欠けた目録の符丁
眠る宮、という名を読み上げたあと、執務室にはしばらく紙をめくる音だけが残った。
乾いた革表紙は反り、頁の端は少し触れただけでも崩れそうに脆い。虫食いの穴は文字の一部を奪い、墨はところどころ紙の繊維と同じ色に沈んでいる。それでも、白百合宮の北側に関わる記述だけは、欠けた文章の隙間から妙にはっきりと浮かび上がって見えた。
ルシアンはすぐには口を開かなかった。
まだ、分かったと言えるほどのものはない。旧離宮群の奥に、王の御前から遠ざけられた女たちに関する記録がある。そこが、いつからか眠る宮と呼ばれていた。その程度の断片で、何かを断じるべきではなかった。名前は時に、真実を示すよりも、真実を覆うためにつけられる。
だからこそ、不用意に意味を決めつけるわけにはいかない。
「続きは読めるか」
ルシアンが問うと、セレネは古い頁へ視線を落としたまま、かすかに頷いた。
「欠けている箇所が多いです。ただ、同じ語が何度か出ています」
彼女は紙面に直接触れない。白い指先を頁の上にわずかに浮かせ、薄れた墨の流れを辿っていく。黒髪を留めた横顔は静かで、深い海色の瞳だけが、紙の上に残された細い線をひとつずつ拾っていた。
「……夜香」
セレネが低く読み上げた。
その響きを聞いた瞬間、ルシアンの喉の奥に、地下で嗅いだ甘さが戻った。湿った石の暗がりに漂っていた、白檀に似た香。香炉の底に残っていた、古くない灰。壁に刻まれた、眠らせないで、という乱れた文字。あの地下で見たものと、この古い記録がどこまで繋がるのかはまだ分からない。それでも、まったく無関係だと切り捨てるには、あまりに似た気配があった。
「香の名か」
「正式な銘ではないと思います。少なくとも、宮廷で一般に使われる香の呼び名ではありません」
「内輪の呼び方か」
「その可能性があります」
セレネは写本の脇に置かれていた紙束へ手を伸ばした。革紐でまとめられた控え書きで、表紙も題名もない。紙の大きさは揃っておらず、筆跡もひとつではなかった。誰かが複数の記録から必要な箇所だけを拾い、後でまとめ直したもののように見える。
紐が解かれると、乾いた紙が小さく擦れた。
「こちらにも、同じ語があります」
ルシアンは身を寄せた。
そこには白百合宮北側区域に関わるらしい物品や人の出入りが記されていた。だが、通常の王宮記録とは書き方が違う。部屋の正式名は曖昧に伏せられ、人名は頭文字か役目だけに置き換えられている。香炉、寝台、薬湯、衣類といった物の数は残されているのに、それが誰に用意されたものなのかは読み取りにくい。
「物の記録だけが妙に残っているな」
「はい。香炉や寝台、薬湯、衣類の数は確認できます。ですが、誰に割り当てられたものかが分かりません」
「普通なら逆だろう。王宮で使うなら、誰に、いつ、何のために支給したかを残す」
「特に女官や乳母に関わる記録なら、身元の確認は必要です。家格、出自、雇用の経緯、退職の理由。何らかの形で残すはずです」
セレネは一枚の紙を慎重に傾け、光の角度を変えた。
女官と思われる役目の横に、乳母を示すらしい短い記述があった。だが、続く行は虫食いで欠けており、さらに下の行には擦られたような薄い跡が残っている。行の端に、かろうじて子どもと読める語があった。けれど、その前後は途切れ、誰の子なのか、どこに置かれていたのかまでは分からない。
「消えたのか、消されたのか」
ルシアンは低く呟いた。
「今の段階では判断できません。ただ、自然な傷みとは違う箇所があります」
セレネが示した部分は、虫食いの穴とは違っていた。紙の表面だけが荒れ、文字のあった場所を後から擦ったように薄くなっている。年月による劣化なら、もう少し無作為に崩れるはずだった。だが、そこは名が記されていたと思われる箇所だけが、不自然に曖昧になっている。
ルシアンは、しばらくその跡から目を離せなかった。
女官や乳母、産婆に関する記述は残っているのに、名や所属だけが薄い。支給された物の数は淡々と並ぶのに、それを受け取った者の輪郭は見えない。その近くに子どもという語が残っていることが、かえって紙面の空白を重くしていた。
まだ断定はできない。
だが、ただ古くなっただけの記録には見えなかった。
セレネは別の紙を開いた。
「こちらには、同じ語の組み合わせが繰り返されています。白百合、北奥、夜香、眠り。文章の一部というより、資料を探すための目印に近いように見えます」
「符丁か」
「はい。表題や正式名を避けて、限られた者だけが分かるようにしているのかもしれません」
ルシアンは紙面を覗き込んだ。
確かに、いくつかの語が文の流れから少し浮いた形で挟み込まれている。白百合という語の近くに北奥があり、別の行には夜香や眠りという語が添えられている。祈祷文でも詩でもない。帳面の端に後から書き足された、道しるべのようなものに見えた。
「正式な目録に載せにくい資料だった、ということか」
「その可能性はあります。ただ、ローディア家側の整理方法なのか、もっと古い時代から使われていたものなのかは、まだ分かりません」
「王城側と照らし合わせなければ、判断できないな」
「ええ」
セレネは短く答え、紙束の下から薄い目録らしきものを引き出した。表題の一部は欠けているが、内部の文字は比較的読みやすい。いくつかの項目の横に、先ほどと同じような語が添えられていた。
ルシアンはその並びを見た。
白百合と北奥は、ほとんど同じ箇所に現れる。けれど、夜香と眠りは必ずしも揃っていない。夜香だけが添えられた項目もあれば、眠りという語だけが残る項目もある。その違いが何を意味するのかは、まだ掴めなかった。
「同じ意味ではなさそうだな」
「はい。夜香は香そのものを指している可能性が高いですが、眠りが何を指すのかは分かりません。結果なのか、状態なのか、あるいは別の分類なのか」
セレネの声は冷静だった。
白百合宮北側の記録に残る眠りという語が、ただの休息を意味していたのか、それとも別の何かを覆い隠すための言葉だったのかはまだ分からない。だが、夜香という語と並んで記されている以上、穏やかな響きのまま受け取ることはできなかった。
セレネは、さらに別の紙を並べた。
「この符丁は、女官と思われる記録だけではありません。乳母に関わるらしい記述にも出ています」
「乳母か」
「はい。ただ、こちらはさらに欠けています。預けられた相手の名も、支給品の詳細も途中で途切れていて、子どもという語だけが行の端に残っています」
ルシアンは紙面へ視線を落とした。
小さな衣類、薬湯、寝具と思われる語が並び、そのそばに乳母の役目を示す記述があった。子どもという語は、その流れの中にかろうじて残っている。独立した名簿ではない。むしろ、乳母や支給品の記録の端に、消しきれず残った痕のようだった。
「誰の子かは読めないか」
「読めません。母親の名に当たる部分も、ここは削られています」
セレネの指先が、荒れた紙面の上で止まる。
ルシアンは奥歯を噛んだ。
王宮で名を残さないことには意味がある。記録に名がなければ、後から辿れない。誰が仕え、誰が産み、誰が育て、どこへ消えたのかを曖昧にできる。だが、その曖昧さを偶然として片づけるには、欠けている場所があまりに揃いすぎていた。
「この符丁が付いた資料を、全部抜き出せるか」
「時間はかかりますが、できます」
「急がなくていい。紙を壊すな」
「承知しています」
セレネは淡々と答えた。
その手つきは相変わらず慎重だった。古い紙の端を折らないように押さえ、似た語が出る場所を確かめていく。ルシアンも横から目を通したが、古い略字は癖が強く、すべてを追うには時間がかかる。焦れば見落とす。見落とせば、欠けた記録の中でさらに何かを失う。
しばらく、二人は無言で資料を照合した。
紙と革の匂いが、執務室の空気に重く沈んでいる。外ではまだ午後の光が残っているはずなのに、机の上だけが古い地下へ近づいていくようだった。白百合、北奥、夜香、眠り。その語が出るたびに、地下で見た香炉と壁の文字が、ルシアンの記憶の中で静かに重なっていく。
セレネがふと、目録の端に残る短い語列を見つめた。
その沈黙が、少しだけ長かった。
「何かあるのか」
ルシアンが問うと、セレネはすぐには答えなかった。海色の瞳が、紙の端に書かれた語の並びをじっと見ている。読めないものに戸惑っているというより、別のものに似ていると感じているような顔だった。
「分かる、というほどではありません。ただ……資料を開くための、パスワードのように見えます」
聞き慣れない響きだった。
ルシアンがわずかに眉を動かすと、セレネは自分の言葉に気づいたように、静かに言い直した。
「開くための言葉、という意味です。鍵そのものではなく、鍵を使う者にだけ分かる印、と言った方が近いかもしれません」
「符丁と同じか」
「ええ。似たようなものです」
奇妙な言葉は耳に残った。
だが、ルシアンはそれ以上問わなかった。今追うべきは、セレネがこぼした聞き慣れない語ではなく、紙の上に残された目印の方だ。彼女が時折、この国のどこにも属さないような響きを口にすることは昔からあった。気にならないわけではない。だが、今この場で踏み込むべきことではなかった。
「なら、そのパスワードとやらが結んでいる資料を探す」
「はい」
セレネは短く答え、目録と控え書きをさらに並べていく。
やがて、同じ語列を持つ紙が数枚見つかった。どれも白百合宮北側に関わるらしいが、内容は少しずつ違う。物品の管理、女官らしき者の配置、乳母に関わる記述、香炉や薬湯の数。そこに夜香や眠りという語が絡むたび、記録は少しずつ人の姿から遠ざかり、物と数だけの乾いた帳面へ変わっていく。
「王城側の記録と照らし合わせる必要があるな」
「はい。こちらだけでは、欠けているものがローディア家側のものなのか、王城側にも同じ空白があるのか判断できません」
「結論を急げば、記録の欠落に引きずられる」
「ええ」
セレネは静かに頷いた。
その時、扉の外で控えめな足音がした。
廊下に控えていた使用人が、誰かと短く言葉を交わしている。声は抑えられていたが、近づいてくる気配には迷いがない。ルシアンは資料から顔を上げた。
「何だ」
扉の向こうで、使用人が一礼する気配がした。
「失礼いたします。クライヴ卿がお見えでございます」
ルシアンは机の上に開いた資料へ目を落とした。セレネはすぐに写本の頁へ文鎮を置き、古い紙が風で動かないよう整える。その動きが終わるのを待ってから、ルシアンは扉へ視線を向けた。
「通せ」
扉が開いた。
入ってきたクライヴは、礼を失わぬ範囲で急いでいた。外套の肩には薄い埃が残り、ここまで足を速めて来たことが分かる。それでも姿勢は崩れていない。彼はルシアンとセレネへ順に礼を取った。
「ルシアン殿下。ヴァルキュリア侯爵令嬢。お取り込み中、失礼いたします」
「構わない。何があった」
「フェリクス殿下ならびにミレイユ・クローディア伯爵令嬢より、至急お伝えすべきことがあるとのことです」
クライヴの声は低く、硬かった。
その声音だけで、王城側の調査でも軽く扱えないものが見つかったのだと分かる。ルシアンは、開かれた写本からゆっくり視線を上げた。
「聞こう」
紙と革の匂いが満ちる執務室で、クライヴは一度だけ息を整えた。




