織っているあたり、すでに休んでいたところを出てきたのだろう。


「遅い時間に申し訳ありません、義姉上」


 ルシアンが言うと、リリアーナは静かに微笑んだ。


「いいえ。……今夜はいらっしゃる気がしていました」


 穏やかな声だった。


 けれど、その声音には白百合宮の変化を察している者特有の静かな緊張が滲んでいる。


 北側区域の封鎖も、王族特務隊の出入りも、この宮で暮らしていれば気づかないはずがなかった。


 それでもリリアーナは、何が見つかったのかを尋ねようとはしない。


 正式な報告が王太子へ上がるまで待つつもりなのだろう。軽々しく踏み込めば、白百合宮に仕える女たちを余計に怯えさせることになると分かっている。


「あまり無理はなさらないでくださいね」


 リリアーナが静かに言った。


 その視線は、ルシアンではなくセレネへ向いている。


 セレネはわずかに目を伏せた。


「ありがとうございます」


 短い返答だったが、その声音は普段より少し柔らかかった。


 リリアーナは安心したように微笑み、それから侍女へ視線を向ける。


「ヘレナを呼んでちょうだい」


「かしこまりました」


 侍女が一礼し、静かに部屋を出ていく。


 暖炉の火が小さく爆ぜた。


 その音が消える頃、控えめなノックが響く。


「失礼いたします」


 扉が開き、ヘレナ・ローレンが姿を見せた。


 深い茶色のドレスを纏い、白髪混じりの髪をきちんと結い上げている。長く白百合宮へ仕えてきた古参女官らしく、その姿勢に乱れはなかった。


 だが近くで見ると、目元には薄く疲れが滲んでいる。


 ここ数日の調査を、彼女が知らないはずがない。


 それでも何も言わず、沈黙を守り続けてきたのだ。


「遅い時間にごめんなさいね、ヘレナ」


 リリアーナが穏やかに声を掛ける。


 ヘレナは静かに頭を下げた。


「いいえ、リリアーナ様。お呼びでしたら、いつでも」


 落ち着いた声音だった。


 けれど、ほんのわずかに硬い。


 リリアーナはそんなヘレナを見つめ、それからゆっくり席を立つ。


「私は隣室におりますね。何かあれば、すぐ呼んでください」


「……かしこまりました」


 ヘレナが小さく目を伏せる。


 そのやり取りは、ごくいつもの主従の会話だった。


 だが長く仕えてきた二人だからこそ、今夜の空気が普段とは違うことを理解しているのだろう。


 リリアーナは静かに一礼すると、そのまま応接間を後にした。


 扉が閉まる。


 先ほどまで部屋にあった柔らかな空気も、一緒に遠のいた気がした。


 暖炉の火だけが、静かな音を立てている。


 ヘレナは膝の上で静かに指を重ねたまま俯いていた。整った所作はいつも通りなのに、その指先だけがわずかに強く組まれている。


 本来なら、これほど分かりやすく感情を滲ませる人ではない。


 ルシアンは彼女を見つめたまま、小さく息を吐いた。


 責めるために来たわけではない。


 だが、確かめなければならなかった。


「……確認したいことがある」


 ヘレナがゆっくり顔を上げる。


「はい」


 ルシアンは真っ直ぐ彼女を見た。


「エリアーナ・ローレンという名に、心当たりはあるか」


 その瞬間だった。


 ヘレナの呼吸が止まる。


 膝の上で組まれていた指先へ、目に見えて力が入った。


 茶色の瞳が揺れる。


 長い年月をかけて守り続けてきた沈黙が、たった一つの名前だけは隠しきれなかった。


 セレネがわずかに目を細める。


 ルシアンも同時に気づいた。


 ヘレナの瞳の奥へ、一瞬だけ金色が差した。


 夕暮れの陽が水面へ落ちる直前のような、淡い金。


 以前地下で見た光と同じだった。


 王家の血に宿る、あの色。


 ルシアンの胸が強く脈打つ。


 無意識に、自分の瞳にも熱が宿るのを感じた。


 ヘレナは呆然としたようにルシアンを見つめていた。


 やがて、掠れた声が落ちる。


「……その名を、どこでお聞きになったのですか」


 長く閉ざされていた記憶が、わずかに軋んだような声音だった。


 ルシアンはすぐには答えなかった。


 詰め寄れば、この人はまた沈黙へ戻ってしまう気がした。


 だから静かに言う。


「王城側の記録と、ローディア家に残されていた資料だ」


 その言葉を聞いた瞬間、ヘレナの肩が微かに震えた。


「……ローディア家に」


 呟くような声だった。


 驚きというより、長く隠されていたものが、とうとう掘り起こされてしまったことへの諦めに近い。


 暖炉の火が静かに揺れる。


 ヘレナはしばらく俯いたまま動かなかった。


 膝の上で重ねられていた指先だけが、少しずつ強く組まれていく。


 やがて、小さく息を吐いた。


「……もう、誰も口にしない名だと思っておりました」


 その声は静かだった。


 だが、長い年月を閉ざしてきた人間だけが持つ重さが滲んでいる。


「母から、何度も聞かされていたのです」


 暖炉の火を見つめたまま、ヘレナは掠れた声で続けた。


「忘れてはいけないと。あの方たちの名前を、消してはならないと……」


 最後の言葉で、ヘレナの呼吸がわずかに乱れた。


 俯いた横顔を、暖炉の火が静かに照らしている。


 その目元へ浮かんだ光を見た瞬間、ルシアンはようやく気づいた。


 泣いている。


 声を上げるわけでもなく、顔を覆うわけでもない。


 ただ、長い時間を堪え続けてきた人間の涙だけが、静かに頬を伝っていた。


 ヘレナ自身、それを拭おうとはしなかった。


 いや、できなかったのかもしれない。


 今ここで涙を止めてしまえば、また昔と同じように、何も語れなくなる気がした。


 セレネがわずかに目を伏せる。


 ルシアンの胸の奥へ、鈍い痛みが広がった。


 ヘレナは涙を零したまま、暖炉の火を見つめ続けている。


「ローレン家には、ずっと残されてきた話があります」


 その声音は、どこか遠い。


 まるで今この場ではなく、もっと昔を見つめながら話しているようだった。


「昔、この白百合宮には、眠らされた方々がおりました」


 暖炉の火が小さく揺れる。


「皆、記録からも、名前からも消されてしまった方々です」


 そこに恨みはなかった。


 ただ、長い時間を抱え込んできた疲労だけが静かに滲んでいる。


「香を焚いていたのは、あの方たちを眠らせるためだったと聞いております」


 セレネの瞳が僅かに動く。


 ルシアンもまた、無意識に指先へ力を込めていた。


 ヘレナは涙を拭わないまま、ゆっくり顔を上げる。


 茶色の瞳の奥で、あの金色が微かに揺れていた。


「ですが今、私が香を焚いている理由は別です」


 その声は震えていた。


 それでも、逃げるような響きではなかった。


 長く守り続けてきたものを、ようやく差し出そうとしている人間の声だった。


「……誰にも、あの方たちを穢させないためです」


 暖炉の火が静かに揺れる。


 応接間には、しばらく誰の声も落ちなかった。


 ヘレナは涙を流したまま、小さく息を吐く。


「私は、王家を怨んではおりません」


 掠れた声だった。


「今の私は十分幸せでした。白百合宮でお仕えし、リリアーナ様にも良くしていただいております」


 それでも、とヘレナは続ける。


「……母も、その母も、忘れるなと言い続けてきたのです」


 膝の上で組まれていた指先へ、さらに力が入る。


「眠る宮には、今も眠っている方々がおります」


 その言葉を口にした瞬間、暖炉の火が小さく揺れた。


「そして……逃げ延びた子どもたちがおりました」


 ルシアンの胸の奥で、何かが大きく脈打った。

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