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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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欠落年代


「聞こう」


 ルシアンがそう告げると、クライヴは一度だけ息を整えた。


 机の上には、白百合古宮抄録と、そこから引き出すように並べられた控え書きや目録が広がっている。古い紙と革の匂いは、先ほどよりも濃くなっていた。セレネは開いた頁が動かないよう文鎮を置いたまま、静かにクライヴへ視線を向けている。表情はいつも通り大きく変わらないが、資料の端に添えられた指先だけは、まだ紙面から離れていなかった。


 クライヴは、ルシアンとセレネの前で姿勢を正した。


「まず、フェリクス殿下からの伝言です。王城側で確認できる白百合宮北側区域の関連記録について、欠落箇所の年代を照合したところ、空白が特定の時期に集中しているとのことです」


「特定の時期?」


「はい。第十九代国王、イザーク・アルヴェリア陛下の治世です」


 その名が落ちた瞬間、ルシアンは無意識に目を細めた。


 第十九代国王イザーク・アルヴェリア。王族として歴史を学んできたルシアンにとって、知らない名ではない。だが、白百合宮北側区域に関する欠落と並べて聞くには、あまりに重い名だった。ローディア家の古い資料に浮かんでいた女官や乳母、子どもに関わる不自然な空白が、初めて具体的な年代を持ったのだ。


 もちろん、それだけで何かを断じることはできない。


 イザーク王の治世に欠落が集中していることと、イザーク王自身が何をしたのかは、まだ同じ意味ではなかった。ここで想像を先に走らせれば、記録に残された空白へ、こちらの都合のよい形を押し込むことになる。


「欠落の中身は」


「女官名簿、配置記録、退職記録、病死記録、乳母に関する帳簿の一部です。まだ整理途中とのことですが、白百合宮北側区域に関わるものほど、不自然に残りが悪いと」


 クライヴの声は低く、余計な感情を含まなかった。


 だからこそ、言葉の輪郭だけがはっきりと残る。


 ルシアンは机の上の紙束へ視線を落とした。ローディア家の資料にも、似たような欠け方があった。物品の数は残るのに、人の名が薄い。女官や乳母、産婆に関わるらしい記録があるのに、その者たちがどこから来て、どこへ消えたのかが見えない。王城側でも同じ種類の空白が見つかっているのなら、これはただ一つの家に残された古資料の傷みとして片づけるには不自然すぎる。


「兄上は、欠落の理由について何か言っていたか」


「まだ判断を避けるべきだと。記録の傷み、移管時の散逸、意図的な抜き取り、そのいずれも可能性として残るため、ローディア家側の資料と照合したいとのことです」


「兄上らしい」


 ルシアンは短く息を吐いた。


 無理に結論を急がない。だが、違和感は見逃さない。フェリクスはそういう男だ。普段は人を煙に巻くような口調で話すくせに、古い記録を前にした時だけは、嫌になるほど執念深くなる。今は、その執念深さが必要だった。


 セレネが静かに口を開いた。


「こちらの資料にある符丁が、同じ年代のものかどうかを確かめる必要があります」


「ああ。白百合や北奥、夜香、眠りといった語が、イザーク王の治世に近い資料へ集中しているなら、意味が変わってくる」


「ただし、ローディア家で後から付けられた分類の可能性もあります」


「分かっている。そこも含めて照合だ」


 ルシアンはクライヴへ視線を戻した。


「ミレイユの方は」


「ミレイユ・クローディア伯爵令嬢からは、地下の香炉に残っていた灰についてです。先の見立てに大きな変更はないとのことでした。白檀に似た香木に、眠気や脱力を誘う可能性のある薬草の痕跡が混じっていた。ただし、即座に命を奪う毒ではなく、密閉された場所で長く焚かれた場合に、判断力や抵抗する力を鈍らせる性質のものと見てよい、と」


 それは、すでに聞いていた見立てを補強する報告だった。


 ミレイユは、ローディア家の資料に夜香という語が出てきたことを知らない。彼女が確認したのは、あくまで地下の香炉に残っていた灰であり、その性質だ。だが、ルシアンの視線は自然と、机の上に開かれた控え書きへ向かった。古い資料に残る夜香という語と、地下で見つかった香炉の灰は、まだ同じものだとは言えない。それでも、二つの断片は同じ暗がりへ向かっているように見えた。


「……夜香、か」


 ルシアンは低く呟いた。


 地下の香炉に残っていた灰。ミレイユの見立て。そして、今ここで見つけた古い符丁。その三つは近づいているように見える。だが、結びつけるにはまだ材料が足りなかった。


「調合と、納入先と、使われた場所が要ります」


 セレネが静かに言った。


「ああ。香炉の配置もだ。過去に使われたものと、今焚かれていたものが同じ意味を持つとも限らない」


「はい」


 セレネの返事は短かった。


 香炉の灰が新しかったことは事実だ。だが、そこから誰かの意図まで断じるには、まだ足りない。古い資料に残る夜香と、地下で見つかった香炉の灰が同じものかどうかさえ、現時点では確かめる必要があった。


 クライヴは机上の資料に目を向けた。


「殿下。こちらで見つかった資料は、かなりの量のようですね」


「ああ。まだ端を見ただけだ」


「差し支えなければ、私はこのままローディア家に残り、資料の整理と封印管理を担当いたします。王城側との照合が必要になるのであれば、こちらで目録を作る者が必要です」


 ルシアンは、すぐには答えなかった。


 クライヴの申し出は妥当だった。ローディア家の資料をすべて王城へ運ぶわけにはいかない。古い紙は移動だけで傷む。ここで目録を作り、封印し、王城側の記録と照合できる形に整える者が必要になる。


 だが、妥当だからといって、すぐに頷くことはできなかった。


 エドガーの件がある。


 王族特務隊の中に、外へ情報を流していた者がいた。信じていた顔の中に、別の主へ通じる目が混じっていた。その事実は、まだルシアンの中に残っている。疑いたいわけではない。だが、疑わずに済むほど、今扱っている記録は軽くなかった。


「クライヴ」


「はい」


「お前は信用していいのか?」


 室内の空気が、わずかに張り詰めた。


 問いは短かったが、軽いものではなかった。王家に不都合な資料かもしれない。女官や乳母、子どもの名が消された記録かもしれない。今後、王城側の誰かが隠したがる可能性もある。そんなものを扱う者が、王族特務隊の騎士であるというだけで十分だとは、ルシアンには思えなかった。


 クライヴは、すぐには答えなかった。


 問いの意味を、彼も理解したのだろう。侮辱された顔はしなかった。むしろ、ルシアンがその問いを避けなかったことを、当然のこととして受け止めているように見えた。


「エドガーの件があった以上、殿下がそう問われるのは当然です」


 クライヴは静かに言った。


「私は、王族特務隊の騎士として誓います。記録を歪めず、消さず、勝手に選別せず、王家にとって不都合なものであっても、見つけたままの形で残します。もし私がその誓いに背いた時は、騎士としての名も、職も、命も、殿下にお預けいたします」


 ルシアンは、クライヴを見た。


 大げさな熱はない。だが、その声は逃げていなかった。エドガーの名を出された時、人はたいてい、気まずさか怒りのどちらかを見せる。クライヴにはそのどちらもなかった。ただ、傷ついた隊の一員として、その傷を隠さず受け止めている。


 だからこそ、任せられるかもしれないと思った。


 セレネも口を挟まなかった。


 深い海色の瞳が、静かにクライヴを見ている。彼女は人の言葉そのものよりも、言葉の前後にある揺れを見る。今、その横顔に否定の色はない。


 ルシアンは息を吐いた。


「条件がある」


「何なりと」


「資料は勝手に移動させるな。動かす場合は、ローディア家側の立会人と特務隊員の双方を置け。触れた者の名、時刻、資料名を必ず記録しろ。写しを取る時は、原本の所在と状態を残す。封印は二重にする。ひとつはローディア家、もうひとつは特務隊だ」


「承知しました」


「それと、欠落や削り取りを見つけても、勝手に補うな。推測は欄外に分けろ。原文と推測を混ぜるな」


「はい」


 クライヴは迷わず頷いた。


「新公爵には、俺から話す。お前は必要な人員を選べ。ただし、口の軽い者は入れるな」


「特務隊から二名、記録に慣れた者を選びます。ローディア家側にも、執事を通して立会人を出していただきます」


「それでいい」


 ルシアンは机の上の資料を見下ろした。


 白百合古宮抄録の頁は、文鎮の下で静かに開かれている。古い紙は何も語らない。ただ、そこに残された欠けた文字と、削られた名と、繰り返される符丁だけが、こちらに続きを読めと迫っていた。


 この部屋にクライヴを残す。


 そう決めた瞬間、ルシアンは胸の奥が少し重くなるのを感じた。王城へ戻れば、フェリクスとミレイユから直接話を聞くことになる。イザーク王の治世に集中する欠落。地下の香炉に残った灰。ローディア家資料に現れた夜香と眠りの符丁。それらを並べた時、王家の歴史のどこに裂け目があるのか、少しずつ見えてくるはずだった。


 見えてしまう、と言うべきかもしれない。


「セレネ」


 呼ぶと、彼女は資料から顔を上げた。


「王城へ戻る。兄上たちの話を直接聞く」


「承知しました」


「この資料は、クライヴに任せる」


「はい」


 セレネは短く頷いたあと、開いていた写本の頁を慎重に閉じる準備を始めた。紙の端を傷めないよう、文鎮を外す順番にさえ気を配っている。


 クライヴが再び礼を取った。


「殿下。こちらはお任せください」


「ああ。ただし、何か見つけたら、些細なことでも報告しろ。判断に迷うものほど、勝手に捨てるな」


「心得ております」


 ルシアンは頷き、外套を手に取った。


 窓の外では、午後の光が傾き始めている。ローディア公爵家の庭には、まだ穏やかな影が伸びていた。だが、机の上に残していく古い資料は、その穏やかさとは別の場所へ続いている。


 ルシアンは扉へ向かいながら、開かれたままの過去を背に感じていた。夜香や眠りという符丁が、第十九代国王イザーク・アルヴェリアの治世に集中する欠落とどう繋がるのかは、まだ見えていない。だが、白百合宮北側に残された空白が、ただの記録の傷みでは済まないことだけは、もう疑いようがなかった。


 まだ答えには届かない。


 それでも、空白の輪郭は見え始めていた。

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