白百合古宮抄録
湯を使い、服も手袋も替えた。
濃紺の外出着は礼装ほど華やかではないが、襟元と袖口には細い金糸が控えめに走っている。剣を帯びても布が邪魔にならない仕立てで、王族特務隊として動く時の装いに近い。外套も新しいものを選ばせた。地下の香を、これ以上まとっていたくはなかった。
それでも、香の記憶までは落ちない。
白檀に似た甘さは、もう髪にも袖にも残っていないはずだった。だが、ふと呼吸をした拍子に、湿った石の暗がりが喉の奥へ戻ってくる。閉ざされた地下。古くない灰。壁に刻まれた、眠らせないで、という文字。ミレイユの言葉もまだ耳に残っていた。換気の悪い場所で長く焚けば、眠気や脱力を誘う可能性がある。殺すためではない。だが、閉じ込められた者から抵抗する力を奪うには、それだけで十分だったかもしれない。
星見宮の玄関広間へ降りると、セレネはすでに待っていた。
妃教育用の淡い衣装ではなく、深い藍色の外出着に着替えている。裾は歩きやすく整えられ、袖口の飾りも少ない。黒髪は上半分だけをゆるく後ろへ流しているが、肩へ落ちる髪にはまだ少し乱れが残っていた。急いで支度してきたのだろう。
それでも、その装いは彼女によく似合っていた。
深い藍は、セレネの肌の白さを静かに浮かび上がらせる。黒髪の艶は夜の水面に似て、わずかに身じろぐたび、午後の光を細く弾いた。飾り気の少ない外出着であるはずなのに、彼女が着ると、どこか月のない夜に似た静けさが宿る。
「早かったな」
「殿下が半刻後と仰いましたので」
「本当に半刻で済ませるとは思わなかった」
「遅れた方がよろしかったでしょうか」
「そうは言っていない」
セレネは静かに頷いた。深い海色の瞳には、いつもの冷静さが戻っている。ローディア公爵家へ向かうことに、怯えも嫌悪も見えない。ただ、調べるべき場所へ向かう者の顔をしていた。
玄関の外には、馬車が用意されていた。
王族用の紋章は控えめに隠してある。ローディア家へ向かうこと自体を隠す必要はないが、余計な目を集める必要もない。白百合宮の北側区域に関する調査だと知れれば、王宮内の噂はまた別の形に変わる。怪異を恐れる者もいれば、古い宮の秘密に興味を持つ者もいる。どちらも、今は邪魔だった。
ルシアンは馬車の前で足を止め、セレネへ手を差し出した。
「足元に気をつけろ」
「ありがとうございます」
セレネは短く礼を言い、その手に指先を預けた。手袋越しの軽い重みが、ほんの一瞬だけ残る。彼女が馬車へ乗り込むのを見届けてから、ルシアンも後に続いた。
馬車が動き出す。
星見宮の白い壁が窓の外で遠ざかり、王城の廊門を抜けると、午後の王都が広がった。市場へ向かう馬車の音、通りを歩く人々の話し声、貴族街の窓辺に揺れる花。何も知らない者には、王都はいつも通り平穏に見えるだろう。
その平穏を横目に、ルシアンは膝の上で手袋の指先を軽く握った。
白百合宮の地下で見つかった香炉。古くない灰。欠けた図面。王家の禁書庫から消えた記録。今から向かうローディア公爵家に、その欠けた部分が残っているかもしれない。
「ローディア家へ行くことに、支障はないか」
セレネは窓から視線を戻した。
「ありません」
迷いのない返事だった。
「ただ、あの家に残るものが、すべて整理されたとは思っていません」
「禁書庫か」
「禁書庫も。書斎も。人の記録も」
馬車の車輪が石畳の上で細かく揺れる。
セレネはそこで口を閉じ、もう一度窓の外へ視線を戻した。午後の光を受けた横顔は、いつも通り静かだった。第一章の事件を思い出しているのか、それとも今から見る写本のことだけを考えているのか、表情からは読めない。
ローディア公爵家には、三ヶ月前の事件の名残がある。
だが、今から向かう目的は過去の事件ではない。白百合宮の北側区域に関する、王家の記録から欠け落ちた手がかりを探すことだった。
「エレノア嬢には会えるだろうか」
ルシアンが言うと、セレネの瞳がわずかに和らいだ。
「お元気だとよいのですが」
「三ヶ月経っている。足も少しは戻っているかもしれない」
「ええ」
短い返事だった。
それでも、そこには普段よりわずかに柔らかな響きがあった。セレネは大きく感情を見せない。だが、何も感じていないわけではない。そういう小さな差を、最近のルシアンは以前より見逃さなくなっていた。
やがて馬車は貴族街へ入り、ローディア公爵邸の門前で速度を落とした。
高い鉄柵と古い石造りの門。白金の百合を象ったローディア家の紋章が、門柱に淡く光を返している。三ヶ月という時間は、屋敷からすべての影を消すには短い。けれど、門前に立つ使用人たちの動きは落ち着いていた。庭の枝は整えられ、砂利道には新しい箒目が残っている。
外から見れば、そこはただの名門公爵家だった。
当主を失った家というより、新しい当主の下で静かに日常へ戻ろうとしている家に見える。
馬車が玄関前で止まった。
先触れは出してある。黒衣の執事が玄関前で深く頭を下げた。老年に差しかかった男だったが、背筋に緩みはない。扉の前に立つ姿には、長くこの家に仕えてきた者の節度があった。
「ルシアン殿下、ヴァルキュリア侯爵令嬢。お待ちしておりました」
「新公爵は」
「応接間にてお待ちでございます」
新公爵。
その呼び名が、屋敷の空気を思ったよりはっきり変えていた。
屋敷の中へ入ると、午後の光が廊下の床に細く落ちていた。
重い窓掛けの一部は外され、壁の花器には新しい花が生けられている。あまり華やかではない。だが、荒れてもいない。磨かれた手すり、整えられた絨毯、すれ違う使用人の礼。どれも、古い公爵家としての体面を保っていた。
以前この屋敷に漂っていた、息を詰めるような暗さは薄れている。だが、完全に消えたわけではなかった。長い廊下の奥、閉ざされた扉の隙間、磨き上げられた銀の燭台の鈍い光。そうしたものの端々に、まだ声にならない記憶が沈んでいる。
人が死んだ家は、すぐには元に戻らない。
それでも、戻ろうとすることはできる。
応接間の扉が開かれると、中にいた男が立ち上がった。
「ルシアン殿下。ヴァルキュリア侯爵令嬢」
落ち着いた声だった。
年は三十前後。白金髪をきちんと撫でつけ、喪を示す黒を控えめに取り入れた礼装を身につけている。淡い翠の瞳には疲れがあるが、背筋は真っ直ぐだった。
「オルグレン・ローディアでございます。改めて、お越しいただき感謝いたします」
新しいローディア公爵。
前公爵の長男であり、今この家の当主となった男だ。
「急な訪問ですまない」
「いえ。王家からのご要請であれば、可能な限り協力いたします」
言葉は整っている。過剰な恐縮も、無理に媚びる響きもない。家の名を守る者として、必要な礼を尽くしている。それだけだった。
ルシアンは席へ案内されながら、応接間の中を見た。
窓は開かれ、花もある。茶器もきちんと磨かれていた。悲劇の痕を隠そうとしているというより、日常を戻すために整えられた部屋だった。
「家中は落ち着いているようだな」
オルグレンはわずかに苦く笑った。
「父が亡くなった直後は、多少の混乱がございました。ですが、公務の大半は数年前から私が引き受けておりましたので、実務そのものは大きく変わっておりません」
淡々とした声だった。
「父は、晩年は書斎と禁書庫にいる時間が長くなっておりました。領地や財務の報告も、私を通すことが増えていましたので」
それ以上、彼は言わなかった。
ルシアンも聞かなかった。
当主の座にいながら実務から離れていった父。その空白を、長男が埋めていた。屋敷が思ったより落ち着いて見える理由は、それだけで十分だった。
「今回の件で確認したいのは、白百合宮に関する写本だ」
「承知しております。王家から事前にいただいた書名については、目録を確認いたしました」
「白百合古宮抄録」
「はい」
オルグレンの表情がわずかに引き締まる。
「父の管理していた禁書庫の奥に、同名の写本がございました。ただ、保存状態はよくありません。虫食いもあり、欠落も多い」
「見せてもらう」
「もちろんです。禁書庫は閲覧に向きませんので、関連しそうな資料とあわせて執務室へ運ばせております。そちらでご確認ください」
その言葉の後、オルグレンは壁際に控えていた執事へ目を向けた。
執事は静かに一礼し、扉の近くに控えていた若い使用人へ視線を送った。声に出すまでもない指示だったのだろう。若い使用人はすぐに姿勢を正し、音を立てずに部屋を出ていった。重い扉が閉まる音は控えめで、応接間に残った沈黙を乱すことはなかった。
茶器の銀縁に午後の光が細く触れ、壁に掛けられた古い肖像画の額を淡く照らしている。ローディア公爵家は、確かに立ち直ろうとしていた。けれど、立ち直るということは、過去がなかったことになるという意味ではない。
その時、応接間とは別の扉の向こうで、かすかな足音がした。
ひとつ、間を置いて、またひとつ。
急ぐ足ではない。だが、慎重すぎるほど遅くもない。床を踏む音には、以前のような痛みをかばう乱れが少なく、絨毯の上でかすかに裾が擦れる音が続いていた。
オルグレンが、その音に気づいて顔を上げる。
彼の表情が、ほんのわずかに和らいだ。
壁際に控えていた執事が扉へ進み、内側から来訪者を迎えるように片手を添える。扉が開かれる直前、向こう側で小さく息を整える気配がした。
その慎ましい間だけで、誰が来たのかは分かった。
執事が扉を開け、深く身を引く。
「エレノア様がお見えです」
入ってきた令嬢を見て、ルシアンは少しだけ目を細めた。
エレノア・ローディアは、杖を持っていなかった。
白金髪を柔らかく整え、淡い翠の瞳をこちらへ向けている。以前は立っているだけでも足元に不安が残っていたが、今はゆっくりと、自分の足で応接間へ入ってきた。歩幅は大きくない。急ぐこともない。だが、床を踏む音には、前に見た時のような痛々しい揺らぎがなかった。
部屋の隅には杖が立てかけられている。
完全に必要なくなったわけではないのだろう。それでも、今の彼女はそれに縋らず歩いていた。
「ルシアン殿下、ヴァルキュリア侯爵令嬢」
エレノアは、両手でそっとスカートを摘まんだ。
膝を折る動きはゆっくりだった。だが、危うさはない。背筋は伸び、裾の揺れも美しく収まっている。足に不調が残っている者の礼ではなく、ローディア公爵令嬢として客人を迎えるための、整ったカーテシーだった。
「本日は、ローディア公爵家へお越しいただき、ありがとうございます」
まずルシアンへ、次いでセレネへ。順を違えない礼だった。かつてより少し痩せた頬には緊張が残っていたが、声はきちんと整えられている。新しい当主の妹として、そして公爵家の令嬢として、この場に立とうとしているのが分かった。
「急に訪ねてすまない。足はもう大丈夫なのか」
ルシアンがそう言うと、エレノアは少しだけ目を伏せた。
「はい。まだ長く歩く時には杖を使いますが、少しずつ戻っております。ご心配をおかけいたしました」
「無理はするな」
「ありがとうございます」
そこでようやく、エレノアの視線がセレネへ向かった。
礼儀正しく抑えられていた表情が、ほんのわずかにほどける。淡い翠の瞳が、憧れの相手を前にして必死に平静を保っている令嬢のそれになった。
「……お久しぶりです、セレネ様」
「ええ。お顔色がよくなられましたね」
「は、はい」
エレノアは一瞬だけ息を詰め、それから少し早口になった。
「少しずつですが、歩けるようになりました。医師にも、焦らず戻せばよいと。あの、セレネ様にそう言っていただけて、とても……」
そこまで言って、彼女は自分の声が弾みすぎたことに気づいたらしい。慌てて唇を閉じ、頬をわずかに染める。
「……光栄です」
セレネは少しだけ瞬きをした。
「よかったです」
いつも通り落ち着いた短い言葉だった。
それだけで、エレノアの表情がまた明るくなる。大きく笑うわけではない。ローディア公爵令嬢としての礼は崩さない。けれど、胸の内で小さく歓声を上げているのが見えるようだった。
ルシアンは、セレネを見た。
当の本人は、自分がどれほど人の感情を動かしているのか分かっていない顔をしている。
そこが少し、面白くなかった。
「殿下、ヴァルキュリア侯爵令嬢」
オルグレンが静かに声をかけた。
「資料の準備が整っております。こちらへ」
応接間を出ると、オルグレンは廊下の奥へ向かった。
先ほど通された表側の廊下よりも、こちらは少し狭い。壁には古い燭台が等間隔に並び、窓から入る午後の光は高い位置で細く切れて、磨かれた床の上に長い線を落としていた。先導するオルグレンの足音は静かで、その後ろをエレノアが無理のない歩幅で続く。杖は持っていないが、兄は時折、妹の歩みを確かめるようにわずかに速度を緩めた。
ルシアンは、その少し後ろをセレネと並んで歩いた。
屋敷の奥へ進むにつれて、客間にあった花の香りは遠ざかり、代わりに紙と革の匂いが濃くなる。閉じられた扉の向こうには書庫か資料室があるのだろう。古い木の扉には真鍮の札が打たれ、いくつかの部屋の前には、封をしたままの箱が積まれていた。
ローディア家は、確かに整えられている。
だが、整えられた廊下の奥には、まだ開かれていないものが残っていた。
セレネは何も言わなかった。歩くたび、深い藍色の裾が絨毯の上をかすかに擦れる。その音だけが、古い屋敷の沈黙に細く残った。
やがて、オルグレンが重い扉の前で足を止めた。
「こちらです」
案内されたのは、ローディア公爵家の執務室だった。
室内は広いが、華美ではない。大きな机、壁一面の書架、封蝋の箱、領地図、整えられた帳簿。窓辺には新しい花が生けられていたが、その淡い香りよりも、古い紙と革表紙の匂いが勝っていた。
この部屋は、前公爵の狂信を祀るための場所ではない。
家を動かすための部屋だ。
ルシアンはそう感じた。
机の上には、すでに数冊の帳面と革紐で束ねられた古い書類が並べられていた。その中央に、ひときわ古びた革表紙の写本が置かれている。
白百合古宮抄録。
表紙の文字は掠れ、端は擦り切れていた。けれど、その名だけは奇妙にはっきりと残っている。
「この部屋は、父の死後に私が整理いたしました」
オルグレンが静かに言った。
「必要と思われる資料は、禁書庫からこちらへ移してあります。人払いも済ませておりますので、どうぞごゆっくりご確認ください。新たに必要なものがありましたら、扉の外に控えを置いておりますので、お呼びください」
「助かる」
「いえ。ローディア家としても、知らぬままでよいことではありません」
その言葉には、家の罪を隠す者の響きはなかった。
むしろ、古いものを見ないふりで済ませることに、疲れているようにも聞こえた。
エレノアは机の上の写本を見てから、そっとセレネへ視線を向けた。
「セレネ様……いえ、ヴァルキュリア侯爵令嬢」
言い直した声は少し硬かった。
「どうか、ご無理はなさらないでください。この家の記録は、時々……あまり気持ちのよいものではありませんから」
セレネは静かに瞬きをした。
「ありがとうございます。必要なら、休みます」
淡々とした返事だった。
だが、エレノアはそれだけで安心したように小さく頷いた。
オルグレンが深く一礼する。
「では、私どもはこれで。何かございましたら、すぐにお呼びください」
エレノアもそれに倣い、丁寧に膝を折った。
「失礼いたします」
二人が退出すると、扉が静かに閉じた。
重い扉の向こうで足音が遠ざかる。廊下に控える者の気配はあるが、室内にはルシアンとセレネだけが残された。
ふっと、空気が変わった。
応接間の礼儀や、当主としての言葉や、公爵令嬢としての微笑が扉の外へ退いた後、執務室には紙の匂いと沈黙だけが残った。
「……ようやく読めるな」
ルシアンが言うと、セレネはすでに机へ近づいていた。
「ええ」
返事は短い。
セレネは、すぐには表紙を開かなかった。
まず、手袋の留め具へ指をかける。外出用の薄い手袋ではあったが、古い紙の傷みを確かめるには、布一枚でも感覚を鈍らせる。彼女は片方ずつ静かに外し、机の端へ揃えて置いた。
ルシアンも、それに倣って手袋を外す。
革が指から抜けるかすかな音が、執務室の沈黙に落ちた。外気に触れた指先に、古い紙と革の匂いが少し近くなる。
セレネはそれから、写本の背に目を落とし、綴じ糸の緩みを確かめた。革表紙の端は乾いて反り、指をかけるだけで細かな屑が落ちそうだった。彼女は爪を立てず、指の腹だけで表紙の縁に触れる。その仕草は、怪しいものを恐れているというより、壊れやすい証言者に余計な傷をつけまいとしているように見えた。
「かなり脆そうです」
「開けるか」
「ゆっくりなら」
セレネは片手で表紙を支え、もう片方の手で最初の頁を押さえた。乾いた革がわずかに軋み、紙の束が息を吐くような音を立てる。古い紙の匂いがふわりと立ち上がった。埃と革と、長く閉じ込められていた湿気の名残が混じった匂いだった。
ルシアンは無意識に息を浅くした。
地下で嗅いだ香とは違う。それでも、閉ざされた場所に長く残っていたもの特有の重さがあった。人目を避け、光を避け、誰かの手から手へ渡されながら、それでも処分されずに残った記録。その重みが、開かれた頁の隙間から静かに滲み出してくる。
虫食いの穴が、文字の一部を呑んでいる。墨はところどころ薄れ、紙の端は欠け、触れれば崩れそうなほど乾いていた。だが、完全には失われていない。消される寸前で踏みとどまったように、細い筆跡が頁の上に残っている。
セレネは文字を追うため、わずかに身を乗り出した。
その動きに合わせて、肩にかかっていた黒髪が音もなく滑る。深い藍の襟元を越え、頬の横を流れ、紙面の端へ細い影を落とした。彼女は視線を頁に置いたまま、慣れた仕草で髪を耳へかける。白い指先が黒髪の間を通り、すぐに写本の端へ戻った。
だが、頁を傷めないように顔を近づけるたび、同じ房がまた静かに落ちてくる。
セレネは気にしていないようだった。あるいは、気にするより先に文字を読むことを優先しているのかもしれない。細い眉がわずかに寄り、海色の瞳が滲んだ墨の線を丁寧に辿っている。
ルシアンは、その横顔を見た。
紙面に落ちる黒髪の影。白い指。慎重に押さえられた古い頁。調査に集中している横顔はいつも通り冷静で、こちらの視線には気づかない。
小さく息を吐く。
「邪魔だろう」
セレネが顔を上げる。
「何がでしょう」
「髪だ」
そう言って、ルシアンは懐へ手を入れた。
取り出したのは、銀細工の細い髪留めだった。夜会用の飾りほど華やかではない。けれど、粗末なものでもなかった。細い銀の線が月光のように淡く光り、端には小さな青い石がひとつ嵌め込まれている。
調査中に使っても邪魔にならない。古い紙を傷つけるほど大きくもない。
ただ、青い石の色だけが、少し余計だった。
セレネの深い海色の瞳に似ている。そう思って選んだことを、ルシアンは言うつもりがなかった。
「使え」
短く言って差し出すと、セレネはすぐには受け取らなかった。
海色の瞳が、髪留めからルシアンの顔へ移る。
「……殿下」
「何だ」
「これを、持っていらしたのですか」
「見れば分かるだろう」
「私に渡すために?」
「他に誰が使うんだ」
言ってから、少し返し方を間違えた気がした。
セレネは怒るでもなく、ただ静かに髪留めを見ている。銀細工の細さ、青い石の色、調査中でも使える控えめな作り。そこまで見れば、ただ目についたものを持ってきたわけではないことくらい、彼女なら気づくだろう。
気づかなくていいことまで気づく女だ。
ルシアンはわずかに眉を寄せた。
「古い記録を見る時、お前はよく髪を落とす。紙面にかかれば読みにくいし、傷んだ頁に触れれば面倒だ」
「そのために、用意してくださったのですか」
「調査に必要だと思っただけだ」
「そうですか」
「何だ、その間は」
「いえ」
セレネは髪留めを受け取った。
白い指先が銀細工を軽く支える。小さな青い石を見たあと、彼女はふと、ほんの小さく笑った。
声に出すほどではない。唇の端がわずかにほどけただけだ。
けれど、ルシアンには分かった。
「……笑ったな」
「はい」
あまりに素直に認められて、ルシアンは一瞬、言葉に詰まった。
「……何がおかしい」
「おかしい、というほどではありません」
「なら、なぜ笑った」
セレネは髪留めへ視線を落とした。
銀細工の細い留め具。黒髪に沈めればほとんど目立たないほど控えめで、けれど、嵌め込まれた青い石だけは静かに光を返している。
「殿下が、これを私に渡すために懐へ入れて持っていらしたのだと思うと」
そこで、彼女は一度言葉を切った。
海色の瞳が、ほんのわずかに細められる。
「少し、可愛らしいと思いました」
「……は?」
ルシアンは眉を寄せた。
そうしたつもりだった。
だが、頬のあたりに熱が上がるのが、自分でも分かった。まずいと思った時にはもう遅い。セレネの視線が、ほんの一瞬だけこちらの顔へ向いていた。
「お前、今、何と言った」
「可愛らしい、と」
「聞き間違いじゃなかったのか」
「はい」
「俺に向かって言う言葉じゃないだろう」
「そうでしょうか」
「そうだ」
声が少し低くなったのは、怒ったからではない。
照れたからだ。
その自覚が余計に腹立たしく、ルシアンはわざと写本へ視線を落とした。だが、紙面の文字は少しも頭に入ってこない。
セレネは何事もなかったように黒髪を片側へ寄せる。
「ですが、ありがとうございます」
静かな声だった。
からかいではない。
そのことが分かってしまったから、余計に始末が悪かった。
「……礼を言うほどのものじゃない。調査の邪魔になるから渡しただけだ」
「ええ」
「本当に分かっているのか」
「はい。実用品ですね」
セレネはそう言って、銀の髪留めで落ちていた房を留めた。小さな青い石が黒髪の中で淡く光る。
その色が、彼女の海色の瞳に近いことに気づかれているのかどうか。
ルシアンには分からない。
ただ、セレネの口元にまだ淡い笑みの余韻が残っているのを見て、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
「……読むぞ」
「はい」
いつも通りの返事だった。
けれど、紙と革の匂いに満ちた執務室の沈黙は、先ほどよりわずかに柔らかくなっていた。
最初の頁には、掠れた筆跡で短い覚え書きが残されていた。
墨はところどころ薄れ、虫食いの穴が文字の端を呑んでいる。書いた者の手が震えていたのか、あるいは後から滲んだのか、線の太さは不揃いだった。公的な記録にあるような整った筆跡ではない。急いで写したものにも見えるし、誰かに見つかる前に、最低限の事実だけを紙へ押し込めたようにも見えた。
セレネが指先で頁の端を押さえる。
爪を立てないように、白い指は紙へ触れるか触れないかのところで止まっていた。彼女は一行ずつ、欠けた文字を拾うように視線を動かす。ルシアンも横から覗き込んだが、古い文字は癖が強く、すぐには意味を結ばなかった。
「……白百合宮北側」
セレネが静かに読み上げる。
「旧離宮群の、さらに奥」
そこで一度、彼女の声が止まった。
午後の光が窓から差し込み、紙面の凹凸を淡く照らしている。虫食いで失われた部分を避けながら、セレネの海色の瞳が次の行を追った。
「王の御前から遠ざけられた女たちを、移した場所」
ルシアンは眉を寄せた。
王の御前から遠ざけられた女たち。
言い換えれば、王の前に置いておけなくなった女たち、ということだ。罪を犯した者なのか。寵を失った者なのか。あるいは、存在そのものを隠す必要があった者たちなのか。
写本は答えない。
ただ、古い紙の上に残った文字だけが、こちらの想像を嫌な方へ押しやる。
セレネはさらに下の行へ視線を落とした。
「……そこは、いつからか」
薄く掠れた文字の上で、彼女の指先が止まる。
「眠る宮と呼ばれるようになった」
その言葉が執務室に落ちた瞬間、空気がわずかに重くなった気がした。
風など入っていないはずなのに、卓上に積まれていた紙片がかすかに震える。窓辺の花は動いていない。燭台の影も乱れていない。だが、開かれた写本の頁だけが、見えない息を受けたように小さく鳴った。
眠る宮。
美しい名ではない。
柔らかな響きの奥に、眠らされる者の気配がある。休息ではなく、沈黙。安らぎではなく、目を閉じることを強いられた者たちの気配だ。
地下で嗅いだ甘い香の記憶が、喉の奥へ戻ってくる。
白檀に似た、湿気に紛れきらない甘さ。古く染みついた匂いにしては輪郭が立っていた、あの香。香炉の中に残っていた古くない灰。壁に刻まれていた、乱れた文字。
眠らせないで。
ルシアンは無意識に外した手袋を見た。
今は何も隔てていない指先が、古い紙の気配をやけに近く感じている。あの言葉を書いた者も、こうして何かに触れようとしたのだろうか。眠りそのものを恐れていたのか。眠らされた後に起こることを知っていたのか。それとも、目覚めた時には何かを奪われていると、もう分かっていたのか。
セレネは黙っていた。
髪留めで留めた黒髪の下、白い横顔はほとんど動かない。だが、海色の瞳だけが、頁の上に残された短い文字をもう一度なぞっている。
午後の光に満ちたローディア家の執務室で、古い宮の名だけが、静かに息を吹き返した。




