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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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沈黙のあとで

 地下から戻ると、朝の光は少しだけ強くなっていた。


 離宮の広間には、降りる前と同じ薄い埃が漂っている。割れた窓硝子の向こうで、北庭園の緑が静かに揺れていた。地上へ戻ったはずなのに、湿った石の匂いはまだ喉の奥に残っている。白檀に似た甘さも、手袋の指先に絡みついたまま離れなかった。


 兵たちは、二つ目の香炉を布で包み、灰をこぼさぬよう慎重に箱へ納めている。昨日回収したものとは別に記録を取らせ、持ち出す者と保管する者も分けた。床の跡、壁の文字、小さな布切れ。触れたもの、動かしたもの、残したもの。それぞれを確認し終えるまで、ヘレナは一度も口を挟まなかった。


 俺は広間の中央で足を止めた。


「ヘレナ」


 呼ぶと、古参女官は静かに頭を上げた。


「はい」


 声は乱れていない。地下で見たものが、彼女の中に何も残さなかったとは思えない。それでも表へ出すものを選べるだけの年月を、この女は王宮で過ごしてきた。


「お前は、あの香炉を知っていたな」


 ヘレナはすぐには答えなかった。


 沈黙の中で、木箱に添えられた指がわずかに白くなる。三本の鍵を納めた箱は、彼女の腕の中で少しも揺れない。だが、それは平静ではなく、揺れないように抑えているのだと分かった。


「申し訳ございません」


 返ってきたのは、それだけだった。


 俺は眉を寄せる。


「謝罪がほしいわけじゃない」


「承知しております」


「なら答えろ」


 ヘレナは目を伏せた。


 長い沈黙だった。問いに迷っている沈黙ではない。答える気がない者の沈黙でもない。ただ、何を口にすれば誰が傷つくのかを、何度も測り直しているような静けさだった。


 腹立たしい。


 だが、ここで声を荒げても何も変わらない。ヘレナは謝罪するだろう。頭を下げるだろう。必要なら自分の落ち度として差し出すこともできる。だが、それでこちらが欲しいものが出てくるとは思えなかった。


 この女は、知らないから黙っているのではない。


 言うべき時ではないと決めている。


「今日はここまでだ」


 俺が告げると、ヘレナの睫毛がわずかに動いた。


「よろしいのですか」


「よくはない」


 短く返す。


「だが、今のお前から聞けることはない」


 ヘレナは何も言わなかった。


 俺は兵に視線を向ける。


「回収品は特務隊の保管室へ。昨日の香炉と混ぜるな。灰も布も、別々に記録を取れ。壁の文字は、擦り写しを取る前にセレネに見せる。勝手に触るな」


「はっ」


 兵たちが動き出す。命令に従う足音が、古い広間に硬く響いた。


 その音の中で、ヘレナだけが静かに立っている。地下の暗がりから戻っても、あの女はまだどこかを見ていた。俺の前ではなく、もっと古い場所を。


 追及は後でいい。


 先に、沈黙の輪郭を掴む必要がある。


 白百合宮へ戻る道で、香の匂いは薄れなかった。


 北庭園の空気は地上のものに戻っている。露を含んだ葉も、朝の光を受けた石畳も、閉ざされた地下とは何も似ていない。それなのに、手袋を動かすたび、甘さがふっと近づいた。湿った石の奥から連れ出してしまったものが、まだ袖口に残っているようで不快だった。


 星見宮へ戻ったら、まず着替える。


 そう決めて歩いている間も、香は消えなかった。


 午後、俺は星見宮の執務室でセレネと合流した。


 白百合宮の中で話すには、耳が多すぎた。


 着替えは済ませていた。手袋も替えた。だが、袖を通したばかりの上着の内側に、まだ白檀に似た甘さが残っている気がした。


 セレネは扉を開けて入ってくるなり、俺の手元へ視線を落とした。


「香が残っています」


 挨拶より先にそれか。


 俺は替えたばかりの手袋を見下ろした。


「着替えたんだがな」


「髪と袖口に、少し」


 言われて、思わず眉を寄せた。地下の湿った暗がりに、まだ触れられているようで気分が悪い。


「昨日の地下と同じ匂いです。ただ、少し近い」


 セレネは近づきすぎない距離で立ち止まった。深い海色の瞳が、俺の手袋と外套の袖を静かに見比べる。彼女の黒髪は午後の光を受け、青みを帯びて見えた。表情はいつも通り薄い。だが、香に気づいた時の視線だけは、わずかに鋭くなっている。


「近い、か」


「ええ。古い残り香なら、もっと遠く感じるはずです」


 俺は替えたばかりの手袋へ視線を落とした。


「二つ目の香炉が出た」


 セレネの睫毛が、ごくわずかに揺れた。


「昨日回収したものとは別ですか」


「ああ。棚の下、布の影にあった。昨日は崩さず残した場所だ。蓋にはほとんど埃がなかった。中の灰も古くない」


 セレネは椅子に腰を下ろさなかった。机の端へ視線を落とし、少し考えるように沈黙する。


「香炉は白百合模様のものと同じでしたか」


「いや。昨日のものより小さい。飾りも薄い。見せるためというより、使うための品に見えた」


「実用品」


「そうだ」


 俺は執務机に、回収品の簡単な記録を置いた。現物はすでに保管室へ回している。セレネは紙面に目を走らせる。指先は紙に触れない。だが、文字を追う速度は速かった。


「ヘレナは何と」


「今はほとんど使われない香だと言った。昔は、古い宮で眠りの浅い者に焚くことがあった、と」


「眠りの浅い方」


 セレネはその言葉だけを、静かに繰り返した。


 声に感情は乗っていない。だが、その薄い響きの奥で何かが沈んだのが分かった。


「壁にも文字のような傷があった」


 俺が続けると、セレネが顔を上げる。


「読めたのですか」


「全部じゃない。黒ずみと傷で、ほとんどは潰れていた。ただ、一つだけ意味が取れた」


「何と」


「眠らせないで」


 執務室が、少しだけ静かになった。


 窓の外では、午後の光が星見宮の窓辺を淡く照らしている。遠くで使用人の足音がした。その明るさの中で、地下の壁に刻まれた言葉だけが、湿った闇を連れて戻ってくる。


「それから、小さな布切れが出た。刺繍が残っていた。読めたのは、エリ、だけだ」


 セレネは記録へ視線を落とした。


「人名の一部かもしれませんね」


「分からない。物の名か、祈りの一部かもしれない」


「ええ。ですが、少なくとも誰かが、それを縫った」


 その一言で、破れた布切れがただの遺物ではなくなった。褪せた糸で残された二文字には、そこにいた誰かを呼ぶ声の名残があった。


 俺は手袋を外し、机の上に置く。替えたばかりのはずなのに、甘い香がほんの少しだけ空気へ滲んだような気がした。


「ヘレナは知っている」


「でしょうね」


「随分あっさり言うな」


「知らない方の沈黙ではありません」


 セレネは淡々と答えた。


 まったく、嫌になるほど同意できる。


「問い詰めても無駄だった」


「今は、でしょう」


「今は?」


「ヘレナ様は、言わないのではなく、言う順番を選んでいるのかもしれません」


 俺は小さく息を吐いた。


「王宮の女官は面倒だな」


「長く王宮で生きるには、必要な技術でしょう」


 セレネの声は平坦だった。だが、ヘレナを責める響きはない。かといって庇っているわけでもない。ただ、王宮という場所が人に何を強いるのかを、冷静に見ている。


 その横顔を見ていると、ふと胸の奥に引っかかるものがあった。


 セレネもまた、この王宮で黙ることを選んできた女だ。


 今は俺の隣にいて、必要なことを話す。だが、その沈黙の中にどれだけの言葉を沈めているのか、俺はまだすべてを知らない。


「殿下?」


「いや」


 俺は視線を戻した。


「フェリクス兄上に回す」


 セレネは驚かなかった。


「香と灰ですか」


「それだけじゃない。二つの香炉の灰、香の成分、北側離宮群の古い図面、女官名簿、退職記録、病死記録、配置替えの記録。エリで始まる名も拾わせる」


「王家の禁書庫も?」


 その一言に、俺は目を細めた。


「お前もそう思うか」


「水鏡の魔女の時も、王家側の記録には不自然な空白がありました」


 セレネは机の上の記録を閉じる。


「今回も同じ匂いがします」


「香の話か?」


「いいえ」


 彼女は静かに首を横へ振った。


「隠し方の話です」


 その言葉は、地下の香よりも重く残った。


 水鏡の魔女。ノクシア伝承。王家の記録から落とされ、怪異として人の口に流されたもの。第一章で俺たちが見たのは、人が怪異を作る過程だった。だが、王家が何を知り、何を隠してきたのかという問いは、まだ底まで届いていない。


 禁書とは、危険な知識を閉じるものだと教えられてきた。


 だが、今はその言葉が少し違って聞こえる。


 閉じられていたのは、知識そのものだけなのか。


 それを王家が知っていたという事実も、一緒に閉じられていたのではないか。


 俺は机の上の手袋を見下ろした。甘い匂いは薄れているはずなのに、まだ指先の形に絡みついているようだった。


「兄上なら、埃を被った記録の山ほど喜んで潜る」


「否定できません」


 セレネの声が、ほんのわずかに柔らかくなった気がした。


「ミレイユ様にも見ていただいた方がよいでしょう。香の成分なら、フェリクス殿下より確かです」


「兄上が聞いたら拗ねるぞ」


「事実です」


 あまりにも静かに言うので、俺は少しだけ笑いそうになった。


 重い空気の中で、ほんの一瞬だけ息ができる。だが、それも長くは続かなかった。執務机に置かれた記録は、地下の暗さをまだ残していた。


「フェリクス兄上には、すぐに使いを出す」


「はい」


「それから、禁書庫の目録も確認する。白百合宮の北側区域、旧離宮群、香炉、女官、乳母……眠りに関わる記述があれば拾わせる」


 セレネは少しだけ考えた。


「ローディア公爵家の禁書庫にも、いずれ行く必要があるかもしれません」


「やっぱりそこへ行くか」


「水鏡の魔女の時、王家が伏せていたものを、ローディア家は別の形で持っていました。今回も、同じとは限りませんが」


「無関係と見るには、都合が良すぎる」


 俺は椅子の背に身を預けた。


 ローディア公爵家。


 あの屋敷の名を思い出すだけで、水面に映った女の顔と、狂信に沈んだ前公爵の目が脳裏を掠める。事件は終わった。前公爵も死んだ。だが、あの家に残されたものがすべて消えたわけではない。


「セレネ」


「はい」


「ローディア家へ行く時は、お前も来い」


 セレネはわずかに目を瞬かせた。


「命令ですか」


「必要な人員の指定だ」


「私は荷物ではありません」


「知ってる。だから連れて行く」


 言ってから、少しだけ失敗したと思った。


 セレネは感情の読みにくい顔でこちらを見る。怒ってはいない。呆れているようにも見えない。ただ、俺の言葉の意味を静かに測っている。


 その沈黙が、妙に落ち着かなかった。


「禁書の読み解きには、お前が要る」


 付け足すように言うと、セレネはようやく視線を落とした。


「承知しました」


 声はいつも通りだった。


 だが、その返事までのわずかな間が、なぜか耳に残る。


 窓の外では、午後の光が星見宮の壁を淡く照らしていた。


 着替えたはずの上着の袖口から、まだ白檀に似た甘さがかすかに漂う。地下から持ち帰ったものは、記録だけではないらしい。

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