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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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欠けた図面

 フェリクスが星見宮へ来たのは、午後の光が少し傾き始めた頃だった。


 扉が叩かれ、返事をするより早く、聞き慣れた声が廊下から届く。


「入っていいかな。駄目って言われても入るけど」


「聞く意味がないなら黙って入れ」


 ルシアンが返すと、扉が開いた。


 フェリクスは、相変わらず緊張感の薄い顔で入ってきた。柔らかい金髪をゆるく後ろへ流し、空の青と夕日の金が混じる瞳を楽しげに細めている。だが、その腕に抱えた古い図面筒と、脇に挟まれた数冊の記録帳が、いつもの軽さとは釣り合っていなかった。


 その後ろから、ミレイユ・クローディアが遠慮がちに入ってくる。


 淡い茶色の髪をきちんとまとめ、小柄な身体に落ち着いた色の外出着をまとっていた。丸眼鏡の奥の緑がかった瞳は穏やかだが、手にした薬箱だけは妙に重そうだった。普段は柔らかな雰囲気の令嬢に見えるが、薬学と毒物の話になると、彼女はフェリクスより容赦がない。


「ルシアン。君の頼みごとは、相変わらず可愛くないね」


「可愛い頼みごとを兄上にした覚えはありません」


「それは残念」


 フェリクスは軽く笑い、執務机の前へ図面筒を置いた。紙と古い革の匂いが、部屋の空気に混じる。


 ミレイユは小さく礼を取った。


「お邪魔いたします、ルシアン殿下。セレネ様」


「急に呼び立てて悪い」


「いえ。香炉の灰と香の件だと伺いましたので」


 彼女は薬箱を両手で抱え直す。声は穏やかだが、目はすでに研究者のものだった。


 セレネは執務机の傍らに立っていた。妃教育を終えたままの衣装は、淡い色の生地が午後の光を受けて柔らかく見える。だが、これから話す内容にはあまりにも似合わない。地下の香、古い灰、壁に刻まれた文字。あの薄暗さを連れてくるには、彼女の装いは静かすぎた。


 フェリクスは椅子に腰を下ろすと、図面筒へ手を置いた。


「図面の方は、ちょうど追っていたところだったんだ」


「白百合宮北側区域をか」


「正確には、王城全体の地下構造をね。水鏡の魔女の件以来、地下水路だけじゃなく、増改築で塞がれた通路、写本で省かれた線、使われなくなった離宮の地下を洗い直していた。君から北側離宮群の話が来た時、あまり驚かなかったよ」


 軽い口調だったが、置かれた図面筒の古さが、その言葉の重さを裏づけていた。


「先に香からにしようか。ミレイユ」


「はい」


 ミレイユは薬箱を開け、小さな硝子瓶と紙包みを取り出した。中には、二つの香炉から分けた灰がそれぞれ少量ずつ入っている。昨日回収したものと、今日見つけた二つ目の香炉のものだ。


「本格的な分析には、もう少し時間をいただきます。ですが、簡単に見た限りでは、白檀だけではありません」


「似せてあるのか」


 ルシアンが低く問う。


「おそらく」


 ミレイユは瓶を光に透かすように持ち上げた。


「香りの芯は白檀に近いです。けれど、混ぜ物があります。強い毒ではありません。吸ってすぐ倒れるようなものではないと思います」


「殺すための香ではない」


「はい。少なくとも、その目的では作られていないかと」


 そこで、彼女は言葉を選ぶように少しだけ視線を落とした。


「ただ、換気の悪い場所で長く焚けば、眠気や脱力は出る可能性があります。体力のない方、幼い子ども、妊娠中や産後の女性なら、影響は強く出るかもしれません」


 執務室の空気が、わずかに重くなった。


 ルシアンは机の上に置いた手袋を見た。まだ湯は使っていない。着替えたはずの袖口から、白檀に似た甘さがふと戻る気がする。ミレイユの言葉で、地下の低い壁に刻まれた潰れかけの文字が、もう一度浮かんだ。


「昨日回収した香炉と、今日見つけた香炉の灰は違うのか」


 ミレイユは小さく頷いた。


「古さが違います。昨日のものは湿気を吸い、かなり重くなっていました。今日のものは、それよりずっと軽い。完全に新しいとまでは言いませんが、長い年月放置された灰ではありません」


「最近焚かれた可能性があるか」


「あります」


 その答えは穏やかだったが、曖昧ではなかった。


 フェリクスが、指先で図面筒を軽く叩く。


「香はミレイユの領分。僕はこっちだね」


 彼は筒から古い図面を取り出し、机の上へ広げた。白百合宮周辺の古い構造図だった。紙は黄ばみ、端は擦り切れている。増改築のたびに書き足された線が幾重にも重なり、表の宮殿とは別の複雑な顔を見せていた。


 セレネが視線を落とす。


「これは、いつ頃のものですか」


「写しは今から五十年ほど前。元になった図面はもう少し古い。北側離宮群がまだ今ほど封じられていなかった頃のものだと思う」


 フェリクスは細い指で図面の一角を示した。


「ここが白百合宮の北側区域。こっちが北庭園。で、この先が旧離宮群」


 ルシアンは見慣れた配置を目で追った。昨日と今日歩いた道が、古い線の上に薄く重なる。管理門、石畳、調査対象の離宮。その下に、地下へ続く入口が小さく記されていた。


「地下は描かれているな」


「途中まではね」


 フェリクスは別の紙を重ねた。こちらは比較的新しい写しだった。同じ場所の図面のはずだが、地下へ伸びる線が途中で消えている。


「古い図面には、地下の先へ伸びる線がある。新しい写しでは、その部分だけが妙に綺麗に途切れている」


 セレネが目を細めた。


「破損や写し間違いではなく?」


「そう見せるには、少し丁寧すぎる」


 フェリクスの声音から、笑みが薄くなった。


「線を省くだけなら、もっと雑になる。けれどこれは、他の部分と繋がりが不自然にならないように整えてある。写した人間は、そこに何かが続いていることを知っていて、消している」


 ルシアンは図面の途切れた場所を見下ろした。地下の奥で聞こえた布擦れのような気配が、ふと蘇る。


「古い図面の先は」


「完全には追えない。そこから先の原図がないんだ。もしくは、見つからない場所へ移された」


「王家の禁書庫か」


「その可能性はある」


 フェリクスは次に、薄い記録帳を開いた。


「禁書庫の目録もざっと当たった。君が拾えと言った言葉に近いものはいくつかあったよ。白百合宮北側区域、旧離宮群、香炉、女官、乳母、眠りに関わる記述」


「出たのか」


「題名だけは」


 フェリクスは、記録帳の一行を指で押さえた。


「本体がない。目録には載っているのに、棚番号が消されている。貸出記録も途中で切れている。こういう欠け方は、偶然ではあまり起きない」


 セレネは黙って聞いていた。


 その横顔に大きな驚きはない。驚いていないのではなく、そうであってもおかしくないと最初から見ていた顔だった。


「水鏡の魔女の時と似ていますね」


 彼女が言う。


 フェリクスは、軽く肩をすくめた。


「僕もそう思う。王家の記録で抜けているものが、怪異や伝承の形で外に残っている。前回はローディア家の禁書庫が、その受け皿になっていた」


「今回もそこにあると?」


 フェリクスは記録帳をもう一枚めくった。


「断言はしない。ただ、目録に参照元が残っていた」


 古い紙の端に、小さな文字がある。写本の所在を示す一文。フェリクスの指がそこを押さえた。


「ローディア公爵家所蔵写本、白百合古宮抄録」


 ローディア。


 その名が出た瞬間、星見宮の執務室の空気がわずかに重くなる。


 水鏡の魔女。黒い水面。血の抜けた死体。狂信に濁った前公爵の目。三ヶ月が過ぎた今でも、あの事件の影は完全には薄れていない。終わったはずの事件の奥に、別の隠し扉があったような気分だった。


「白百合古宮抄録」


 セレネがその名を繰り返す。


「題からして、白百合宮の古い区画に関する記録でしょうね」


「問題は、王家側の禁書庫にはその写しがないことだ」


 フェリクスは言った。


「目録だけ残って、本体がない。しかも参照先がローディア家。君たちが行く理由には十分だと思うよ」


「君たち?」


 ルシアンが眉を上げると、フェリクスは楽しそうに笑った。


「まさか一人で行く気だった?」


「セレネは連れて行く」


「それがいい。ローディア家の禁書は、君よりセレネ嬢の方が読み解ける」


「兄上、たまに失礼ですね」


「いつもだよ」


 悪びれもしない。


 ミレイユが小さく咳払いをした。フェリクスの袖を、控えめに引く。


「フェリクス様」


「分かってる。遊びすぎた」


 フェリクスは笑みを収め、ルシアンを見る。


「ローディア家へ向かうなら、香の残りには気をつけた方がいい。君からまだ少し匂う」


「……着替えたんですが」


「地下の香は髪に残りやすい。特に湿った場所で吸ったならね」


 ミレイユが、申し訳なさそうに付け加える。


「できれば湯を使われた方がよろしいかと。香の残りを嗅ぎ続けるのは、あまりおすすめしません」


 冗談のつもりで言ったのではないらしい。


 ルシアンは袖口へ視線を落とした。言われてみれば、ふとした拍子に甘さが戻る。白檀に似ているのに、心地よさはない。地下の湿気と壁の文字を連れてくる匂いだ。


「分かった。半刻後に出る」


 湯を使い、服も替える。

 この匂いをまとったまま、ローディア家の禁書庫へ入る気にはならなかった。


 ルシアンはセレネへ視線を向けた。


「お前も支度しろ」


「はい」


 セレネは素直に頷いたが、ルシアンはその衣装の袖口へ目を落とした。妃教育用の衣装は、王宮の廊下を歩くには申し分ない。だが、ローディア家の禁書庫へ向かうには向かない。古い書架の間は狭く、床に積まれた本や箱もある。裾を引っかければ危ないし、埃も吸う。


「その服、着替えた方がいい」


 セレネがわずかに目を上げる。


「不適切でしょうか」


「違う。汚れるし、動きづらい」


 少し言葉を選ぶ。


「禁書庫は足元が悪い。必要なら、こちらから外套を出させる。冷える場所だ」


 セレネは一瞬だけ黙り、それから静かに頷いた。


「……承知しました」


 その間が少しだけ柔らかかった気がして、ルシアンは視線を逸らした。


 フェリクスが何か言いたげに笑っているのが見えたので、先に釘を刺す。


「兄上」


「まだ何も言ってないよ」


「顔がうるさい」


「ひどい弟だ」


 ミレイユが困ったように笑う。セレネは何も言わない。ただ、机の上の図面へもう一度視線を落とした。ローディア公爵家所蔵写本。その小さな文字を、彼女は静かに見つめている。


 フェリクスは図面を丁寧に巻き直し、ミレイユは香の灰を入れた瓶を箱へ戻した。


 王城側では、欠けた図面の原図と、消えた禁書庫記録の行方を追う。女官や乳母の名簿、病死や配置替えの記録も必要だった。香の成分は、ミレイユに任せる。眠りに関わる混ぜ物があるなら、それがどこから王宮へ入ったものなのかも分かるかもしれない。


 こちらはローディア家へ向かう。水鏡の魔女の事件で一度踏み込んだあの屋敷へ、今度は白百合宮の地下に繋がる記録を探しに行く。


 午後の光はまだ明るかった。


 だが、ローディア公爵家の名が出た途端、その先にある禁書庫の暗さまで見えた気がした。


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