名の戻る夜
「ローディア家に残られたクライヴ卿より、追加の報告でございます」
ルシアンは差し出された書簡を受け取った。
先ほどの第一報よりもずっと薄い。急ぎで送られたものだろう。短剣の先で封を切ると、紙を開く音だけが資料室に落ちた。
フェリクスは年代記の頁に指を置いたまま、こちらを見ていた。ミレイユも薬湯の帳簿から顔を上げている。セレネは一歩近くへ寄ったが、急かすことはしなかった。ただ、深い海色の瞳だけが、ルシアンの手元に向いている。
クライヴの筆跡を目で追ったルシアンは、数行読んだところで息を止めた。
「……クライヴが、通常目録から外れた資料束を見つけた」
声に出すと、フェリクスの目がわずかに細くなった。
「どうやって辿った?」
「ローディア家の旧資料室にあった控え目録の端に、例の符丁が残っていたらしい。白百合、北奥、夜香、眠り。その四つが揃うものを優先して抜き出したところ、別棚扱いの薄い資料束に行き着いたとある」
「符丁が、資料の場所を示していたのですね」
セレネが静かに言った。
「そのようだ」
ルシアンは報告書を読み進めた。
通常目録では辿れない資料束。背表紙には正式な題名がなく、代わりに欠けた百合の印と、白百合、北奥、夜香、眠りに対応する短い語列が記されていたという。クライヴはその中から、女官名簿の写し、北側区域への配置替え控え、香炉と寝台の物品記録、そして数枚の私的覚え書きを見つけていた。
その一枚に、王城側では失われていた名があった。
ルシアンは一度、息を止めた。
「王城側で、エリとだけ読めた女官名の断片があったな」
「ああ」
フェリクスの声が低くなる。
ルシアンは書簡を机に置き、全員に見えるよう角度を変えた。
「ローディア家資料では、完全な名が出ている」
その瞬間、資料室の沈黙が深くなった。
セレネの視線が、紙面へ落ちる。
ルシアンは、ゆっくりとその名を読んだ。
「エリアーナ・ローレン」
名が口に出た瞬間、古い紙の匂いが一段濃くなった気がした。
それは、まだ何も語らない名だった。けれど、今まで欠けた文字や役目の中に埋もれていた誰かが、初めてひとりの人間として紙の上に立ち上がったように思えた。王城側では、エリまでしか読めなかった。地下で見つかった布切れにも、同じように途切れた文字が残っていた。あの時は、名の端にすぎなかったものが、今ようやくひとつの形を持った。
ミレイユが静かに息を呑んだ。
「ローレン……」
フェリクスはすぐには口を開かなかった。報告書の文字を読み、次いで机の上に置かれていた王城側の女官名簿の写しへ視線を移す。そこには、薄れた墨でかろうじてエリと読める断片が残っている。
「一致するね」
フェリクスは低く言った。
「完全に断定するには筆跡や年代の照合がいるけれど、位置が合う。王城側の欠けた女官名簿と、ローディア家側の裏資料。同じ人物を指している可能性が高い」
「地下の布切れもだ」
ルシアンは言った。
声は思ったよりも低かった。
白百合宮北側の地下で見つかった布切れ。擦り切れ、汚れ、文字の一部だけが残っていた小さな証拠。あれもまた、誰かの名前の端だったのかもしれない。
セレネは表情を大きく変えなかった。
だが、深い海色の瞳は、報告書の上に留まっている。彼女はすぐに結論へ飛びつかない。けれど、目の前の点がつながり始めたことは、当然理解しているはずだった。
「クライヴ卿は、その名について何と」
セレネが問う。
ルシアンは続きに目を落とした。
「エリアーナ・ローレンは、白百合宮に出入りしていた女官の一人と見られる。正式な女官名簿には痕跡が薄く、王城側では名が欠損。ローディア家資料では、北側区域への移動記録とともに残っている」
「移動理由は?」
「そこはまだ読めない。だが、私的覚え書きの中に、王の御前へ召された後、北奥へ移す、という記述があるらしい」
フェリクスが眉を寄せた。
「王の御前へ召された後に、北奥へ」
「ああ」
ルシアンは報告書の下段へ視線を移した。
その先に書かれていた文を読むと、胸の奥で冷たいものが沈んだ。
「さらに、クライヴはこう書いている。エリアーナ・ローレンの名の近くに、王に執着された女官、という注記がある、と」
資料室の空気が動かなくなった。
王に執着された女官。
それは、あまりにも短い言葉だった。短いのに、紙面の外側にあるものを想像させるには十分すぎた。正妃でも側妃でもない。公式に飾られた寵姫でもない。女官として白百合宮に出入りしていたひとりの女が、王の視線に捕らえられ、その後に北奥へ移された。
まだ、それ以上は分からない。
分からないからこそ、余計な想像をしてはならない。だが、色狂い王という呼び名、夜香、眠り、乳母と産婆、薬湯、香炉、正妃の反乱。そのすべてが、エリアーナ・ローレンという名の周囲に、ゆっくりと集まり始めていた。
ミレイユが小さく息を吐いた。
「王に執着された、という言い方は、正式な記録の言葉ではありませんね」
「私的覚え書きの注記だろうね」
フェリクスが答えた。
「けれど、だからこそ無視できない。正史は言葉を整える。裏の覚え書きは、時々、整えられなかった感情をそのまま残す」
「感情的な記述として扱うべきではあります」
セレネが言った。
「ですが、同じ資料束の中で、王の御前、北奥、夜香、眠り、そしてエリアーナ・ローレンの名が結びついているなら、単なる感情では片づけられません」
「そうだな」
ルシアンは短く答えた。
喉の奥が苦い。
王家の血を引く者として、その紙面を見下ろしていることが、ひどく不快だった。だが、不快だから目を逸らすわけにはいかない。消された者の名を拾っただけで、終わりにはできない。誰がその名を消し、なぜ北奥へ移し、何を眠らせようとしたのかを、ひとつずつ辿らなければならなかった。
フェリクスは報告書の端を押さえた。
「この名前、ヘレナ・ローレンと同じ家名だね」
その名が出た瞬間、ルシアンは眉をわずかに動かした。
ヘレナ・ローレン。
白百合宮に長く仕える古参女官。北側区域の鍵を差し出した女。
「同じ家名だけで決めつけるな」
ルシアンは言った。
「もちろん」
フェリクスは頷いた。
「けれど、無視もできない。ローレン家は、白百合宮北側と関わりがあった可能性が出てきた」
セレネが静かに報告書を見つめている。
「ヘレナ様へ確認する必要があります」
「ああ」
ルシアンは短く答えた。
怒りのまま向かうわけにはいかない。エリアーナ・ローレンという名が出たばかりで、ローレンという家名が同じだからといって血縁とは限らない。白百合宮北側区域に関わっていたという事実だけで、彼女を罪人のように扱うこともできなかった。
問いに必要なのは、怒りではなく順序だ。
「今夜、白百合宮へ向かう」
ルシアンが言うと、フェリクスが目を上げた。
「今夜?」
「ああ。遅らせる理由がない。だが、詰問にはしない」
ルシアンは報告書へ視線を落とした。
「エリアーナ・ローレンの名を出す。ヘレナがどう反応するかを見る」
セレネは静かに頷いた。
「その方がよいと思います。こちらが結論を持って向かえば、必要なものを見落とします」
「分かっている」
ルシアンは報告書を閉じた。
「今夜は、問いに行く。裁きに行くわけじゃない」
その言葉を聞いて、フェリクスがふとセレネの方を見た。
「その前に、少し休んだ方がいい」
意外にも、そう言ったのはフェリクスだった。
セレネが顔を上げる。
「私は問題ありません」
「問題が出てから休むのは遅いよ。地下を見て、ローディア家へ行って、戻ってからここで資料を読み続けている。君たち二人とも、目が休んでいない」
「兄上」
「ルシアンもだ」
フェリクスはさらりと返した。
「白百合宮へ行くなら、なおさら頭を冷やした方がいい。相手の反応を見るつもりなら、こちらが疲れていては見落とす」
正論だった。
ルシアンは反論しかけて、やめた。セレネの横顔を見る。彼女の表情はいつもと変わらない。けれど、よく見れば、睫毛の影がいつもよりわずかに濃い。疲れを表に出す女ではないからこそ、見落としやすい。
「……少し休む」
ルシアンが言うと、セレネが瞬きをした。
「殿下」
「今夜行く。それは変えない。だが、半刻だけ休む」
セレネは何か言いかけたが、結局静かに頷いた。
「承知しました」
ルシアンは近くに控えていた侍従へ視線を向けた。
「白百合宮のリリアーナ様へ書簡を出す。今夜、ヘレナ・ローレンに確認したいことがある。急な訪問になるが、白百合宮へ伺う許しを願う、と」
「かしこまりました」
「言葉は丁寧に整えろ。だが、急ぎだ」
侍従は深く一礼し、すぐに退いた。
ミレイユが報告書の香に関する箇所へ視線を落とした。
「エリアーナ・ローレンの名が出た資料束には、夜香の符丁もあるのですね」
「ああ」
「なら、香の記録とも照合できます。女官名、北奥への移動、香炉、薬湯。同じ資料束にあるものは、分けずに見た方がよいと思います」
「クライヴには、その資料束を最優先で封印させる」
ルシアンは言った。
「写しは取らせる。ただし、原本の移動はなしだ。ローディア家側と特務隊側の双方で立ち会わせる」
「賢明だね」
フェリクスは報告書を戻した。
「この名が外に漏れれば、ただの醜聞になる。けれど、僕たちに必要なのは噂じゃない。名と記録をつなぐことだ」
ルシアンは頷いた。
その通りだった。色狂い王という呼び名も、正妃の反乱という言葉も、人目を引くには強すぎる。だが、その強い言葉に引きずられれば、目の前に戻ってきた名はまた埋もれてしまう。
ルシアンは報告書の端に手を置いた。
「半刻後に動く。それまでに、リリアーナ様からの返答を受け取れるようにしておけ」
「かしこまりました」
侍従が退くと、資料室には再び紙と薬草の匂いだけが残った。
窓の外では、夕闇が王城の庭へゆっくり降りている。白百合宮へ向かうまでのわずかな猶予を、ルシアンは無駄にするつもりはなかった。問いに行くためには、まず自分の中に残る怒りを鎮めなければならなかった。




