表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

63/162

二つ目の香炉

 階段を降りるたび、朝の光は背後で薄くなっていった。


 湿った石壁も、靴底に触れる埃の感触も、昨日ここへ降りた時と大きく変わってはいない。だが、鍵穴の擦れと錠前の埃の薄さを見た後では、同じ暗がりの見え方が変わる。昨日は、骨と地下生活の痕跡に目を奪われていた。ここが何のために使われ、誰がここにいたのか。その重さだけで、地下の空気は十分に息苦しかった。


 けれど今は、その息苦しさの奥に、まだ乾ききっていない人の手の気配が混じっているように思えた。


 白檀に似た甘さは、階段の途中から鼻の奥へ届いていた。


 昨日も、この匂いはあった。古い石と黴の匂いに紛れていながら、妙に喉へ残ったのを覚えている。ただ、その時は骨と地下の暗さに気を取られ、それ以上深く追わなかった。香炉は回収させた。灰もこぼすなと命じた。輪飾りとは分け、余計な手を加えぬよう保管させてある。


 だからこそ、今ここに残る甘さは気にかかった。


 昨日と比べて、ただ濃くなったというわけではない。湿気の底に沈みきらず、甘さの芯だけが細く残っている。古く染みついた匂いなら、もっと鈍く濁るはずだった。昨日、喉に残った小さな引っかかりが、鍵の痕を見た後になって、ようやく形を持ち始めている。


 階段の底に着くと、兵が灯りを高く掲げた。


 低い天井の下、石壁に沿った寝台も、欠けた器も、朽ちかけた布も、記憶の中の位置から大きく動いてはいなかった。壁際には、昨日香炉を回収した跡が丸く薄く残っている。その近くで見つかった小さな輪飾りも、今はもうここにはない。動かしたものと、残したもの。その差があるからこそ、床に沈んだ埃の乱れが目についた。


 俺は香炉の跡の前で足を止めた。


 丸い跡の周囲は、昨日の回収で多少乱れている。そこは不自然ではない。だが、甘い匂いは、その跡からだけ漂っているようには思えなかった。


「灯りを奥へ」


 兵が火を掲げる。


 壁際の棚の下、朽ちた布の影に、低い陶器の縁が見えた。


 昨日も、このあたりには目を向けている。だが、崩れかけた棚板と湿気を吸った布が重なり、奥までは崩さずに残した。無理に触れれば、周囲の痕跡ごと壊す恐れがあったからだ。昨日の段階で回収すべきものは回収したつもりだったが、見落としがなかったとは言い切れない。


「布をどけろ。慎重に」


 兵が膝をつき、手袋を替えてから布の端を持ち上げた。湿気を吸った布が重たく折れ、その下から、小さな香炉が現れる。


 昨日回収した白百合模様の香炉より、ひと回り小さい。装飾は薄く、飾るための品というより、目立たぬ場所で実際に使うためのものに見えた。陶器の肌は古びている。だが、蓋の縁には埃がほとんど乗っていなかった。


 ヘレナは何も言わない。


 木箱を抱えたまま、灯りの届くぎりぎりの場所に立っている。顔には大きな変化はなかった。ただ、二つ目の香炉が現れた瞬間、木箱の縁に添えられた指がわずかに強くなった。


「開けろ」


 兵が蓋を持ち上げた。


 甘い匂いが、灯りの熱に押されるようにふわりと立った。昨日から地下に漂っていたものと同じ香りだ。白檀に似ている。けれど、ただ柔らかいだけではない。息を深く吸えば、喉の奥に薄い膜が張るような重さが残る。


 中の灰は、湿気で黒く固まってはいなかった。


 表面はまだ細かく、淡い灰色のまま崩れている。古い灰なら、この地下の湿気を吸って、もっと重く沈む。昨日回収した香炉の灰とは様子が違う。昨日まで、ここに残るものは過去の痕跡だと思っていた。だが、この灰だけは違った。湿った地下に置かれていたにしては、あまりにも軽い。


「この香を、白百合宮で今も使うか」


 俺は香炉の中を見たまま尋ねた。


 ヘレナは少しの間を置いた。


「今は、ほとんど使われません」


「昔は」


「……古い宮で、眠りの浅い方に焚くことがございました」


 眠り。


 その言葉が、地下の湿った空気の中でやけに静かに残った。


 俺は香炉から視線を上げる。眠りの浅い者へ焚く香。穏やかな言い方だ。宮廷では、どんなものも柔らかい布に包めば、美しい言葉になる。病も、孤独も、閉じ込められた女たちの泣き声も、眠りという語に変えれば、いくらか見栄えがよくなる。


 だが、ここは穏やかな寝室ではない。


 寝台はある。布もある。器もある。人が生活していた痕跡は確かに残っている。それでも、ここにあるものは安らぎのために整えられた部屋のそれではなかった。外へ出ることを許されなかった者が、仕方なく息をしていた跡に近い。


「誰のために焚いた」


 ヘレナの視線が落ちた。


「古い記録には、そこまで残っておりません」


「お前の記憶には?」


 答えは返ってこなかった。


 地下の湿気が、沈黙まで重くしていく。ヘレナは完全な嘘を吐いているわけではない。だが、必要だと思えば真実の前に沈黙を置ける女だった。


 俺はそれ以上追わず、兵に二つ目の香炉を保全させた。灰はこぼさせない。昨日の香炉とは別に包ませ、持ち出す者と記録する者を分ける。兵たちは命じた通りに動き、余計な口はきかなかった。


 その間に、俺は地下の奥へ視線を向けた。


 低い仕切りの向こうに小部屋がある。昨日もそこまでは見ている。だが、あの時は全体の確認を優先した。細部に触れるには、あまりにも残されたものが多すぎた。


 小部屋へ入ると、空気がさらに重くなる。


 壁際の棚は歪み、一部は落ちている。その下に、古い布が丸まっていた。昨日も視界には入っていたはずだ。だが、今見ると、布の端だけが他よりわずかにめくれている。埃のつき方も均一ではない。


「そこを」


 兵が手袋を替え、慎重に布を開いた。


 中から出てきたのは、小さな布切れだった。


 元は白かったのだろう。今は黄ばみ、端がほつれている。布の隅には、幼い手習いのような拙い刺繍が残っていた。糸の色は褪せ、ところどころ切れている。それでも、文字の一部だけは読めた。


 エリ。


 その先は、布が破れて失われていた。


 人の名か、物の名か、祈りの一部かは分からない。だが、その二文字があるだけで、地下に残されたものの重さが変わった。ここにいた者たちは、記録から落ちた影ではない。呼ばれる名を持ち、それを布に縫う誰かがいた。


 背後で、ヘレナの呼吸がわずかに浅くなる。


 俺は振り返らなかった。今の反応だけで十分だった。知らない者の息ではない。見覚えのない品を見た者の沈黙でもない。彼女は、この布の意味を、少なくとも完全には知らないふりができなかった。


 小部屋を出る時、灯りの火が壁を撫でた。


 その揺れの中で、低い位置に細い傷が見えた。


「待て」


 兵の足が止まる。


 昨日も、この壁は見ている。だが、灯りの角度が違ったのか、あるいは俺がそこまで追えていなかったのか。石の表面に、細い線がいくつも走っていた。最初はただの傷に見えた。湿気で脆くなった石が割れただけか、何か硬い物が当たっただけかと思うほど浅い。


 だが、線は不揃いなりに意志を持っていた。


 灯りを近づけると、ただの傷に見えた線のいくつかが、文字の形を取り始めた。


 古い黒ずみと湿気に埋もれて、ほとんどは読めない。途中で途切れた言葉もあれば、同じ場所を何度も引っかいたせいで潰れているものもある。だが、その中でひとつだけ、かろうじて意味を結んでいる言葉があった。



 眠らせないで。



 読めたのは、それだけだった。

 誰もすぐには口を開かない。湿った地下の空気の中で、その短い言葉だけが妙にはっきり残った。


 祈りには見えなかった。助けを求める叫びとも少し違う。眠りへ落とされることを恐れ、意識を失う前に石へ縋った者の痕に見えた。


 香の匂いが、急に意味を変える。


 俺は壁に触れかけて、止めた。


 刻まれた傷そのものは古い。遠い昔の誰かが残したものだろう。だが、文字の溝に溜まった埃は、周囲の壁よりわずかに浅い。古い傷の上を誰かが最近なぞったのなら、こうなる。


 ここにも、人の手が届いている。


 俺はヘレナを見た。


 彼女は壁を見ていなかった。視線を伏せ、木箱を抱えたまま立っている。だが、その指先は白くなっていた。三本の鍵を納めた木箱が、彼女の腕の中でわずかに傾く。


「ヘレナ」


 呼ぶと、彼女は静かに顔を上げた。


「はい」


 声は、まだ崩れていない。


 俺は壁の文字へ視線を戻した。


「これを見たことは」


 ヘレナは答えなかった。


 沈黙が落ちる。問いに詰まった沈黙ではない。あらかじめ沈む場所を決めていたような沈黙だった。


 今ここで問い詰めれば、ヘレナは謝罪の形だけを整えるだろう。そしてその奥にあるものは、さらに深く沈む。彼女の沈黙は怯えではない。守るべきものを決めた者の沈黙だった。


 その時、奥の暗がりで布が擦れるような気配がした。兵が灯りを向けたが、見えるのは崩れた棚と石壁だけだった。


 風が通ったのかもしれない。布の端が湿気で落ちただけかもしれない。だが、この地下に風の道があるなら、それはそれで見過ごせない。


 俺は闇の奥を見据えた。


 白檀に似た甘い香が、もう一度、静かに流れてくる。昨日は、それを古い宮に残った匂いだと思おうとした。だが今は、そう思えなかった。


 昨日回収した香炉とは別に、もう一つの香炉があった。そこに残っていた灰は、古い地下に置き去りにされたものではない。壁の文字もまた、遠い昔に刻まれたまま眠っていたわけではなかった。


 封じられた場所に、誰かが触れている。


 壁に刻まれた文字が、灯りの揺れの中でわずかに濃く見えた。


 眠らせないで。


 その言葉だけが、地下の暗がりにいつまでも残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ