色狂い王
「ローディア家より、クライヴ卿の第一報でございます」
扉の向こうからそう告げられた時、資料室には紙をめくる音だけが残っていた。
王城へ戻ってから、どれほど経っただろう。窓の外では夕方の光がさらに傾き、机の上に広げられた古い帳簿の端を赤く染めている。フェリクスはイザーク王の治世に属する王統記録を読み込み、ミレイユは香炉と薬湯の納入欄に細い栞を挟んでいた。セレネは欠けた女官名簿の写しを二枚並べ、墨の薄れた箇所を見比べている。
ルシアンもまた、白百合宮北側区域に関する配置記録から目を離していなかった。女官や乳母、香炉や薬湯、退職や病死の記録が別々の帳簿に散っているはずなのに、イザーク王の治世へ近づくほど、同じ暗い水底へ沈んでいくように見える。
扉が静かに開かれた。
入ってきた伝令の手には、ローディア家の封蝋と王族特務隊の封印が重ねられた薄い報告書があった。その二つが並んでいるだけで、軽い知らせではないことは分かる。
ルシアンは手元の帳簿を閉じた。
同時に、フェリクスと目が合う。
兄の表情から、普段の軽さが消えていた。
「こちらへ」
ルシアンが告げると、伝令は一礼し、封筒を差し出した。封蝋は乱れていない。ローディア家の紋も、特務隊の封印も、どちらも正しく押されている。クライヴが条件通り、家側と特務隊側の双方を通して報告を出したのだろう。
ルシアンは封を確かめてから、短剣の先で慎重に開いた。
古い資料の写しではなく、クライヴ自身の報告書だった。筆跡は整っている。急ぎで書かれたはずなのに、行は乱れていない。だが、一枚目の半ばに目を通した瞬間、ルシアンは息を止めた。
紙面の上に、王城側の記録では一度も見たことのない呼び名があった。
色狂い王。
その文字を読んだ途端、資料室の空気がひどく冷えた気がした。
下卑た呼び名だ。王に対して使うには、あまりにも露骨で、侮蔑が強すぎる。王城の正史や王統記録に残るはずがない。残せるはずもない。だが、ローディア家の私的記録には、その呼称が記されていた。
「何が出た」
フェリクスが静かに問う。
ルシアンは報告書から目を離さず、声を抑えた。
「ローディア家資料に、イザーク王を指すと思われる呼称がある」
「呼称?」
「色狂い王」
口にした瞬間、ミレイユの手が止まった。
フェリクスも黙った。いつもの軽い皮肉すら出てこない。セレネだけが、表情を大きく変えずにルシアンの手元へ視線を向けている。けれど、その海色の瞳は、紙面の文字を逃さず拾おうとしていた。
「王城側では、出ていない呼び名だね」
フェリクスが低く言った。
「ああ。少なくとも、俺が見た記録にはない」
「僕の方でも見ていない。正史どころか、禁書庫側の不完全な目録にも出ていなかった」
ルシアンは続きを読んだ。
クライヴの報告によれば、その呼称は一度だけの書き殴りではない。断片的ではあるが、同じ資料群の中で、似た文脈に複数回現れているらしい。対象が第十九代国王イザーク・アルヴェリアであると断定するにはなお照合が必要だが、年代、白百合宮北側区域に関する記述、側室や後宮に関する周辺記録との重なりを見れば、その可能性は高いと記されていた。
セレネが静かに口を開く。
「その呼び名は、感情的な罵倒として書かれているのでしょうか。それとも、特定の人物を指す符号として使われているのでしょうか」
「クライヴは、後者の可能性があると見ている」
ルシアンは報告書を机に置いた。
「同じ資料群の中で、特定の記録に繰り返し出ている。王個人を侮辱する落書きというより、後の読み手が誰を指すのか分かるように残した呼び名に見える、と」
「なら、無視できません」
セレネの声は淡々としていた。
「呼び名自体が下品であっても、それが記録上の符号として使われているなら、誰が、どの文脈で、何度使ったのかを確認する必要があります」
「同感だよ」
フェリクスは報告書を受け取り、目を通した。指先が紙の半ばで止まる。
「……正妃と側妃だけじゃないね」
その声に、ルシアンは目を上げた。
「何だ」
「ローディア家資料では、イザーク王が手を伸ばした相手として、後宮に正式に入った女だけではなく、白百合宮に出入りしていた女官や侍女、下位貴族の令嬢、地方から宮へ上がった娘たちの記録が並んでいる。もちろん、すべてが直接そう書かれているわけじゃない。けれど、召し上げ、配置替え、北側への移動、退職や病死の処理が、同じ時期に重なりすぎている」
ルシアンは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
正史では、イザーク王は王家の血筋を広げた王とされていた。側室を多く置き、子を成し、王統を厚くした。国の安定に寄与した王。そういう言葉で飾られていた。
だが、ローディア家の私的記録は違うものを見ていたらしい。
王家の繁栄ではなく、王個人の欲望。
国のための後宮ではなく、王の手が届いた者たちの沈黙。
そう読めてしまうことが、ルシアンにはひどく不快だった。
「王城側では、それを側室や寵姫という言葉で整えたのか」
「その可能性はあるね」
フェリクスは報告書を机に戻した。
「側室として正式に記録された者もいるだろう。けれど、そうではない者たちまで、後から言葉を整えられた可能性がある。後宮付きの女官、一時的な召し上げ、病による退職、縁家への帰還。そういう書き方をすれば、王の手がどこまで伸びていたのかは見えにくくなる」
「ローディア家の記録を書いた者は、それを国の繁栄とは見ていなかった」
ルシアンが言うと、フェリクスは小さく頷いた。
「そうだろうね。品のない呼び名ではあるけど、単なる侮蔑とも言い切れない。正史が国の繁栄として整えたものを、別の誰かは王個人の欲望として見ていた。その痕跡かもしれない」
資料室に沈黙が落ちた。
窓の外では、夕方の光がさらに赤みを増している。金の色を帯びた光が机の上を滑り、報告書の白い紙を斜めに照らした。ルシアンは自分の瞳の奥でも、夕日の金が強まっていくのを感じた。
怒りだった。
だが、その怒りをどこへ向ければいいのかは、まだ分からない。イザーク王は過去の王だ。記録を書き換えた者も、消した者も、黙った者も、今この場にはいない。けれど、消された名の端だけは、紙の上に残っている。
ミレイユが報告書の下段へ視線を落とした。
「香の納入記録も出ていますね」
「ああ」
フェリクスが頷く。
「白百合宮北側へ送られた女官や乳母、産婆に関わる記録と同じ年代に、香の納入記録が集中しているらしい。まだ品名はすべて読めていないようだけど、香炉と薬湯に関する控えも一緒に出ている」
ミレイユは考えるように目を伏せた。
「香木の納入元だけでなく、混ぜられた薬草の出所も追えるかもしれません。王城側には正式な調合名が残っていませんでしたが、ローディア家資料に納入記録があるなら、灰の成分と照合できます」
「地下の香炉に残っていた灰と、過去の香が同じものかどうか」
「はい。ただし、同じ成分が見つかっても、使われた目的まで同じとは限りません。そこは分けて考えるべきです」
ミレイユの声は静かだった。
ルシアンは頷いた。彼女の言う通りだった。香は物だ。使う者の意図によって意味が変わる。過去に眠らせるため使われた香が、別の時代に同じ目的で焚かれたとは限らない。現時点で必要なのは、香の名と成分、納入経路、使用場所を一つずつ照らし合わせることだった。
セレネは報告書の文字を追っていた。
「白百合宮北側へ移された者の記録と、香の納入記録が同じ時期に増えているなら、二つは分けて扱えません」
「偶然では済まないか」
「偶然かどうかを確かめるためにも、数が必要です。同じ年に集中しているのか、特定の出来事の前後だけなのか、継続的だったのか。そこを見なければ、判断できません」
相変わらず慎重だった。
だからこそ、ルシアンは少しだけ呼吸を整えられた。色狂い王などという呼び名を見せられれば、怒りの方が先に立つ。だが、セレネは呼び名に引きずられない。侮蔑の強い言葉であっても、記録として扱うなら、出現箇所と文脈を見ろと言う。
その冷静さが、今は必要だった。
「この呼び名は、外へ出すな」
ルシアンは低く言った。
フェリクスが顔を上げる。
「王家の名誉のために?」
「違う」
ルシアンは即座に答えた。
「今広まれば、記録が潰される。王家を侮辱する呼び名だと騒ぐ者も出るだろう。逆に、面白がって噂にする者もいる。どちらに転んでも、資料そのものがまともに扱われなくなる」
「僕も同じ意見だよ」
フェリクスは静かに言った。
「これは醜聞として扱うには危険すぎる。噂になれば、真実より先に呼び名だけが歩く」
「必要なのは、呼び名を広めることではありません」
セレネが続けた。
「その呼び名が残された理由を調べることです」
「ああ」
ルシアンは報告書へ視線を戻した。
色狂い王。
その呼び名は不快だった。王家の血を引く者として、そんな文字を見下ろすこと自体が、喉の奥に苦いものを残す。だが、不快だからといって目を逸らせば、正史の美しい言葉だけが残る。国の繁栄、王統の維持、側室の充実。そんな飾られた言葉の下で、人の名が消されていったのだとしたら、それこそ王家に連なる者として許してはならない。
ミレイユが静かに紙を一枚引き寄せた。
「香の納入記録については、こちらで追います。白檀に近い香木と、眠気や脱力に関わる薬草が同じ経路で入っていたかどうか。王城側の帳簿になくても、商会や薬草園の記録に残っている可能性があります」
「頼む」
ルシアンが言うと、ミレイユは小さく頷いた。
フェリクスは報告書の余白へ短く印をつけた。
「僕は、イザーク王の治世に白百合宮北側へ移された女官と侍女、乳母、産婆の記録をもう一度洗う。側室として記録された者と、正式な側室ではないのに王の近くへ配置替えされた者を分けて見る必要がある」
「下位貴族令嬢や地方から宮へ上がった娘たちの記録もだ」
「もちろん。そこが一番薄いだろうけどね」
フェリクスの声には、いつもの軽さがほとんどなかった。
ルシアンは窓の外へ一瞬だけ目を向けた。庭には夕闇が落ち始めている。白い石の王城は、夕日の光を受けて美しく輝いていた。何も知らない者が見れば、ただ正しく、清らかで、揺るぎない王家の城に見えるだろう。
けれど、その内側には、こうして消された記録が眠っている。
王城の正史が国の繁栄と呼んだものを、ローディア家の私的記録は王の欲望として残していた。その違いは、ただの解釈の差ではない。そこには、誰かが名を消され、誰かが言葉を整えられ、誰かが沈黙へ押し込められた可能性がある。
ルシアンは報告書を閉じた。
「クライヴへ返書を出す」
「何と?」
フェリクスが問う。
「色狂い王という呼称が出る資料群を、他の資料から分けて封印しろ。呼称だけで判断せず、必ず前後の記述を写せ。白百合宮北側へ移された者、香の納入記録、乳母と産婆の記録を優先して目録化するように伝える」
「妥当だね」
「それから、ローディア家側にも念を押す。これは王家の醜聞として扱うものではない。消された記録を守るための調査だ」
言ってから、ルシアンは自分の声が低くなっていることに気づいた。
怒りはまだ消えない。
だが、怒りだけで進めば、呼び名に引きずられる。色狂い王という文字がどれほど不快であっても、それは真実そのものではない。真実へ至るための傷跡だ。その傷跡を辿るなら、慎重でなければならない。
セレネが、静かにルシアンを見た。
深い海色の瞳には、いつもの冷静さがある。けれど、その奥に、ごくわずかな理解の色が見えた気がした。彼女は大きく慰めることも、励ますこともしない。ただ、隣に立ち、同じ紙面を見る。
それだけで、ルシアンの呼吸は少しだけ整った。
「進めよう」
ルシアンは言った。
「正史がどれだけ美しく整えられていようと、裏に残された記録があるなら、そこまで辿る」
フェリクスが頷き、ミレイユが新しい紙を取り出す。セレネは報告書の端へ視線を戻し、同じ呼称が記された箇所を静かに追い始めた。
資料室に、再び紙をめくる音が戻る。
だが、その音は先ほどまでと少し違って聞こえた。
王城の正史が国の繁栄として閉じ込めたものを、ローディア家の私的記録は別の名で呼んでいた。ならば、次に探すべきは、その呼び名の下で消された人々の名だった。




