北庭園の向こう
白百合宮の北側管理扉を抜けた先で、朝の空気は少しだけ冷たくなった。
庭の緑はまだ露を含み、低く刈り込まれた植え込みの葉先に、淡い光が細く宿っている。白百合宮の奥にあった人の気配は、ここまで来ると急に遠のいた。祝福と香油と柔らかな声に満ちた宮の空気が背後へ退き、代わりに、手入れの行き届きすぎた庭特有の静けさが耳に残る。
俺は木箱を抱えたヘレナを一度だけ見た。
古参女官は、いつもと変わらぬ足取りでついてきている。背筋はまっすぐで、灰色の髪は乱れひとつなく結われていた。ただ、その指先だけが、木箱の縁に少し強く添えられているように見えた。
北側管理門には、いつもの門番が立っていた。
ただし、普段と違うのは、門そのものが王族特務隊の指示で封鎖されていることだった。通常の錠前ではなく、黒い革帯と金属の留め具で作られた封鎖具が掛けられ、そこに押された封鎖印は、前に確認した時と同じ角度で乾いている。門番の傍らには特務隊の兵が控えていたが、彼らが門を守っているというより、封鎖の手順を監督している形だった。
「異常は」
俺が短く問うと、特務隊の兵が門番へ視線を向けた。門番は緊張した顔で答える。
「封鎖後、許可のない出入りはありません」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。ここで確かめるべきことは、すでに十分だった。
特務隊の兵が短く指示を出す。門番が封鎖具に手をかけ、金具を外した。重い留め具が鳴る音は、朝の庭にひどくはっきり響いた。門扉がゆっくり押し開けられると、その向こうに北側離宮群へ続く古い石畳が見えた。人の往来が絶えて久しい道は、庭園よりもさらに冷えている。草の匂いの奥に、古い石と湿った土の匂いがあった。
俺は門をくぐった。
ヘレナの持つ木箱の中で、三本の鍵がかすかに触れ合う。薄い金属音がしたが、それは扉を開く音ではなかった。むしろ、閉じられていたものが、自分の存在を思い出したような音だった。
北側離宮群は、朝の光の中でも明るくは見えない。
外壁は白く塗られているはずなのに、長い年月に晒されて灰を含んだ色へ沈んでいた。窓は高く、いくつかは内側から板で塞がれている。庭の手入れは最低限されているが、踏まれることの少ない土には薄い苔が残り、石畳の継ぎ目から細い草が出ていた。
先にここへ踏み入れた時の湿った暗さが、まだ足裏に残っている。
調査対象の離宮前にも、門番とは別の兵が控えていた。特務隊の指示で封鎖具を扱うために置かれた者だ。俺の姿を見ると姿勢を正したが、余計なことは言わない。事情を知った顔も、怯えた顔もしなかった。ただ命じられた通り、現場を閉じていた者の顔だった。
俺は扉へ近づき、まず封鎖印を見た。
赤い蝋は割れていない。封印紐にも緩みはない。扉の合わせ目、把手の周囲、下端に溜まった埃。先に出る時に確かめた乱れと変わらない。石床にも、新しく踏み込んだ靴跡は見当たらなかった。前の調査でついた足跡はある。だが、その上から重ねられたものはない。
「外せ」
兵が封鎖具を外す。
扉が開いた瞬間、古い室内の空気が流れ出した。湿気と埃、それに薄く染みついた香の残り。以前ここで嗅いだ匂いと同じものが、喉の奥へ静かに沈んだ。
ヘレナは何も言わなかった。
俺は広間へ足を踏み入れる。高い天井。薄暗い壁。布の剥がされた家具。床に落ちた細かな埃が、差し込む光の中で鈍く舞った。初めて見る場所ではない。驚く理由もない。すでに見たものの輪郭を、朝の光の中で確かめ直しているだけだった。
奥の廊下へ向かう。
足音が壁に吸われていく。白百合宮の華やかな回廊と違い、この離宮の廊下には人の声の残響がない。長く使われなかった建物には、静けさにも種類がある。ただ空いている部屋の静けさではない。誰かが意図して声を消し、記録を消し、人の気配だけを薄く残した場所の静けさだ。
地下入口の前で、俺は足を止めた。
床の一部に隠すように設けられた古い扉。その錠前は、前に見た時と同じく、黒ずんだ金属を鈍く光らせている。兵が傍らに控え、封鎖具に手をかけた。
「まだ外すな」
俺はそう言って、ヘレナへ視線を向けた。
彼女は黙って木箱を差し出した。蓋が開かれると、内側の暗い布の上に三本の真鍮の鍵が並んでいた。朝の光を受け、鈍く光る。どれも古い。だが、古いだけなら同じ色にはならない。手に触れられてきた部分と、眠らされていた部分とでは、金属の光り方がわずかに違う。
俺は一本ずつ取り上げ、刃の縁を見た。
深い傷ではない。だが、鍵山の角には、細く磨かれたような痕がある。完全に忘れられていた金属なら、こうはならない。油気の抜けた古い真鍮は、もっと均等に鈍る。誰かの手が触れ、どこかの錠前に差し込まれ、回されていれば、その部分だけがわずかに違う顔をする。
俺は鍵を錠前へ差し込まなかった。
ただ、鍵穴の縁へ近づけて角度を合わせる。錠前の口は古い錆で黒ずんでいたが、縁の内側だけ、埃の沈み方が薄かった。細い擦れがいくつも重なり、古い汚れの下から金属の鈍い光が覗いている。放置されていたものなら、埃も錆も同じように沈むはずだった。だがここだけは、何度も何かに触れられたように、息を潜めて新しかった。
「この鍵を、白百合宮側で使った記録はあるか」
ヘレナは視線を伏せた。
「ございません」
声は乱れなかった。
「工務局へ貸し出した記録は」
「少なくとも、白百合宮側の記録には残っておりません」
俺はもう一度、錠前を見た。
記録にはない。だが、鍵穴は沈黙していない。
誰も使っていないはずの鍵。誰も開けていないはずの入口。そう扱われてきた場所の錠前に、使用の痕だけが残っている。骨よりも、香炉よりも、その事実は静かに嫌だった。死者の痕跡は過去に属する。だが金属に残った細い擦れは、過去が完全に終わっていないことを示していた。
ヘレナの指が、木箱の縁でわずかに強くなる。
ほんの一瞬だった。問い詰めれば何かを引き出せるかもしれない。だが、今ここで押せば、彼女は口を閉ざす。古い宮に長く仕えた女は、沈黙の仕方を知っている。嘘を吐くよりも、沈黙で人を遠ざける方がずっと巧い。
俺は鍵を箱へ戻した。
「外せ」
兵が封鎖具を外した。
金具が外れ、床扉が持ち上げられる。暗い口が開くと、地下から冷えた空気が上がってきた。湿った石の匂い。古い埃。閉ざされた場所に溜まる、息の薄い暗さ。
その奥に、香があった。
前に嗅いだものと同じ、白檀に似た甘さ。だが、ただ古く染みついた匂いにしては、輪郭が残りすぎている。湿気に揉まれ、石と黴に紛れた香なら、もっと濁っているはずだった。これは薄い。けれど、消えきっていない。まるで誰かが最近ここに残した息だけが、暗がりの奥に遅れて沈んでいるようだった。
俺は階段の闇を見下ろした。
封鎖後、許可のない出入りはない。門は閉じられ、離宮も閉じられ、特務隊の指示で出入りは管理されていた。
なら、この匂いはいつから残っている。
背後で衣擦れがした。ヘレナが、ほんのわずかに身じろぎしただけだった。俺は振り返らない。今その顔を見ても、おそらく答えは出ない。答えを持っているのがヘレナなのか、それともヘレナのさらに奥にいる誰かなのかも、まだ分からなかった。
地下へ続く階段は、朝の光を途中で失っている。
石段の縁に、古い埃が薄く溜まっていた。その下へ、香の匂いが静かに流れていく。まるで、閉じられた場所がまだ眠っておらず、暗がりの底で誰かの気配を守っているようだった。
「降りるぞ」
短く告げると、兵たちが灯りを掲げた。
淡い火が階段の壁を撫で、湿った石の表面にかすかな光を落とす。甘い香は、その光に炙られるように一瞬だけ濃くなった。古いはずの地下から、古くない匂いが上がってくる。
俺はその匂いを肺の奥へ入れながら、暗い階段へ一歩を下ろした。




