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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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消された名の端

 王城へ戻る頃には、午後の光は白い石壁の上で淡く傾いていた。


 ローディア公爵家の執務室に残してきた古い紙の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がする。馬車の中でセレネはほとんど口を開かなかった。窓の外を見ているわけでもなく、膝の上に置いた手を動かすでもない。ただ静かに座り、先ほどまで読んでいた資料の断片を、頭の中で並べ直しているようだった。


 ルシアンも余計なことは言わなかった。


 白百合宮北側に関する符丁、夜香、眠り、女官や乳母の名が欠けた記録。そして、第十九代国王イザーク・アルヴェリアの治世に集中するという王城側の空白。まだ一つの真実には届かない。だが、別々に見えていた断片が、同じ場所へ向かっていることだけは分かる。


 王城へ入ると、二人はそのままフェリクスの使う資料室へ向かった。


 禁書庫に近いその部屋は、王族用の閲覧室というより、ほとんど研究室に近い。大きな机には古い帳簿や写しが積まれ、窓際には薬瓶を収めた小箱が置かれている。扉を開けた瞬間、紙と革、乾いた墨、そしてかすかに薬草の匂いが混じった空気が流れてきた。


 フェリクスは机の向こうにいた。


 いつものように柔らかな顔をしているが、目元だけは笑っていない。手元には王統記録の写しと、白百合宮の古い配置図らしきものが広げられている。隣ではミレイユが、別の帳簿に細い栞を挟んでいた。二人とも、こちらが来るのを待っていたらしい。


「来たね、ルシアン。セレネ嬢も」


「兄上。クライヴから伝言は受けた」


「早かっただろう? 彼はこういう時、足も手も速い」


「だからローディア家に残した。資料整理を任せる」


「いい判断だと思うよ。あの量をここへ運び込んだら、古い紙が先に死ぬ」


 軽い言い方だったが、冗談だけではない。


 フェリクスは机の上の写しを一枚引き寄せた。そこには、王統と後宮に関する古い記述が整った文字で写されている。王城側の正史に近い資料なのだろう。墨は新しいが、内容はずっと古い。


「まず、イザーク王について話そうか」


 第十九代国王イザーク・アルヴェリア。


 その名を聞いて、ルシアンは机の前で足を止めた。フェリクスは指先で写しの一節を示す。


「王城側の記録では、イザーク王は王家の血筋を大きく広げた王として扱われている。側室を多く置き、子を多く成し、王統を厚くした。記録官はずいぶん立派な言い方をしたものだね」


「正史では、功績として扱われているのですか」


 セレネが静かに問う。


「少なくとも、この写しではそうだよ。当時の価値観では、王家の血を絶やさず広げることが、国を安定させる手段の一つだったんだろう。けれど、今の感覚ではなかなか考えにくいね」


 フェリクスは肩をすくめた。


「僕なんて、研究室とミレイユがあれば十分だけど」


 さらりと言ったその声に、ミレイユの手が一瞬だけ止まった。


「フェリクス殿下。私を研究備品のように並べないでください」


「備品じゃないよ。最重要項目だ」


「なお悪いです」


 ミレイユは淡々と返しながら帳簿の頁をめくったが、耳のあたりがわずかに赤い。ルシアンはそれを見て、眉間を押さえたい気分になった。この空気で惚気るな、と言いたかったが、セレネが平然としているので、口に出すだけ無駄な気がした。


 フェリクスも、それ以上は茶化さなかった。


 指先はすぐに次の資料へ移り、声の調子が少しだけ低くなる。


「問題は、イザーク王の治世に白百合宮北側区域に関する記録の欠落が集中していることだ。側室や王子王女の記録そのものは残っている。けれど、その周辺で働いた女官、乳母、配置替え、退職、病死に関する帳簿が、妙に抜けている」


 ルシアンは机上の資料へ目を落とした。


 綴じられた帳簿の写しには、年号と役職、配置の移動先が並んでいる。だが、ところどころ行が飛んでいた。破損だけなら、もっと無作為に欠けるはずだ。ところが、白百合宮北側に関わる項目へ近づくほど、名や移動先が薄くなる。


「後宮関連施設として使われていた可能性は」


「高いと思う。ただし、公式には曖昧にされている。白百合宮の表側は王族女性のための宮として整えられているけれど、北側区域については時期によって呼び名が揺れているんだ。旧離宮、北奥、白百合北区画。記録官によって書き方が違う」


「ローディア家資料にも、北奥という符丁がありました」


 セレネが言うと、フェリクスの目がわずかに細くなった。


「やっぱりそちらにも出たか」


「あくまで符丁のような形です。白百合、北奥、夜香、眠り。文章の中に自然に入っているというより、資料を探すための印に見えました」


「なるほどね」


 フェリクスは手元の紙へ短く書きつけた。


「王城側の資料にも、北奥という語は残っている。ただ、夜香と眠りはまだ見つけていない。少なくとも、正式な目録にはない」


「正式ではない目録には?」


「そこが厄介なんだよ」


 フェリクスは、別の古い帳簿を開いた。


「禁書庫の奥に、目録とも覚え書きともつかないものが残っていた。題も不完全で、管理番号も今の体系とは合わない。そこに、白百合北側に関する項目がいくつかある。ただし、人名部分がひどく読みにくい」


「人名だけが、ですか」


 セレネの声が少し低くなった。


「そう。物品や部屋の名前は比較的読める。香炉、寝台、布、薬湯、灯油、鍵。けれど、そこに関わった女官や乳母の名になると、急に紙の傷みがひどくなる」


「ローディア家の資料と似ているな」


 ルシアンが言うと、ミレイユが静かに頷いた。


「偶然の傷みだけで説明するには、偏りがありすぎます。薬品や湿気による劣化なら、紙面全体にもっと広く影響が出るはずです。もちろん、私が見た限りの話ですが」


「削られた可能性は」


「あります。ただ、すべてが同じ方法で消されたわけではなさそうです。薄れたもの、破られたもの、上から別の文字を重ねたものが混じっています」


 ミレイユは一枚の写しを机へ置いた。


 そこには古い女官名簿の一部が写されていた。墨の薄れた行の端に、かろうじて数文字が残っている。だが、その先は紙の傷みに呑まれ、名なのか、家名の一部なのかさえ判然としない。


「読めるのは、ごく一部です」


 ミレイユの声は冷静だった。


「この行は、エリ、と読める可能性があります。ただ、その先が失われています。人名の冒頭なのか、家名の一部なのか、あるいは別の語なのかは断定できません」


 ルシアンは、欠けた女官名簿の写しを見下ろした。


 残っているのは、名の端にすぎない。だが、その端が残っているからこそ、そこに誰かの名があったことだけは分かる。王城の記録は、役目を残しながら、人の名だけを薄くしていた。


「ローディア家側で、同じような断片が出る可能性はあるな」


「あるね。だからクライヴに残ってもらったのは正解だよ。こちらの欠けた端と、あちらの欠けた端が合えば、名に届くかもしれない」


 フェリクスはそこで一度言葉を切り、ミレイユへ視線を向けた。


「香の方は?」


 ミレイユは頷き、薬瓶の入った小箱ではなく、薄い紙束を手に取った。


「香炉の灰については、先にお伝えした見立てから大きな変更はありません。問題は成分そのものより、王城内の調合名や納入記録が見つからないことです」


「納入記録がない?」


「白檀に近い香木の納入はあります。ただ、地下で見つかった灰と同じ混合を示すものは、今のところ確認できていません。香炉がどの部屋に置かれ、誰の管理下にあったのかも曖昧です」


「ローディア家資料に、夜香という語があった」


 ルシアンが言うと、ミレイユの目がわずかに動いた。


「夜香、ですか」


「ああ。正式な香の銘ではなさそうだった。白百合、北奥、眠りと並んで、資料を探すための符丁のように使われていた」


 ミレイユは少し考えるように、手元の紙へ視線を落とした。


「王城側の調合名や納入記録には、今のところその名は見つかっていません」


「なら、ローディア家側の資料と照合するしかないな」


「はい。香木の納入、香炉の配置、薬草の混合記録、そのあたりから探すのがよいと思います」


 フェリクスは指先で机を軽く叩いた。


「王城側の正式な調合名には出ない。だが、ローディア家側の資料には符丁として出る。もし同じ香を指すなら、正式な管理記録から外された香ということになる」


「まだ仮定だ」


「もちろん。だから調べるんだよ」


 フェリクスは軽く言ったが、目は笑っていなかった。


 セレネが、机の上に置かれた女官名簿の写しを見つめる。


「女官や乳母の記録、人名の欠落、香炉の配置、北側区域の呼称の揺れ。別々の欠落に見えますが、同じ時期、同じ場所へ寄っているように見えます」


「それが問題だ」


 ルシアンは低く言った。


 王城の記録が、王家に都合よく整えられている可能性はある。むしろ、イザーク王の治世に欠落が集中し、白百合宮北側に関わる女官や乳母の名だけが薄い以上、その疑いを外すことはできなかった。ただ、すべてを意図的な改竄と決めつけるには、まだ足りない。長い年月の中で失われたものと、誰かの手で消されたものを、同じものとして扱うわけにはいかなかった。


 フェリクスは資料を閉じず、指先で頁の端を押さえたまま言った。


「今分かっているのは、イザーク王の治世に、白百合宮北側区域をめぐる記録が薄くなること。表向きには王統を広げた王として称えられていること。そして、その周辺で働いた女たちの名が妙に残らないことだ」


「側室の記録はあるのに、女官や乳母の記録が欠ける」


「そう。そこが気持ち悪い」


 フェリクスの声は柔らかかったが、言葉だけは冷えていた。


「正史は王の子を数える。けれど、その周りにいた女たちの名は数えない。記録が自然にそうなったのか、そうなるように整えられたのかは、まだ分からないけどね」


 ルシアンは黙っていた。


 机の上には、欠けた女官名簿の写しがある。かろうじて残った二文字は、まだ誰の名にも届かない。だが、その二文字は、名があったはずの場所に残っている。そこに引っかからずにいられるほど、今のルシアンは王城の記録を信用できなかった。


「クライヴからの整理結果を待つ」


 ルシアンは言った。


「王城側は、このまま兄上たちで洗ってくれ。特に、イザーク王の治世と白百合宮北側区域、女官と乳母の配置、退職や病死の記録だ」


「もちろん。君がそう言わなくても、もう始めているよ」


「だろうな」


 フェリクスは薄く笑った。


 ミレイユはその横で、静かに栞を挟み直した。薬草の匂いがわずかに揺れ、古い紙の匂いに混じる。窓の外では、王城の庭に夕方の影が落ち始めていた。


 セレネは、欠けた女官名簿の写しから目を離さない。


 ルシアンもその視線を追った。


 読めるのは、わずかな文字だけだ。だが、人の名は、たとえ端だけでも残れば痕跡になる。白百合宮北側の記録では、物の名は残っている。香炉も、寝台も、薬湯も、鍵も、そこにあったことは分かる。


 それなのに、そこにいたはずの人間の名だけが、薄い。


 ルシアンは、静かに拳を握った。


 王城側の資料にも、名を削られた女たちの影は確かに残っていた。

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