正妃の反乱
「あれ。そういえば、イザーク王の時代って、大きな事件があったよね」
フェリクスが、報告書の端を指で押さえたまま、ふいに顔を上げた。
資料室には、まだ夕方の光が残っている。窓の外で傾いた陽は白い石壁を淡く染め、机の上に広げられた帳簿や写しの端へ細い影を落としていた。クライヴから届いた報告書は、フェリクスの手元に置かれたままだ。ローディア家の私的記録にだけ残っていた不穏な呼び名が、紙面の奥に沈んでいる。
ルシアンは顔を上げた。
「事件?」
「うん。少し待って」
フェリクスはすぐには答えず、椅子を引いた。いつもの緩やかな動きだったが、その目はもう別の資料を探している。机の脇を抜け、壁際の書架へ向かう背中には、研究者特有の集中があった。
フェリクスは古い年代記を一冊抜き出した。
「王統年代記の第十九代の巻……たしか、この辺りだったかな」
頁をめくる音が、静かに響く。
ミレイユは口を挟まず、手元の香炉と薬湯の納入記録へ視線を落としていた。歴史事件そのものはフェリクスの領分だ。彼女は、必要な時にだけ自分の資料を差し出せるよう、細い栞を指先で押さえている。
やがて、フェリクスの指が一箇所で止まった。
「あった。正妃の反乱だ」
その名を聞いた瞬間、ルシアンの中で、遠い講義室の空気が蘇った。
幼い頃から何度も聞かされた王家の歴史。王権を乱そうとした者、血統を混乱させた者、主神の秩序に背いた者。教師たちは正妃の反乱を、王位継承を揺るがしかねない大逆として語った。正妃が後宮を掌握し、王位継承に干渉し、王統を自らの都合で動かそうとした事件だと。
国的には、国家乗っ取りに近い反逆として扱われていた。
「……正妃の反乱なら、知っている」
ルシアンは低く言った。
「王族なら、嫌でも習う」
「だろうね。僕もずいぶん聞かされたよ」
フェリクスは年代記を机へ運び、開いたまま置いた。
セレネが静かに近づく。深い海色の瞳が、古い文字を追った。彼女は表情を変えない。けれど、その沈黙がいつもよりわずかに鋭くなるのを、ルシアンは感じた。
「年代が近いのですか」
「近いどころじゃない。クライヴの報告にあるローディア家資料の年代と、この正妃の反乱の記録は、ほとんど重なっている」
フェリクスは指先で年代記の一行をなぞった。
「イザーク王の治世後半。正妃が後宮内で不穏な動きを見せ、王統を乱す企てをしたため、王城内で処断された、とある」
「処断」
ルシアンはその言葉を繰り返した。
短く、都合のいい言葉だった。
処断されたと書けば、それで終わる。誰が、どこで、どのように、何を理由に、どこまで関わったのかは見えなくなる。王家の年代記には、時折こういう言葉がある。大逆、処断、沈静化。どれも歴史を整えるためには便利だが、人の姿を消すにはあまりに簡単すぎる。
「その後の正妃の記録は」
セレネが問う。
フェリクスは別の頁をめくった。
「そこが妙なんだよ。反乱の概要はずいぶん整っている。正妃が何を企てたか、どのように王統へ干渉しようとしたか、どの官吏が連座したかは、きれいに書かれている。でも正妃本人がその後どうなったのかは、記述がぼやける。幽閉とも読めるし、病没とも読める。修道院へ移されたという別記もあるけれど、どれも決定打にはならない」
「王家の正妃の処遇が曖昧なのか」
「普通はあり得ないね」
フェリクスの声から、軽さが消えた。
「反乱を起こした正妃なら、なおさら処遇は明確に残すはずだ。処刑、幽閉、身分剥奪、修道院送り。どれを選んだとしても、王権の正当性を示すために記録する必要がある。なのに、ここでは言葉だけが綺麗に整えられていて、その後の輪郭が薄い」
ルシアンは年代記を見下ろした。
王族教育で聞かされた正妃の反乱は、揺るぎない歴史の一部だった。反逆者としての正妃、秩序を守った王家、鎮められた内乱。その構図はあまりに分かりやすく、疑う必要などないものとして与えられていた。
だが今、その分かりやすさが逆に気味悪い。
白百合宮北側区域の記録が欠けている。女官や乳母の名が薄い。夜香という符丁がローディア家資料に残る。色狂い王という呼び名が、正史とは別の場所から出てくる。その年代と、正妃の反乱が重なる。
偶然だと切り捨てるには、あまりに近すぎた。
「反乱の前後で、白百合宮北側の記録はどうなっている」
ルシアンが問うと、フェリクスは用意していたらしい写しを引き寄せた。
「欠落が増える。特に北側区域の扉番、女官の配置替え、乳母の出入り、病養扱いの退職記録が目立つ。反乱の混乱で記録が乱れた、と言うことはできる。けれど、乱れ方が妙に偏っている」
「白百合宮北側に寄っている」
「そう」
フェリクスは頷いた。
「王城全体が混乱したなら、他の宮や部署にも似た乱れが出るはずだ。でも、今のところ濃く出ているのは白百合宮北側周辺だ」
ミレイユが、別の帳簿へ細い栞を挟んだ。
「その前後で、薬湯と香炉の記録も増えています」
全員の視線が彼女へ向く。
ミレイユは落ち着いたまま、頁の一部を示した。
「反乱の混乱で体調を崩す者が増えた、と見ることもできます。けれど、白百合宮北側にだけ偏っているなら、通常の医療記録とは言いにくいです。薬湯の種類も、外傷や熱病に対するものばかりではありません。眠りを促すもの、気を鎮めるもの、産後の体力を戻すものに近い記述が混じっています」
「産後」
ルシアンの声が低くなった。
ミレイユはすぐには頷かなかった。
「断定はできません。古い薬湯の名は、同じ名前でも時代によって配合が違うことがあります。ただ、香炉と薬湯が同じ区画に集中し、その時期に乳母や産婆の記録も増えるなら、単なる反乱処理とは別の意味を疑うべきです」
セレネは、年代記と納入記録を見比べていた。
「正妃の反乱という記録の周囲で、女官、乳母、産婆、薬湯、香炉の記録が白百合宮北側へ寄っている。反乱そのものとは別に、そこで何かが動いていた可能性があります」
「正妃が本当に反乱を起こしたのではなく、別の出来事を反乱と呼んだ可能性か」
ルシアンが言うと、セレネはすぐに否定しなかった。
「反乱がまったくなかった、とは言えません。実際に争いがあった可能性はあります。ただ、その理由や目的が、正史に書かれた通りだったかは別です」
淡々とした声だった。
だが、その言葉は重かった。
王族教育で教えられた歴史が、まるごと嘘だったと言われたわけではない。それでも、正史の言葉が出来事の全てを語っているとは限らない。反乱という名前が、別のものを覆うために使われた可能性はある。
フェリクスは年代記の頁を軽く押さえた。
「勝った側の記録は、だいたい整っているものだよ。整いすぎている時ほど、何を削ったのかを見た方がいい」
「兄上が言うと嫌な説得力があるな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
フェリクスはそう返したが、目は笑っていなかった。
「この年代記では、正妃が後宮を使って王統に干渉したことになっている。でも、同じ時期に白百合宮北側へ人と物が集まり、記録が薄くなっている。女官、乳母、産婆、薬湯、香炉。反乱の記録と無関係に動いていたとは考えにくい」
「正妃が何をしようとしたのか、ですね」
セレネが静かに言った。
ルシアンは彼女を見た。
「お前はどう見る」
セレネは少しだけ間を置いた。答えを探しているというより、言葉を選んでいるようだった。
「正史が言うように、王位継承へ干渉しようとした可能性はあります。ただ、それが権力欲によるものだったのか、別の理由があったのかは、まだ分かりません」
「別の理由」
「白百合宮北側へ移された女たちや、その周囲の子どもに関する記録が同じ時期に欠けているなら、正妃の行動は後宮内の権力争いだけでは説明できないかもしれません」
その言葉に、資料室の空気が静かに沈んだ。
ルシアンは、年代記の文字を見下ろした。
整えられた文字列の周囲に、白百合宮北側の欠落が重なっていく。薬湯と香炉、乳母と産婆、処遇の曖昧な正妃。かつて疑うことなく受け取っていた事件名が、今は別のものを覆う蓋のように見えた。
それでも、正史を疑うことと、逆の結論へ飛びつくことは違う。年代と記録と欠落を、もう一度重ねる必要があった。
「王城側の記録を洗い直す」
ルシアンは言った。
「正妃の反乱として処理された一件の前後で、白百合宮北側に関する命令書が出ていないか。封鎖命令、後宮内の人員整理、正妃の処遇に関する記録。兄上、そちらを見られるか」
「もちろん。王統年代記だけじゃ足りないから、儀典記録と後宮管理の帳簿も当たるよ」
フェリクスは年代記を閉じず、指で頁の端を押さえたまま答えた。
「ローディア家側はクライヴが進めている。こちらは王城側で、正妃の反乱という名前の周囲に何が残っているかを見る」
ルシアンは頷いた。
ミレイユが静かに紙を整えた。
「薬湯と香炉の記録は、私の方で抜き出します。正妃の反乱の前後に限って見れば、数は絞れるはずです」
「頼む」
「ただし、薬湯の名だけで用途を断じることはできません。配合が分かるものと、名だけが残るものを分けておきます」
「ああ。それでいい」
フェリクスは別の紙へ短く印をつけた。
「僕は正妃の処遇を追う。幽閉、病没、修道院送り、そのどれが後世の書き換えなのか。あるいは、全部が曖昧なまま残されたのか」
「正妃ほどの人物が、曖昧なまま消えるとは思えません」
セレネが言った。
「同感だね。だから、消え方を調べる価値がある」
フェリクスの声は柔らかい。
けれど、その目は資料から離れなかった。
夕方の光が、机の上から少しずつ退いていく。紙の白さは陰り、墨の線だけが濃く浮かび上がる。ルシアンは、正妃の反乱という名を、これまでとは違う重さで見つめていた。
反逆として整えられた事件の周囲に、白百合宮北側の空白が集まっている。
それが偶然だと言い切るには、あまりに多くの記録が同じ場所を向いていた。
その時、扉の外で控えめな足音が止まった。
先ほどよりも短く、急いたノックだった。
「入れ」
ルシアンが告げると、扉が開く。入ってきたのは、王族特務隊の若い騎士だった。騎士は一礼し、封を施された細い書簡を差し出す。
「ローディア家に残られたクライヴ卿より、追加の報告でございます」
資料室の空気が、再び静かに張り詰めた。




