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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第2章 眠る宮

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三本の鍵

 翌朝、王城の東の空はまだ淡く白んでいた。


 夜の底に沈んでいた石壁が、薄い朝光を受けて少しずつ輪郭を取り戻していく。星見宮の窓には淡い金が差し、硝子の向こうで庭木の葉が朝露を含んで鈍く光っていた。遠くで朝課を告げる鐘が鳴る。その音は王城の高い塔からゆっくり広がり、眠りの名残を残した廊下を静かに震わせた。


 昨夜から、まだ半日も経っていない。


 そう思った瞬間、白い布の下に並べられていた骨の形が、ルシアンの脳裏に戻ってきた。


 白百合宮の北にある離宮群。修繕中とされ、人の目から遠ざけられていた建物。その奥で見つかった、崩れかけた地下入口。湿った石の匂い。かすかに残る香の気配。古い生活の痕跡。小さな者がそこにいたことを示すような、場違いな輪飾り。


 死体ではない。


 骨だった。


 それも、王城の一角で、長い時間をかけて沈黙の下に押し込められてきた骨だ。


 ルシアンは、椅子の背に掛けていた上衣を手に取った。


 黒に近い濃紺の生地は、朝の光を受けても華やかには見えない。袖口と襟元にだけ、王家の紋をかたどった金糸の刺繍が細く入っている。式典用の礼服ではなく、特務隊長として動くための装いだった。白いシャツの襟元を整え、細い黒のタイを留める。腰に剣を帯びると、金具が小さく鳴った。


 鏡の中の自分は、昨夜より少し目つきが悪い。


 当然だろう、とルシアンは思った。


 王宮で見つかる罪は、いつも綺麗な顔をしている。血が流れていても香で隠され、死があっても記録の言葉で薄められ、誰かが消えても、はじめからいなかったことにされる。


 だが、骨は残る。


 記録が焼かれても、証言が途切れても、人間がそこにいた痕跡は完全には消えない。鍵の傷、床に溜まった土、壁に染みついた匂い、答える前の沈黙。そういうものは、口を閉ざした人間よりも、よほど正直にものを言う。


「……面倒な朝だ」


 低く呟き、ルシアンは鏡から目を逸らした。


 部屋を出ると、廊下には朝の静けさが残っていた。王城の一日はすでに動き出している。侍女たちは茶器を運び、文官たちは書類を抱え、近衛兵は交代のために足早に持ち場へ向かう。だが星見宮から白百合宮へ続く回廊には、まだ人の気配が薄かった。磨かれた床に、ルシアンの靴音だけが落ちていく。


「ルシアン様」


 声をかけられ、足を止めた。


 振り返ると、セレネが立っていた。


 今日は、いつもの調査向きの装いではなかった。


 淡い灰青のドレスを身にまとっている。朝霧をそのまま布にしたような落ち着いた色で、光を受けると銀を含んだように静かに揺れた。襟元は高く、胸元には繊細なレースが重ねられている。袖は手首まであり、細い刺繍が布の上を水紋のように流れていた。


 派手さはない。


 けれど、王宮の朝に立つ者としての品格があった。


 黒髪はいつもより丁寧にまとめられ、銀細工の髪飾りが控えめに光っている。青みを帯びたドレスの色と、彼女の深い海色の瞳がよく合っていた。


 ルシアンは一瞬、言葉を忘れた。


 死体の前でも、地下の骨の前でも、彼女は取り乱さない。冷静で、静かで、時に人の情から遠い場所に立っているように見える。だが今朝のセレネは、怪異の真実を見抜く協力者ではなく、王族の妃となる者としてそこにいた。


 その事実が、妙に胸に残った。


「何か?」


 セレネが静かに首を傾げる。


「……いや。今日は随分、きちんとしているな」


「妃教育ですので」


 そう言われて、ルシアンは眉を寄せた。


「今日か」


「はい。午前中は同行できません」


 セレネは申し訳なさそうには見えなかった。けれど、ほんの少しだけ気にしているのは分かった。彼女は調査を途中で離れることを好まない。感情を大きく表さない分、そういう小さな滞りがかえって目につく。


「本格的に大詰めだと聞いています。フェリクス殿下とミレイユ様のご婚姻前に済ませておく必要がある内容だそうです。私も同席するように、と」


「君までか」


「いずれ必要になるものですから」


 淡々とした返答だった。


 その言い方があまりにも平静で、ルシアンの方が少しだけ言葉に詰まる。


 いずれ必要になる。


 つまり、彼女が第三王子の妃になるための教育だ。


 その事実は、婚約した時から分かっていた。政略として決まり、家格として整えられ、周囲は当然のように受け入れた。ルシアン自身も、それを大きく疑ったことはない。


 けれど、こうして目の前で妃教育へ向かう装いをされると、妙に現実味が増す。


 セレネ・ヴァルキュリアは、いずれ自分の隣に立つ。


 事件の現場だけではない。夜会でも、謁見でも、王家の席でも。


 その想像が不意に胸の内側を掠め、ルシアンは無意識に視線を逸らした。


 セレネはルシアンの顔を見て、わずかに目を細める。


「何か変なことを考えましたね」


「考えてない」


「今の間は、考えていた時の間です」


「君はそういうところだけ、やけに鋭いな」


「必要な観察です」


「俺を観察対象にするな」


「殿下は分かりやすい時があります」


「悪かったな」


 ルシアンは小さく息を吐いた。


 いつも通りの会話に少しだけ救われる。だが、今日の彼女はこのまま調査には来られない。白百合宮の北にある離宮群で見つかったものを、午前中は自分だけで確かめなければならない。


「ヘレナの件は、俺が確認する」


「鍵と記録ですね」


「ああ。昨夜、用意しておくよう伝えた」


「鍵の数を見てください」


 ルシアンは目を向けた。


「数?」


「はい。北側離宮群は一棟だけではありません。調査対象の離宮だけに限っても、正面扉、裏口、使用人用の通路、内部の部屋、地下への入口があるはずです。けれど、管理が白百合宮だけで完結していないなら、ヘレナ様が出してくる鍵は一部に限られるかもしれません」


「白百合宮の女官が持つ鍵と、別の部署が持つ鍵があると?」


「ええ。あるいは、鍵を使わずに出入りできる場所があるか」


 ルシアンは昨夜の崩落箇所を思い出した。


 地下入口は、塞がれかけていた。だが、香の匂いは残っていた。誰かが近年、あの周辺に出入りしている。崩落した場所だけが入口なら、そんなことは起こりにくい。


「ヘレナ様は、嘘をついているというより、答え方を選んでいるように見えました」


「君にもそう見えたか」


「はい」


 短い返事だった。


 ヘレナ・ローレンは何かを知っている。けれど、真実を丸ごと隠しているというより、口にしてはいけない線を踏まないようにしている。昨夜の彼女の沈黙には、そんな奇妙な慎重さがあった。


「それと」


 セレネは少しだけ声を落とした。


「出された鍵の数に気を取られすぎないでください。少ないなら少ない理由がありますし、多いなら多い理由があります。見るべきなのは、どの鍵が実際に使われていたかです。札の新しさ、紐の擦れ方、持ち手の汚れ、先端の光り方。そのあたりに、管理の実態が出ます」


「妃教育へ行く直前までそれか」


「気になりますので」


 セレネは当然のように言った。


 ルシアンは思わず口元を歪めた。


「本当に、君が来られないのが惜しいな」


「殿下なら分かります」


「ずいぶん信用されたものだ」


「信用していなければ、申し上げません」


 淡々とした声だった。


 だが、その言葉は妙にまっすぐ胸に残った。


 セレネは特別なことを言ったつもりなどないのだろう。いつものように事実を述べただけだ。だが、その事実の中に自分への信頼が含まれていると分かると、どうにも落ち着かない。


 彼女が見せる感情は小さい。


 けれど、小さいからこそ、見落としたくなかった。


 廊下の向こうから、侍女の足音が近づいてきた。おそらくセレネを迎えに来た者だろう。薄い絹の裾が床を擦る音が、朝の回廊に静かに重なる。


「では、私は参ります」


「ああ」


「午前中に何か分かったら、午後に共有してください」


「妃教育中に事件のことを考えるなよ」


「それは内容次第です」


「考える気だな」


 セレネは答えなかった。


 代わりに、ほんの少しだけ目元を和らげる。それから丁寧に一礼し、侍女の方へ歩いていった。


 灰青の裾が静かに揺れる。


 その後ろ姿が回廊の角を曲がって見えなくなるまで、ルシアンはしばらくその場に立っていた。


 やがて、息を吐く。


 今は見送っている場合ではない。


 ルシアンは白百合宮へ向かって歩き出した。


 ヘレナ・ローレンが持ってくる鍵。


 そして、持ってこない鍵。


 今日は、そこから見極めなければならなかった。


 白百合宮へ近づくにつれ、空気の匂いが変わった。


 王太子妃リリアーナが滞在する宮は、朝から人の出入りが多い。侍女たちは柔らかな布を運び、薬草茶を載せた盆を持ち、声を潜めながらもどこか弾むような気配を纏っている。廊下には百合の香が薄く漂い、窓辺には祝いの花が飾られていた。


 新しい命を守るための宮。


 そう呼ぶにふさわしい、清潔で明るい場所だった。


 だが、北へ進むにつれ、その温かな気配は少しずつ薄れていった。


 白百合宮の北端にある控えの間は、南側の明るさから切り離されたように静かだった。窓の外には北庭園が見える。そのさらに向こう、鉄柵と低い石壁を隔てた先に、北側離宮群の屋根が沈むように並んでいた。


 朝の光は、そこにも届いている。


 それなのに、離宮群だけはどこか色を失って見えた。修繕用の足場と風に揺れる覆い布が、眠っている建物に掛けられた葬布のように見える。白百合宮の廊下に漂っていた百合の香も、祝いの気配も、あちら側までは届かない。


 控えの間には、すでにヘレナ・ローレンが待っていた。


 昨夜と同じ、深い灰色の女官服を着ている。皺ひとつない襟元、白い髪をきっちりとまとめた髪形、膝の前で重ねられた手。老いを感じさせる姿でありながら、その立ち方には奇妙な崩れなさがあった。


 彼女の傍らには、小さな木箱が置かれていた。


「お待ちしておりました、ルシアン殿下」


 ヘレナは静かに頭を下げた。


「早いな」


「古い鍵を探すのに時間がかかるかと思いましたので。夜のうちに、分かる範囲で揃えておきました」


「分かる範囲で、か」


 ルシアンは木箱へ視線を落とした。


「開けろ」


 ヘレナは一礼し、膝を折って木箱の蓋を開けた。


 中に並んでいた鍵は、三本だけだった。


 ルシアンは、すぐには何も言わなかった。


 三本。


 北庭園の向こうに見えている離宮群を前にして、その数はあまりにも少ない。


 一本は、古びた鉄の鍵だった。重く無骨で、持ち手の縁だけが鈍く擦れている。日々使われている扉の鍵なら、この擦れ方にも納得がいく。


 もう一本は、真鍮の古い鍵だった。表面には曇りがある。だが、先端だけが長く眠っていた鍵にしては妙に新しく光っていた。


 最後の一本は、持ち手に白百合の意匠が刻まれた細長い鍵だった。鍵そのものは古いが、結ばれた札の紐だけが新しい。昨夜、慌てて付け替えられたように見えた。


 ルシアンは黙って、その三本を見下ろした。


 どれも古い。


 だが、同じ古さではない。


「これだけか」


 ルシアンが問うと、ヘレナは静かに頭を下げた。


「現在、白百合宮側で正式にお預かりしている鍵は、その三本でございます」


「正式に、か」


 低く繰り返す。


 ヘレナは顔を上げない。


 便利な言い方だった。正式に保管している鍵が三本しかないというだけで、他の鍵が存在しないことにはならない。むしろ、この規模の離宮群を前にして三本で済むと言われる方が不自然だ。


「何の鍵だ」


「一本は、白百合宮の北側管理扉を開ける鍵でございます。北庭園へ出るためのものです」


 ヘレナは、古びた鉄の鍵へ静かに視線を落とした。


「もう一本は、北側離宮群へ入る管理門の鍵でございます。最後の一本は、昨夜確認された地下入口の扉に関わる鍵でございます」


「離宮そのものの鍵は」


 ヘレナは、そこでわずかに間を置いた。


「正面扉は、昨夜の時点で工務局が開けております。現在は調査のため封鎖され、王族特務隊の管理下にあると伺っております」


「内部の部屋は」


「修繕担当の者が管理している、と聞いております」


「聞いている?」


 ルシアンは目を細めた。


「白百合宮の管轄ではないのか」


「現在は修繕中という名目で、北側離宮群の管理は一部、公務区域の工務局へ移されております。白百合宮の女官が常時立ち入る場所ではございません」


 なるほど、とルシアンは思った。


 かつて後宮に属していたはずの場所を、今は修繕中という名目で工務局が管理している。白百合宮の女官が知らず、工務局が把握し、しかし王族特務隊に上がってきた報告は断片ばかり。


 管轄を分ければ、責任も分かれる。


 責任が分かれれば、見落としは見落としではなくなる。誰もが、自分の預かる範囲ではないと言えるからだ。鍵が足りなくても、記録が欠けていても、責められるべき誰かは霧の中へ逃げ込む。


「都合が良すぎるな」


 低く呟くと、ヘレナの指がわずかに動いた。


 ルシアンは木箱の中の三本へ視線を戻す。


 白百合宮の北側管理扉の鍵は、日常的に使われている。北側離宮群の管理門の鍵は古いが、先端に使用痕がある。地下入口の鍵は、札だけが新しい。三本とも、違う形で人の手を感じさせた。


 鍵そのものより、鍵の周囲に残る痕跡の方がよく喋る。


「地下入口の札は、新しいな」


「昨夜、分かりやすいよう付け替えました」


「誰が」


「私でございます」


「鍵はどこにあった」


「白百合宮の古い保管棚に」


「最初からそこに?」


 ヘレナは、そこで一拍置いた。


「少なくとも、私が女官長を引き継いだ時には」


「その前は知らない、ということか」


「はい」


 ルシアンは短く息を吐いた。


 知らない。


 分からない。


 正式には。


 どれも嘘ではないのだろう。だが、真実に触れずに済ませるための言葉だった。


 セレネが言っていた通りだ。


 ヘレナ・ローレンは、嘘をついているというより、答え方を選んでいる。


「記録は」


 ルシアンが問うと、ヘレナは控えていた若い女官へ目を向けた。女官は布に包まれた薄い帳面を差し出す。ヘレナはそれを受け取り、ルシアンの前に差し出した。


「白百合宮側に残っている、北側離宮群への出入り記録でございます」


 帳面は思ったより薄かった。


 ルシアンは受け取り、革表紙を開く。


 そこには、近年の出入りが記されていた。工務局の職人、資材搬入の係、警備確認の兵。いずれも修繕に関わる者ばかりで、日付の間隔は不自然に空いている。長い空白が続くかと思えば、ある時期だけ集中的に出入りが増えていた。


 記録は、ある。


 だが、整いすぎている。


 汚れた場所を隠すために、上から綺麗な布を掛けたような整い方だった。


「昨夜、骨が見つかった離宮に関係する記録はどれだ」


「そちらに印を」


「印を付けたのも君か」


「はい」


 ページの端に、細い紙片が挟まれていた。


 ルシアンはその箇所を開く。


 地下補強の下見。屋根と外壁の確認。北側の崩落箇所調査。古い調度類の撤去予定。


 ありふれた修繕記録が並ぶ中で、一つの項目にルシアンの目が留まった。


「香炉類の撤去予定」


 低く読み上げると、ヘレナの視線がわずかに落ちた。


「修繕中の離宮に、なぜ香炉がある」


「古い調度品が残されていたものと思われます」


「撤去されたのか」


「記録上は」


「記録上は?」


 ルシアンが顔を上げると、ヘレナは目を伏せたままだった。


「実際の撤去確認までは、白百合宮側では把握しておりません」


「また管轄違いか」


「……申し訳ございません」


 ルシアンは帳面を閉じた。


 謝罪がほしいわけではなかった。


 ただ、形だけの記録と、形だけの管理が重なった先に、骨が出てきた。それだけは確かだった。


「案内しろ」


 ルシアンは言った。


「現場へ行く。鍵と錠前を照合する」


 ヘレナは深く一礼した。


「承知いたしました」


 木箱の中で、三本の鍵が朝の光を受けて鈍く光っていた。


 それらは扉を開くための道具でありながら、この先へ進む者を選別する、小さな審問具のようにも見えた。


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