沈黙のあとで
地下から戻ると、朝の光は少しだけ強くなっていた。
離宮の広間には、降りる前と同じ薄い埃が漂っている。割れた窓硝子の向こうで、北庭園の緑が静かに揺れていた。地上へ戻ったはずなのに、湿った石の匂いはまだ喉の奥に残っている。白檀に似た甘さも、手袋の指先に絡みついたまま離れなかった。
兵たちは、二つ目の香炉を布で包み、灰をこぼさぬよう慎重に箱へ納めている。昨日回収したものとは別に記録を取らせ、持ち出す者と保管する者も分けた。床の跡、壁の文字、小さな布切れ。触れたもの、動かしたもの、残したもの。それぞれを確認し終えるまで、ヘレナは一度も口を挟まなかった。
俺は広間の中央で足を止めた。
「ヘレナ」
呼ぶと、古参女官は静かに頭を上げた。
「はい」
声は乱れていない。地下で見たものが、彼女の中に何も残さなかったとは思えない。それでも表へ出すものを選べるだけの年月を、この女は王宮で過ごしてきた。
「お前は、あの香炉を知っていたな」
ヘレナはすぐには答えなかった。
沈黙の中で、木箱に添えられた指がわずかに白くなる。三本の鍵を納めた箱は、彼女の腕の中で少しも揺れない。だが、それは平静ではなく、揺れないように抑えているのだと分かった。
「申し訳ございません」
返ってきたのは、それだけだった。
俺は眉を寄せる。
「謝罪がほしいわけじゃない」
「承知しております」
「なら答えろ」
ヘレナは目を伏せた。
長い沈黙だった。問いに迷っている沈黙ではない。答える気がない者の沈黙でもない。ただ、何を口にすれば誰が傷つくのかを、何度も測り直しているような静けさだった。
腹立たしい。
だが、ここで声を荒げても何も変わらない。ヘレナは謝罪するだろう。頭を下げるだろう。必要なら自分の落ち度として差し出すこともできる。だが、それでこちらが欲しいものが出てくるとは思えなかった。
この女は、知らないから黙っているのではない。
言うべき時ではないと決めている。
「今日はここまでだ」
俺が告げると、ヘレナの睫毛がわずかに動いた。
「よろしいのですか」
「よくはない」
短く返す。
「だが、今のお前から聞けることはない」
ヘレナは何も言わなかった。
俺は兵に視線を向ける。
「回収品は特務隊の保管室へ。昨日の香炉と混ぜるな。灰も布も、別々に記録を取れ。壁の文字は、擦り写しを取る前にセレネに見せる。勝手に触るな」
「はっ」
兵たちが動き出す。命令に従う足音が、古い広間に硬く響いた。
その音の中で、ヘレナだけが静かに立っている。地下の暗がりから戻っても、あの女はまだどこかを見ていた。俺の前ではなく、もっと古い場所を。
追及は後でいい。
先に、沈黙の輪郭を掴む必要がある。
白百合宮へ戻る道で、香の匂いは薄れなかった。
北庭園の空気は地上のものに戻っている。露を含んだ葉も、朝の光を受けた石畳も、閉ざされた地下とは何も似ていない。それなのに、手袋を動かすたび、甘さがふっと近づいた。湿った石の奥から連れ出してしまったものが、まだ袖口に残っているようで不快だった。
星見宮へ戻ったら、まず着替える。
そう決めて歩いている間も、香は消えなかった。
午後、俺は星見宮の執務室でセレネと合流した。
白百合宮の中で話すには、耳が多すぎた。
着替えは済ませていた。手袋も替えた。だが、袖を通したばかりの上着の内側に、まだ白檀に似た甘さが残っている気がした。
セレネは扉を開けて入ってくるなり、俺の手元へ視線を落とした。
「香が残っています」
挨拶より先にそれか。
俺は替えたばかりの手袋を見下ろした。
「着替えたんだがな」
「髪と袖口に、少し」
言われて、思わず眉を寄せた。地下の湿った暗がりに、まだ触れられているようで気分が悪い。
「昨日の地下と同じ匂いです。ただ、少し近い」
セレネは近づきすぎない距離で立ち止まった。深い海色の瞳が、俺の手袋と外套の袖を静かに見比べる。彼女の黒髪は午後の光を受け、青みを帯びて見えた。表情はいつも通り薄い。だが、香に気づいた時の視線だけは、わずかに鋭くなっている。
「近い、か」
「ええ。古い残り香なら、もっと遠く感じるはずです」
俺は替えたばかりの手袋へ視線を落とした。
「二つ目の香炉が出た」
セレネの睫毛が、ごくわずかに揺れた。
「昨日回収したものとは別ですか」
「ああ。棚の下、布の影にあった。昨日は崩さず残した場所だ。蓋にはほとんど埃がなかった。中の灰も古くない」
セレネは椅子に腰を下ろさなかった。机の端へ視線を落とし、少し考えるように沈黙する。
「香炉は白百合模様のものと同じでしたか」
「いや。昨日のものより小さい。飾りも薄い。見せるためというより、使うための品に見えた」
「実用品」
「そうだ」
俺は執務机に、回収品の簡単な記録を置いた。現物はすでに保管室へ回している。セレネは紙面に目を走らせる。指先は紙に触れない。だが、文字を追う速度は速かった。
「ヘレナは何と」
「今はほとんど使われない香だと言った。昔は、古い宮で眠りの浅い者に焚くことがあった、と」
「眠りの浅い方」
セレネはその言葉だけを、静かに繰り返した。
声に感情は乗っていない。だが、その薄い響きの奥で何かが沈んだのが分かった。
「壁にも文字のような傷があった」
俺が続けると、セレネが顔を上げる。
「読めたのですか」
「全部じゃない。黒ずみと傷で、ほとんどは潰れていた。ただ、一つだけ意味が取れた」
「何と」
「眠らせないで」
執務室が、少しだけ静かになった。
窓の外では、午後の光が星見宮の窓辺を淡く照らしている。遠くで使用人の足音がした。その明るさの中で、地下の壁に刻まれた言葉だけが、湿った闇を連れて戻ってくる。
「それから、小さな布切れが出た。刺繍が残っていた。読めたのは、エリ、だけだ」
セレネは記録へ視線を落とした。
「人名の一部かもしれませんね」
「分からない。物の名か、祈りの一部かもしれない」
「ええ。ですが、少なくとも誰かが、それを縫った」
その一言で、破れた布切れがただの遺物ではなくなった。褪せた糸で残された二文字には、そこにいた誰かを呼ぶ声の名残があった。
俺は手袋を外し、机の上に置く。替えたばかりのはずなのに、甘い香がほんの少しだけ空気へ滲んだような気がした。
「ヘレナは知っている」
「でしょうね」
「随分あっさり言うな」
「知らない方の沈黙ではありません」
セレネは淡々と答えた。
まったく、嫌になるほど同意できる。
「問い詰めても無駄だった」
「今は、でしょう」
「今は?」
「ヘレナ様は、言わないのではなく、言う順番を選んでいるのかもしれません」
俺は小さく息を吐いた。
「王宮の女官は面倒だな」
「長く王宮で生きるには、必要な技術でしょう」
セレネの声は平坦だった。だが、ヘレナを責める響きはない。かといって庇っているわけでもない。ただ、王宮という場所が人に何を強いるのかを、冷静に見ている。
その横顔を見ていると、ふと胸の奥に引っかかるものがあった。
セレネもまた、この王宮で黙ることを選んできた女だ。
今は俺の隣にいて、必要なことを話す。だが、その沈黙の中にどれだけの言葉を沈めているのか、俺はまだすべてを知らない。
「殿下?」
「いや」
俺は視線を戻した。
「フェリクス兄上に回す」
セレネは驚かなかった。
「香と灰ですか」
「それだけじゃない。二つの香炉の灰、香の成分、北側離宮群の古い図面、女官名簿、退職記録、病死記録、配置替えの記録。エリで始まる名も拾わせる」
「王家の禁書庫も?」
その一言に、俺は目を細めた。
「お前もそう思うか」
「水鏡の魔女の時も、王家側の記録には不自然な空白がありました」
セレネは机の上の記録を閉じる。
「今回も同じ匂いがします」
「香の話か?」
「いいえ」
彼女は静かに首を横へ振った。
「隠し方の話です」
その言葉は、地下の香よりも重く残った。
水鏡の魔女。ノクシア伝承。王家の記録から落とされ、怪異として人の口に流されたもの。第一章で俺たちが見たのは、人が怪異を作る過程だった。だが、王家が何を知り、何を隠してきたのかという問いは、まだ底まで届いていない。
禁書とは、危険な知識を閉じるものだと教えられてきた。
だが、今はその言葉が少し違って聞こえる。
閉じられていたのは、知識そのものだけなのか。
それを王家が知っていたという事実も、一緒に閉じられていたのではないか。
俺は机の上の手袋を見下ろした。甘い匂いは薄れているはずなのに、まだ指先の形に絡みついているようだった。
「兄上なら、埃を被った記録の山ほど喜んで潜る」
「否定できません」
セレネの声が、ほんのわずかに柔らかくなった気がした。
「ミレイユ様にも見ていただいた方がよいでしょう。香の成分なら、フェリクス殿下より確かです」
「兄上が聞いたら拗ねるぞ」
「事実です」
あまりにも静かに言うので、俺は少しだけ笑いそうになった。
重い空気の中で、ほんの一瞬だけ息ができる。だが、それも長くは続かなかった。執務机に置かれた記録は、地下の暗さをまだ残していた。
「フェリクス兄上には、すぐに使いを出す」
「はい」
「それから、禁書庫の目録も確認する。白百合宮の北側区域、旧離宮群、香炉、女官、乳母……眠りに関わる記述があれば拾わせる」
セレネは少しだけ考えた。
「ローディア公爵家の禁書庫にも、いずれ行く必要があるかもしれません」
「やっぱりそこへ行くか」
「水鏡の魔女の時、王家が伏せていたものを、ローディア家は別の形で持っていました。今回も、同じとは限りませんが」
「無関係と見るには、都合が良すぎる」
俺は椅子の背に身を預けた。
ローディア公爵家。
あの屋敷の名を思い出すだけで、水面に映った女の顔と、狂信に沈んだ前公爵の目が脳裏を掠める。事件は終わった。前公爵も死んだ。だが、あの家に残されたものがすべて消えたわけではない。
「セレネ」
「はい」
「ローディア家へ行く時は、お前も来い」
セレネはわずかに目を瞬かせた。
「命令ですか」
「必要な人員の指定だ」
「私は荷物ではありません」
「知ってる。だから連れて行く」
言ってから、少しだけ失敗したと思った。
セレネは感情の読みにくい顔でこちらを見る。怒ってはいない。呆れているようにも見えない。ただ、俺の言葉の意味を静かに測っている。
その沈黙が、妙に落ち着かなかった。
「禁書の読み解きには、お前が要る」
付け足すように言うと、セレネはようやく視線を落とした。
「承知しました」
声はいつも通りだった。
だが、その返事までのわずかな間が、なぜか耳に残る。
窓の外では、午後の光が星見宮の壁を淡く照らしていた。
着替えたはずの上着の袖口から、まだ白檀に似た甘さがかすかに漂う。地下から持ち帰ったものは、記録だけではないらしい。




